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暗殺貴族の溺愛ハーレム ~「守られる弱い男」を演じていたら、最強の女たちが忠誠を誓って離れません~  作者: 藤風大地
第1部 暗殺者の転生

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第4章 影の修行と、見抜く愛眼

チュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。

爽やかな朝だ。

昨夜、過去の悪夢にうなされた俺は、レグルに手を握ってもらうことで、泥のように眠ることができた。おかげで目覚めは驚くほどスッキリしている。

重かった体が軽い。霧がかかっていた頭もクリアだ。

やはり、人の温もりというのは偉大だ。孤独な夜を越えるための、何よりの特効薬だ。

……温もり?

俺はふと、違和感を覚えた。

レグルとは確か、「ベッドの端に腰掛けて手を握るだけ」という紳士協定を結んでいたはずだ。

だが、今の俺が全身で感じている感触は、明らかに違う。

右腕に感じる、柔らかく、弾力のある重み。

鼻孔をくすぐる、甘い柑橘系の香り。

そして、耳元で聞こえる、すー、すー、という規則正しい寝息。

恐る恐る目を開け、右を向く。

そこには、銀色の髪をシーツに散らし、この世の春を謳歌するかのような幸せそうな顔で熟睡しているレグルの姿があった。

彼女は俺の右腕を抱き枕のように抱え込み、その豊満な胸を押し付けている。さらに、足は俺の足に絡みつき、完全な密着状態だ。

眼鏡はサイドテーブルに置かれ、無防備な寝顔は少女のように愛らしい。

愛らしい、が。

「……話が違う」

俺が掠れた声で呟いた、その時だった。

「――起床の時間」

デジャヴ。

昨日と同じ、氷点下の声が部屋の入り口から響いた。

俺の心臓がキュッと縮み上がる。背筋に冷たいものが走る。

ゆっくりと、錆びついた機械のように首を回して視線をドアの方へ向ける。

そこには案の定、直立不動の姿勢で佇むメイドの姿があった。

冥土メイド』のリーダー、ノクト。

手には昨日と同じ銀のトレイ。だが、その上に乗っているのは体温計ではなく、なぜかピカピカに磨き上げられた巨大な園芸用の剪定バサミだった。

「お、おはようノクト。いい天気だな」

「……」

ノクトは無言だ。

彼女の黄色い瞳は、俺ではなく、俺の隣で無防備に眠るレグルに固定されている。その瞳のハイライトが、徐々に、しかし確実に消えていく。

「状況報告を求める」

彼女が短く告げた。

その声には、一切の感情が乗っていない。それが逆に、底知れぬ怒りを感じさせる。

「い、いや、これはだな。昨夜、俺が悪夢を見て、レグルが心配して……そう、あくまで『看病』の一環として……」

「却下。その報告は昨夜の時点で把握済み。私が求めているのは、なぜ『手を握るだけ』という契約が、『密着抱擁』にまでエスカレートしているのかという点。ならびに、なぜ彼女が主人の体温を独占し、あまつさえ幸福そうな顔でよだれを垂らしているのかという点」

