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暗殺貴族の溺愛ハーレム ~「守られる弱い男」を演じていたら、最強の女たちが忠誠を誓って離れません~  作者: 藤風大地
第1部 暗殺者の転生

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第3章 血塗られた記憶と、継承される意志

第1節 静寂の底へ

嵐のような一日が終わった。

ダイニングホールでの「肉争奪戦」という名の局地戦争の後、俺たちは壊れた食器の片付けに追われた。主にレグルとノクトが魔法で修復し、俺が破片を拾い集めるという地味な作業だ。

その後も、興奮冷めやらぬティランたちが「寝る前にハグをさせろ」だの「子守唄を歌ってくれ」だのとゴネたため、それぞれの自室へ追い返すのに一苦労した。

最後に、執拗に「寝かしつけ(という名の同衾)」を要求するヴネナンとリゼを、心を鬼にして部屋から閉め出し、二重に鍵をかけて、ようやく俺の寝室に静寂が訪れた。

深夜二時。

かつて、前世の俺がトラックに轢かれたのと同じ時刻だ。

天蓋付きのキングサイズベッドに横たわり、俺は高い天井を見上げていた。

静かだ。

昼間の喧騒が嘘のように、ナイトレイ城は深い闇と静寂に包まれている。聞こえるのは、窓の外で風が木々を揺らす音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけ。

枕元には、レグルが用意してくれた安眠用のアロマが微かに香っている。

「……疲れたな」

独り言が、闇に溶けていく。

肉体的な疲労はない。女神から与えられた最強の暗殺者としての体は、この程度の活動で悲鳴を上げたりはしない。

だが、精神の奥底に澱のような重さが溜まっているのを感じる。

それは、今日の平和すぎる日常が、あまりにも眩しかったからかもしれない。

彼女たちの笑顔。

過剰なまでの愛情。

常識外れの馬鹿騒ぎ。

それが当たり前であればあるほど、幸せであればあるほど、俺の心の奥底にある「恐怖」が首をもたげる。

この世界は、優しいようでいて、残酷だ。

平和な日常の皮一枚下には、ドス黒い闇と、理不尽な暴力が渦巻いていることを、俺は誰よりも知っている。

――いつか、これが壊れてしまうのではないか。

――また、俺の目の前で、誰かがいなくなってしまうのではないか。

そんな予感が、俺を眠りへと誘うと同時に、意識を深い深淵へと引きずり込んでいく。 まぶたが鉛のように重くなる。 抗えない睡魔の中で、俺は予感していた。 今夜は、悪い夢を見るだろうと。 あの、血と泥と鉄錆にまみれた、決して忘れることのできない夜の夢を。

冷たい雨が降っていた。

肌を刺すような、氷の針のような雨だ。

視界は灰色に染まり、地面は泥と血でぬかるんでいる。足を取られるたびに、泥水が口に入り、鉄錆のような味が広がる。

いや、これは鉄錆ではない。血の味だ。

新鮮で、温かい、人間の血の臭いが、雨の冷たさと混じり合って充満している。

俺は走っていた。

足が重い。体が小さい。視線が低い。

今の俺ではない。これは、まだ俺が十歳だった頃の記憶。

「クロノス・ナイトレイ」として生を受け、前世の記憶と人格を取り戻しつつあった時期の、忘れられない夜の記憶だ。

「走れ! クロノス! 振り返るなッ!!」

背後で、裂帛の怒号が響く。

父の声だ。

ヴィクター・ナイトレイ。

先代のナイトレイ辺境伯であり、俺の前任の暗殺組織の長。

厳格で、無口で、けれど誰よりも俺を愛してくれた、偉大な父。

その父の背中が、今の俺にはひどく小さく、そして遠く見えた。

俺は父の背中に守られながら、必死に泥道を駆けていた。

場所は、国境付近の古戦場跡。

王国の闇を暴くための極秘任務だった。だが、それは罠だった。

情報が漏れていたのだ。内通者がいたのか、それとも最初から仕組まれていたのか。

俺たちを待ち受けていたのは、敵対する貴族派閥が雇った数百の傭兵団と、そして――『魔女教団』の狂信者たちだった。

「ギャハハハハ! 逃がすかよぉ! 男狩りだぁ! 希少な貴族の種馬だぞ、生け捕りにしろぉ!」

「手足を斬り落としてでも連れてこい! 女王への供物にするのだ!」

下卑た笑い声と共に、無数の魔法弾が雨あられと降り注ぐ。

炎が、雷が、氷が、俺たちの周囲を破壊していく。轟音が鼓膜を叩き、爆風が幼い俺の体を吹き飛ばそうとする。

「お守りします! 旦那様、若様!」

俺たちの前に立ち塞がったのは、五人の影だった。 今のティランたちではない。 先代の『四律師』と、各部隊のリーダーたち。 俺が幼い頃から面倒を見てくれ、剣を教え、魔法を教え、母のように、姉のように接してくれた、歴戦の猛者たちだ。