「それは俺も知りたい! 起きたらこうなってたんだ!」

「……主人の寝込みを襲うとは。秘書失格。……剪定が必要」

ノクトが手にしたハサミをチャキッと鳴らした。

その鋭い金属音が、レグルの鼓膜に届いたらしい。

彼女の銀色の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれた。

「……んぅ……クロノス様……? もう朝ですか……?」

レグルは夢見心地のまま、さらに俺に擦り寄ってきた。

頬を俺の肩にスリスリとし、甘えた声を出す。

「まだ……あと少しだけ……このまま……むにゃ……」

「レグル! 起きろ! 命に関わるぞ! 物理的に!」

「あらぁ……? 何か凄まじい殺気を感じますが……」

レグルがぼんやりとした目で入り口を見る。

そして、鬼の形相(無表情だがオーラが羅刹)で立つノクトと目が合い――。

「ッ!?」

彼女はバネ仕掛けのように飛び起きた。

一瞬で眼鏡を装着し、乱れたガウンを整え、咳払いをする。その切り替えの早さは、さすが『四律師』だ。だが、顔は真っ赤だ。

「お、おはようございます、ノクト。……朝食の準備は?」

「現在進行中。それよりレグル、貴様への尋問が先。即決裁判を行う」

「じ、尋問? 何のことでしょう? 私はただ、悪夢に怯えるクロノス様を、身を挺してお守りしていただけですが? これもまた、忠義の一つの形かと」

「嘘。今の貴様は、主人の体温を貪るメス猫の顔をしていた。証拠映像を魔法で記録済み。のちほど城内のスクリーンで上映会を行う」

「なッ!? 盗撮ですか!? プライバシーの侵害です! 削除を要求します!」

「主人の安全管理は私の義務。害虫駆除も私の義務」

ノクトがハサミを構えて一歩踏み出す。

レグルが青ざめて後ずさる。

「ちょ、ちょっと待ってください! これは不可抗力で! クロノス様が暖かくて、つい……抱き枕にしたくなって……!」

「自白した。有罪。死刑」

「クロノス様ぁ! お助けくださいぃ!」

レグルが俺の背中に隠れる。

朝から騒がしい。あまりにも騒がしい。

昨夜のシリアスな誓いはどこへ行ったんだ。

俺は頭を抱え、深い溜息をついた。

「……二人とも、いい加減にしろ」

俺の一喝で、ようやく二人の動きが止まった。

だが、視線だけで火花を散らし合っている。

「レグル、ありがとう。おかげでよく眠れた。だが、次はもう少し距離感を考えてくれ。俺の心臓に悪い」

「は、はい……申し訳ございません……善処します……」

「ノクト、ハサミをしまえ。それと、俺の寝室に勝手に記録魔法を仕掛けるな。プライベート空間だぞ」

「……善処する。データの消去は拒否する。永久保存版としてアーカイブする」

「消せ! 絶対に消せ!」

こうして、俺の「平穏な一日」は、またしても波乱と共に幕を開けたのだった。

朝食(今日もまた肉の山だった)を終えた俺は、執務室でレグルに向き合っていた。

彼女は昨夜の一件と今朝の失態で、いつもより少し殊勝な態度で控えている。

「レグル、今日の予定は?」

「はい。午前中は領内の視察報告書の確認、午後は隣国の使者との会談……の予定でしたが、使者の到着が遅れており、明日に延期となりました。ですので、午後は比較的空いております」

「そうか。なら、頼みがある」

俺は真剣な表情を作った。

これは賭けだ。彼女たちの過保護網を突破するための、一世一代の演技だ。

「今日は、休みにしたい」

「お休み、ですか?」

「ああ。昨日の疲れがまだ残っているし、少し一人で考え事をしたい。書庫で調べ物もある。だから、今日は一日、部屋に籠もらせてくれ。誰にも邪魔されたくない」

俺がそう告げると、レグルは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。

「……やはり、昨夜の悪夢の影響でしょうか? お顔色がまだ優れません」

「まあ、そんなところだ。だから、食事も部屋に運んでくれればいい。悪いが、ティランたちの相手も頼めるか? あいつらが来ると、また城が壊れる」

「かしこまりました。クロノス様のメンタルケアが最優先です。ティランたちには、私が厳命しておきます。『今日は絶対に坊主の部屋に近づくな』と。もし破れば、おやつを一週間抜くと脅しておきます」

「助かるよ」

レグルが退室し、扉が閉まる。

足音が遠ざかるのを確認して、俺は小さくガッツポーズをした。

成功だ。

これで、今日一日は「引きこもりの虚弱な領主」として振る舞える。

だが、俺の本当の目的は休息ではない。

昨夜の誓い。

『もっと強くなる』。

それを実践するためには、彼女たちの目の届かないところで、本気の訓練をする必要がある。

昨日のティランとの訓練のように、過保護なストッパーがかかる環境では、限界を超えることはできないからだ。

「さて、やるか」

俺は部屋の中央に立ち、魔力を練り上げる。

イメージするのは、自分自身。

鏡に映る自分の姿、魔力の波長、呼吸のリズム、心音。それら全てを完璧に模倣した「影」を作り出す。

影分身シャドウ・ドペル

俺の足元の影がゆらりと立ち上がり、立体的な形を成していく。

数秒後、そこには俺と瓜二つの姿をした「もう一人のクロノス」が立っていた。

服装も、髪のハネ具合も、けだるげな表情も完璧だ。

「……よし。命令設定。ソファーで読書。時々ページを捲る。眠くなったら昼寝。誰かが来たら『疲れているから後にしてくれ』と返答」

分身は無言で頷き、ソファーに座って本を開いた。

その動作は人間そのものだ。

これは俺のオリジナル魔法の一つ。単なる幻影ではなく、実体を持たせた影人形だ。触れられても体温があるし、多少の会話もできる。

ただし、戦闘能力は皆無。ただの身代わり(デコイ)だ。

「これでアリバイは完璧だ」

俺はクローゼットの奥に隠された隠し通路を開いた。

これは先代たちが作った、城の地下深くに続く秘密の通路だ。行き着く先は、結界で守られた「裏の訓練場」。

誰にも見られず、感知されず、思う存分暴れられる場所。

俺は漆黒の訓練着に着替え、闇の中に身を投じた。

さあ、本当の訓練の始まりだ。


地下訓練場は、冷んやりとした空気に満ちていた。

石造りの広大な空間。壁には強力な防音と対衝撃の結界が何重にも施されている。

ここなら、どんな魔法を使っても地上には漏れない。

俺は準備運動もそこそこに、腰に帯びた短剣を抜いた。

まずは、女神から与えられた「ギフト」の確認と調整だ。

転生する際、女神は俺に言った。

『最強の暗殺スキルセットをあげる』と。

その言葉に嘘はなかった。むしろ、過剰すぎた。

因果逆転カジュアリティ・リバース

結果を先に確定させ、過程を省略する最強の能力。

昨日の暗殺でも使ったが、これは燃費が悪い。一度使うだけで、魔力の大半を持っていかれる感覚がある。

それに、「確定した結果」が強大であればあるほど、世界からの反動(修正力)が俺の体に跳ね返ってくる。

今はまだ、ベルベット子爵のような「ただの人間」を殺す程度だから問題ないが、もしドラゴンや、魔王クラスの存在を相手にした場合、俺の体が耐えられるか分からない。

「……微調整が必要だな」

俺は訓練場に設置された、ミスリル製の極厚装甲板(戦車の装甲より硬い)を見据えた。

全力で発動するのではなく、最小限の魔力で、ピンポイントに因果を歪める訓練。

「対象、装甲板の中心点。結果、貫通」

イメージする。

ナイフを投げる動作。それが装甲に当たり、弾かれる未来。

それを否定し、装甲の分子結合が偶然解け、ナイフが抵抗なくすり抜ける未来を「選択」する。

ヒュッ。

俺がナイフを放り投げると、それは吸い込まれるように装甲板へ飛び、音もなく突き刺さった。

まるで豆腐に針を刺したようだ。

「……くっ」

同時に、軽い目眩が俺を襲う。

魔力の消費量は抑えられた。だが、脳への負担が大きい。

物理法則を騙すというのは、精神をごりごりと削られる作業だ。

まだだ。もっとスムーズに。呼吸をするように自然に、世界の理を書き換えなければならない。

「……ふぅ。次は、基礎能力の底上げだ」

最強のスキル『因果逆転』は強力だが、万能ではない。発動には一瞬の思考が必要であり、その隙を突かれれば死ぬ。

それに、身体という「器」が脆ければ、強力な出力に耐えきれずに自壊してしまう。

必要なのは、スキルに頼らずとも敵を圧倒できる、純粋な暴力装置としてのスペックだ。

俺は呼吸を整え、体内の魔力回路を開いた。

身体超強化オーバー・ブースト

全身の筋肉繊維一本一本に魔力を流し込み、リミッターを外して限界を超えた出力を強制するスキル。

血管が軋み、骨がきしむ音が体内で響く。

普通なら激痛で動けなくなる負荷だが、俺はそれを快感として受け入れる。

俺は短剣を逆手に持ち替えた。

狙うは、十メートル先に設置された鉄製の木人。

「シッ!」

ただの踏み込み。ただの突き。

だが、その速度は音速に迫る。

本来ならソニックブームが発生し、爆音が鳴り響くはずだが、俺は同時に別のスキルを並列起動させている。

絶音サイレント

風切り音、足音、衣擦れの音。発生する全ての振動を魔力で吸収し、無音化する暗殺者の必須技能。

ズンッ。

何の予備動作もなく、音もなく、鉄の木人の胸部に風穴が開いた。

俺が通り過ぎた後に、遅れて木人が崩れ落ちる。

「……まだ遅い。思考と動作のラグをゼロにしろ」

俺は自分に厳しい採点を下す。

次は、魔法だ。

この世界では「詠唱」が一般的だが、暗殺の現場で悠長に詩を歌っている暇はない。

思考加速アクセラレート

脳内麻薬を分泌させ、体感時間を引き伸ばす。

世界がスローモーションになる。舞い散る埃が止まって見える静止した世界の中で、俺は魔力を練り上げる。

【多重・無詠唱魔術マルチ・サイレント・キャスト

派手な爆裂魔法はいらない。暗殺に必要なのは、隠密性と確実性。

俺の影から、どす黒い魔力が滲み出し、数十本の鋭利な針へと形を変える。

闇穿ダーク・ピアス

「――穿て」

指先一つ動かさず、思考だけで針を射出。

全方位から、目に見えない死角を突く複雑な軌道を描き、訓練場に並べた的を次々と蜂の巣にしていく。

的確に。心臓、喉、眼球。急所のみを穿つ。

剣と魔法。肉体と魔力。

それらを個別に鍛えるだけでは足りない。

全てを複合させ、一つの『死の舞踏』へと昇華させる。

次は、それらを乗せた機動力の強化だ。

俺は訓練場の床を蹴った。

影渡シャドウ・ウォーク

影から影へ、亜空間を経由して移動する転移術。

俺の体が一瞬で溶け、十メートル離れた柱の影から飛び出す。

着地と同時に剣を振るう。

再び影へ。次は天井の影から。その次は瓦礫の影から。

高速移動の連続。

三半規管が悲鳴を上げる。

普通の人間なら、平衡感覚を失って嘔吐するレベルの機動だ。

だが、止まらない。

父の死に様が、俺を駆り立てる。

あの時、俺がもっと速ければ。もっと強ければ。

父を救えたかもしれない。レグルを泣かせずに済んだかもしれない。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

汗が滝のように流れる。

筋肉が軋み、肺が熱い。

だが、心地よい。

「守られるだけの男」という仮面を脱ぎ捨て、ただの「戦士」として肉体を酷使する感覚。

これこそが、俺が求めていた「生」の実感だ。

俺は無心で剣を振るった。

仮想敵イメジは、かつて父を殺した『魔女教団』の狂信者たち。そして、これから現れるかもしれない、未知の強敵たち。

ティランの剛剣を想定して受け流し、リゼの速さを想定して追いかける。ヴネナンの毒を想定して呼吸を止める。

彼女たちの強さを知っているからこそ、それが最高の訓練相手になる。

時間を忘れた。

何時間経っただろうか。

床には汗の水たまりができ、俺の息は絶え絶えだった。

魔力は枯渇寸前。体力も限界。

だが、剣筋は鋭さを増していた。

「……ふぅ。今日は、このくらいにしておくか」

俺は膝に手をつき、荒い呼吸を整えた。

充実感があった。

少しずつだが、確実に強くなっている。女神のチートスキルに頼り切りになるのではなく、それを使いこなす「器」としての自分が成長している手応え。

タオルで汗を拭おうと、腰に手を伸ばした時だった。

「……随分と、精が出ますね」

背後から、声がした。

冷たく、静かで、しかし確かな存在感を持った声。

俺は凍りついた。

心臓が止まるかと思った。

ここは地下深くの隠し訓練場。入り口は俺の部屋のクローゼットのみ。しかも何重もの認識阻害結界を張っていたはずだ。

誰も入れるはずがない。誰も気づくはずがない。

俺は最強の隠密スキルを持っているはずだ。

恐る恐る振り返る。

暗闇の中、二つの黄色い瞳が、猫のように光っていた。

そこに立っていたのは、ノクトだった。

いつものメイド服姿。手には真っ白なバスタオルと、冷えたスポーツドリンクのボトルを持っている。

表情は相変わらず読めない。怒っているのか、呆れているのか。

「……ノクト、か」

「はい。掃除の時間になったので」

「いや、ここは掃除場所じゃないだろう。……どうやって入った?」

俺の問いに、彼女は小首を傾げた。

「クロノス様の部屋を掃除しようとしたら、ソファーでクロノス様(偽物)が本を読んでいた」

「……影分身は完璧だったはずだが」

「完璧だった。魔力構成も、見た目も、体温も。普通の人間なら騙せる」

「じゃあ、なぜ」

魔素マナの反応が違う」

ノクトは淡々と言った。

「魔素反応?」

「はい。クロノス様本人の魔素は、もっと……温かくて、微かに揺らいでいる。でも、あの分身からは、均一で冷たい魔素の反応しかなかった。ただの精巧な人形」

「……」

「それに、クローゼットの奥から、微細な魔力の残滓が漏れ出ていた。アリの這うような隙間から、クロノス様の魔力が呼んでいる気がした」

「呼んでない」

「いいえ、呼んでいた。『ノクト、見つけてくれ』と。だから、私は『魔法感知マジック・ソナー』を最大出力で展開し、迷路のような結界を逆探知してたどり着いた」

彼女は事も無げに言う。

魔素の揺らぎを感じ取り、何重もの結界を逆探知したというのか。

彼女は戦闘だけでなく、索敵能力においても俺の想像を遥かに超えている。

いや、それ以前に……。

「……俺は、お前に隠し事ができる気がしないな」

俺はため息をついた。

完敗だ。

最強のスキルも、古の隠し通路も、この女の「愛(執着)」の前では無力らしい。

「……怒らないのか? 『休む』と嘘をついて、勝手に出歩いたことを」

俺は覚悟を決めて尋ねた。

レグルなら、泣きながら説教を始めるところだ。ティランなら、俺を担いで部屋に連れ戻すだろう。

だが、ノクトは違った。

彼女は静かに近づいてくると、持っていたタオルを広げ、俺の首元にふわりとかけた。

「……汗だく」

「ああ、かなり動いたからな」

「無茶をした。筋肉が悲鳴を上げている。魔力もスカスカ」

彼女はタオルの上から、俺の首筋や髪を優しく拭き始めた。

その手つきは、叱責するような乱暴さはなく、驚くほど慈愛に満ちていた。

「……怒ってる。主人が嘘をついたこと。自分の体を粗末にしたこと。私を頼ってくれなかったこと」

「すまん」

「謝罪は不要。……その代わり、罰を与える」

ノクトはタオルをずらし、俺の顔を覗き込んだ。

その黄色い瞳が、至近距離で俺を捉える。

「罰?」

「はい。……執務室を許可なく離れ、護衛もつけずに一人で行動した罪は重い。もし、ここに敵が侵入していたら? もし、訓練中に事故が起きていたら? 私たちは、クロノス様の死に目に会うことすらできなかった」

「……うッ」

痛いところを突かれた。

彼女の声は静かだが、そこには痛切なまでの恐怖が含まれていた。

彼女もまた、俺を失うことを何よりも恐れているのだ。

「だから、罰として……このまま私に世話をされること」

「え?」

「汗をかいたままでは風邪を引く。ここで新しい服に着替えて。私が全部拭いて、着替えさせてあげる」

彼女は背中に隠し持っていた新しい着替え(なぜ持っている)を取り出した。

「いや、自分で拭けるし、自分で着られる」

「却下。今は魔力枯渇で指一本動かすのも億劫なはず。主人の介護はメイドの義務」

「介護じゃなくて世話だろ……」

「同じこと」

ノクトは有無を言わせず、俺の汗ばんだ訓練着に手をかけた。

抵抗しようとしたが、確かに今の俺には、彼女を押し返すだけの体力は残っていなかった。

それに、彼女の瞳の奥にある色が、それを許さなかった。

心配と、安堵と、そして深い愛情。

『見つけてよかった』『無事でよかった』という思いが、痛いほど伝わってくる。

「……分かった。降参だ」

俺は両手を上げた。

彼女には敵わない。

結局、俺は地下訓練場でノクトに全身を拭かれ、着替えさせられるという辱めを受けた。

彼女は俺の体の隅々まで(本当に隅々まで)丁寧に拭き上げ、満足そうに頷いた。

「……綺麗になった」

「ああ、おかげさまでな」

「肌の質感、筋肉の張り、向上している。……努力の証」

彼女はボソリと呟いた。

俺が隠れて特訓していたことを、咎めるのではなく、認めてくれているようだった。

父の死を乗り越えようとする俺のあがきを、彼女なりに理解してくれているのかもしれない。

「ありがとう、ノクト」

「……お礼には及ばない」

彼女は少しだけ顔を赤らめ、すぐにそっぽを向いた。

「さて、戻るか。レグルたちが心配する前に」

「待って」

帰ろうとした俺の袖を、ノクトが掴んだ。

「まだ、本当の罰は終わっていない」

「え? まだあるのか?」

「勝手に執務室を離れたことへのペナルティ。レグルに報告されたくなければ……」

彼女は鋭い視線を俺に向けた。

「……次の休日は、私とデートする」

「はい?」

「二人きりで。街へ買い物に行く。護衛は私一人。他の邪魔者は排除する」

ノクトは顔を真っ赤にしながら、しかし視線は逸らさずに言った。

それは脅迫というよりは、不器用な誘いだった。

「……それが条件か?」

「不服?」

「いや……喜んで。俺でよければ」

「……契約成立」

彼女は小さくガッツポーズをした(可愛い)。

「では、戻りましょう、クロノス様。……レグルには『書庫で一緒に本を探していた』と報告しておく」

「共犯者になってくれるのか」

「今回だけ。……貴方の影は、私が守るから」

ノクトは俺の手を取り、地下通路の暗闇を歩き出した。

その手は小さくて冷たかったが、握り返す力は強かった。


俺は苦笑しながら、彼女の後ろをついていく。

最強への道は険しい。

だが、こんな「愛ある監視者」がいるのなら、悪くないかもしれない。

そう思いながら、俺は地下の闇を抜け、再び騒がしくも温かい光の差す地上へと戻っていくのだった。

地下訓練場から戻り、隠し通路を通って自室に戻った頃には、窓の外はすでに茜色に染まっていた。

日が暮れている。

俺は愕然とした。修行に没頭しすぎて、時間の感覚が完全に麻痺していたのだ。

時計を見れば、もうすぐ夕食の時間だ。

「……やりすぎたな」

俺は部屋の中を見渡した。

ソファーには、朝に設定した通り、俺の『影分身』が座って本を読んでいる。

ただひたすらに、機械的にページをめくり続けている。もう最終ページまで到達し、そこから先はないのに、虚空をめくる動作を繰り返している。シュールだ。

「……解除」

俺が指を鳴らすと、分身は音もなく影へと溶けて消えた。

そして、テーブルの上には、冷え切った昼食が手つかずのまま置かれていた。

サンドイッチと、ポットに入った紅茶。それに添えられたメモ。

『読書のお邪魔をしてはいけないと思い、置いておきます。無理をなさらず、栄養を摂ってくださいね。レグルより』

「……罪悪感がすごい」

俺は冷たいサンドイッチを口に詰め込んだ。

味はしなかったが、レグルの気遣いが胸に染みた。彼女は俺が部屋に籠もっていると信じて、静かに見守ってくれていたのだ。

それを裏切って、地下で汗を流していたなんて知れたら、彼女はまた泣くかもしれない。

「……急いで着替えて、何食わぬ顔で執務室へ行こう」

ノクトに着替えさせてもらった新しい服を整え、俺は部屋を出た。

廊下は夕暮れの静寂に包まれている。

執務室へと向かう道すがら、俺は背筋を伸ばし、威厳ある当主としての歩き方を意識した。

だが、俺は失念していた。

ノクトが拭いてくれたとはいえ、極限まで肉体を酷使した直後の体からは、隠しきれない熱気と、男のフェロモンとも呼べる独特の匂いが立ち昇っていることを。

「あらぁ~? くんくん……この匂いは……?」

廊下の角を曲がろうとした時、甘ったるい声がした。

心臓が跳ねる。

そこにいたのは、白衣を羽織ったヴネナンだった。

手には怪しげな薬瓶を持っているが、彼女の意識は完全に俺――正確には俺の匂い――に向いている。

「お、お疲れ様、ヴネナン」

「お疲れ様ですぅ、坊っちゃま。……あれぇ? おかしいわねぇ」

彼女は蛇のように音もなく近づいてくると、俺の首筋に顔を埋めるようにして匂いを嗅いだ。

鼻先が肌に触れる。冷たい。

「今日は一日、お部屋で読書をされていたと伺っていましたけどぉ……?」

「あ、ああ。そうだよ。ずっと本を読んでいた」

「嘘おっしゃい。……この匂い、ただの汗じゃないわね」

ヴネナンが妖艶に目を細める。その瞳孔が開いている。

彼女は恍惚とした表情で、自分の唇を舐めた。

「極限まで筋肉を収縮させ、魔力を燃焼させた時にだけ分泌される、最高純度の『雄の汗』の香り……! あぁん、たまらないわ! 脳髄が痺れるような刺激臭! これを採取して香水にすれば、国中の女が発情して暴動が起きるわよぉ!」 「やめろ! 変な発情をするな!」 「ダメよぉ、我慢できないっ! ねぇ坊っちゃま、今すぐ採血させて? 血液中の乳酸値を測定したいの! ついでにアドレナリン濃度も! そのまま解剖して、筋肉の断面図も見たいわぁ!」

ヴネナンが理性を飛ばして抱きついてきた。

その力は強く、白衣の下の豊満な肢体が押し付けられる。

彼女は『水麻』のリーダーであり、毒と薬のスペシャリストだが、根っこはマッドサイエンティストだ。興味対象(俺)に対しては、倫理観が消滅する。

「離せ! ヴネナン! 廊下だぞ!」

「関係ないわぁ! 今ここで実験開始よぉ! まずは触診から……!」

彼女の手が俺の服の中に侵入してくる。冷たい指が腹筋をなぞる。

まずい。このままでは廊下で襲われる。

ドゴォォォォォォンッ!!

その時、廊下の壁が爆発した。

物理的な破壊音と共に、瓦礫が飛び散り、土煙が舞う。

「な、なんだ!?」

「きゃっ、ムードぶち壊しねぇ」

土煙の中から現れたのは、巨大なバスターソードを担いだ赤髪の戦士だった。

ティランだ。

彼女は目を血走らせ、鼻息も荒く俺たちを睨みつけている。

「おいコラァ!! ヴネナン! 抜け駆けしてんじゃねぇぞ!!」

「あら、ティランちゃん。耳がいいのねぇ」

「耳じゃねぇ! 鼻だ! 宿舎にいても分かったぞ! 坊主から美味そうな匂いが漂ってきやがって! これは『戦い』の匂いだろ!」

ティランがズカズカと近づいてくる。

彼女もまた、俺の「変化」に敏感な一人だ。戦闘狂である彼女は、俺が纏う闘気や、筋肉の緊張状態を本能で感じ取ったらしい。

「坊主! お前、隠れてコソコソ修行してただろ!?」

「ッ!?」

「誤魔化しても無駄だぞ! その立ち方、重心の位置、そして筋肉の張り! 一日中本を読んでたやつの体じゃねぇ! 獲物を狩って帰ってきた獣の体だ!」

バレた。

完全にバレた。

ノクトの完璧な隠蔽工作も、この野生児たちの本能の前には無意味だった。

「……へぇ、そうなのぉ? 坊っちゃま、悪い子ねぇ。私たちに隠れて、一人で気持ちよくなってたなんて」

「俺も混ぜろよ! ずるいぞ! 俺だって坊主と汗を流したかった!」

二人が詰め寄ってくる。

前門の変態マッド、後門の戦闘狂バーサーカー

逃げ場はない。

「クロノスさま! 今日のお仕事も終わりました! ……あ!」

さらに、追い打ちをかけるように、廊下の窓からリゼが飛び込んできた。ここは三階だが、彼女には関係ないらしい。 彼女は着地するなり、俺たちの状況を見て頬をぷくっと膨らませた。

「ずるいです! 抜け駆けはずるいです! イチャイチャしてるぅぅ!」

リゼは弾丸のように突っ込んでくると、空いている俺の正面から腰にしがみついた。 右にヴネナン、左にティラン、正面にリゼ。 密着包囲網が完成した。暑苦しいことこの上ない。

「混ぜてくださいよぉ!」

「リゼ、これはイチャイチャじゃない。カツアゲに近い」

「えっ!? カツアゲ!? じゃあ私もクロノスさまから何か奪います! ……唇がいいですっ!」

リゼが俺の首に腕を回し、顔を寄せてくる。 背中にはリゼ、前にはヴネナン、後ろにはティラン。 物理的にも精神的にも圧死寸前だ。

「騒がしいですね。何事ですか?」

そこへ、トドメの一撃とばかりに、執務室の扉が開いた。

現れたのは、完璧に整えられたメイド服を着たレグルだった。

朝のデレデレした様子は微塵もない。銀縁眼鏡を光らせ、手には分厚いバインダーを持っている。完全な仕事モードだ。

「レ、レグル……」

「クロノス様。……どうして、廊下でそのような破廉恥な体勢になっているのですか? ヴネナン、離れなさい。ティラン、壁の修理費は給与から引きます」

レグルは淡々と指示を出し、二人を引き剥がした。

助かった。そう思ったのも束の間、彼女は俺の目の前に立ち、眼鏡の奥の瞳を細めた。

「……クロノス様。ご報告では、本日は一日中読書をされていたと伺っておりましたが?」 「あ、ああ。そうだよ」 「では、なぜ服の下に隠せないほどの闘気を纏っておられるのですか? なぜ、昼食には手もつけず、代わりにスポーツドリンクのような匂いをさせているのですか?」

彼女の視線が、俺の首元に向けられる。

そこには、ノクトが巻いてくれたタオルがまだ残っていた。

「そして、そのタオル。……ノクトの私物ですね。刺繍があります」

詰んだ。

動かぬ証拠だ。

「……説明して、いただけますね?」

レグルの背後に、どす黒いオーラが立ち昇る。

それは怒りではない。悲しみでもない。

「また私に隠し事をしたのですね、お仕置きが必要ですね」という、慈愛に満ちた(歪んだ)執行猶予なしの判決だった。

俺は天を仰いだ。

ノクト。すまない。お前の完璧な作戦は、俺の詰めが甘かったせいで崩壊した。

そして、この城の女たちは、俺のことになると探偵並み……いや、猛獣並みの嗅覚を発揮することを忘れていた。

廊下の陰で、気配を消して様子を窺っていたノクトが、小さく額に手を当てて首を振るのが見えた。

『馬鹿な主人』と口パクで言われた気がした。

こうして、俺の秘密の特訓は、わずか一日で露見した。 その夜、俺は五人に囲まれ、朝までたっぷりと「尋問」と「ケア(という名の過剰スキンシップ)」を受けることになったのは、言うまでもない。 最強への道は、やはり険しい。

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