「『火怒ガード』、展開! 敵の前衛を焼き払え!」

先代の火怒リーダー、ガレアが叫ぶ。

彼女は大斧を振り回し、炎の壁を作り出して敵兵を食い止める。その背中は山のように大きく、頼もしかった。

彼女はいつも俺を肩車して、「若様は私が守ってやるからな!」と豪快に笑っていた。

だが。

「無駄よ。神の御前では、すべては無力」

敵陣の奥から、冷ややかな声が響いた。

次の瞬間、空が割れた。

巨大な紫色の魔法陣が出現し、そこから極大の重力魔法が、神の鉄槌のように降り注いだ。

「ぐ、ぁぁぁッ!?」

ガレアの体が、見えない巨大な手で押し潰されたようにひしゃげた。

鎧が砕け、骨が折れる音が、雨音の中でもはっきりと聞こえた。

彼女は血を吐きながらも、最期まで斧を手放さず、俺たちに背を向けたまま絶命した。

俺を守る壁として、立ち往生を遂げたのだ。

「ガレアッ!!」

父の悲痛な叫び。

だが、絶望は連鎖する。

「風の情報網、遮断された!?」

上空を偵察していた先代の風音リーダーが、無数の魔導弓アーティファクトによって撃ち抜かれた。

鳥のように舞い落ちてくる彼女の体は、針山のように矢が突き刺さっていた。

いつも俺に木の実を届けてくれた、優しい風のお姉さんが、ボロ雑巾のように地面に叩きつけられる。

「毒が……効かない……? まさか、アンデッド兵……?」

敵兵の中に紛れ込んでいた自爆用の死体兵器が、先代の水麻リーダーに抱きつき、自爆した。

緑色の爆炎が彼女を飲み込む。断末魔さえ上げる暇もなく、彼女は消滅した。

怪我をした俺に、痛くないように包帯を巻いてくれた彼女の手は、もうどこにもない。

次々と。

あまりにも呆気なく。

俺が「最強」だと信じていた大人たちが、虫けらのように殺されていく。

これが、この世界の「戦場」だった。

女尊男卑? 男は守られるもの?

そんな生温い常識は、ここにはない。あるのは、純粋な暴力と殺意、そして「弱者は死ぬ」という絶対的な真理だけだ。

「くそッ……! 全員、撤退だ! 俺が殿しんがりを務める! レグル、クロノスを連れて逃げろ!」

父が剣を抜いた。

ナイトレイ家に代々伝わる、漆黒の魔剣。

父の背中から、どす黒い闘気が噴き出す。彼は強かった。間違いなく、当時の王国で五本の指に入る実力者だった。

だが、多勢に無勢。

それに加え、今の父には致命的な弱点があった。

――俺だ。

守らなければならない、足手まといの荷物。

「嫌だ! 父上! 俺も戦う!」

幼い俺は叫んだ。

この時、俺はすでに前世の記憶を取り戻しつつあり、『因果逆転』のスキルも発現していた。

だが、使いこなせていなかった。

女神から与えられた力はあまりにも強大で、十歳の幼い肉体と魔力回路では制御できず、発動しようとすれば反動で俺自身の体が自壊してしまう状態だったのだ。

ナイフ一本すら握れない。

ただの、無力な子供。

「馬鹿者ッ!!」

父が俺を怒鳴りつけた。

振り返ったその顔は、今まで見たこともないほど必死で、そして恐怖に歪んでいた。

自分の死への恐怖ではない。息子を失うことへの恐怖だ。

「お前は生きろ! ナイトレイの血を、意志を絶やすな! 男だから弱い? 関係ない! お前は私の息子だ! 誰よりも強く、気高く生きろ!」

父の手が、俺の胸元を掴み、後方へと突き飛ばした。

俺の体は宙を舞い、泥の中に転がる。

「レグル! 頼んだぞ!」

「……ッ! 御意!」

俺を受け止めたのは、まだ少女の面影を残すレグルだった。

彼女は当時、先代の冥土部隊の副官であり、父の秘書見習いだった。銀色の髪を泥で汚し、眼鏡は割れかけている。

彼女の瞳から、涙が溢れ出している。だが、彼女は歯を食いしばり、俺を米袋のように担ぎ上げて走り出した。

「離せ! 父上が! 父上が死んでしまう!」

「なりませぬ! 当主様の御命令です! 若様を生かすこと、それが最優先事項!」

レグルの腕の中で、俺は暴れた。

涙で滲む視界の端で、父が敵の大軍に単騎で突っ込んでいくのが見えた。

剣閃が走り、数十人の敵が吹き飛ぶ。

鬼神のごとき強さ。

だが、敵の魔法使いが一斉に詠唱を開始する。

「――消えろ、異端の男よ」

無慈悲な声と共に、数百発の炎弾、氷槍、雷撃が、たった一人の人間に集中した。

空を埋め尽くす魔法の光。

「うぉぉぉぉぉぉッ!!!」

父の咆哮。

彼は逃げなかった。避ければ、その背後の延長線上にいる俺たちに魔法が届くからだ。

彼は全ての攻撃を、その身一つで受け止めた。

肉が焼ける臭い。骨が砕ける音。

光の奔流の中で、父のシルエットが徐々に崩れ落ち、削り取られていく。

「ちち、うえ……?」

俺の喉から、ひゅっ、と空気が漏れた。

光が収まった時、そこに立っていたのは、炭化し、原型を留めていない「何か」だった。

それでも、その「何か」は倒れず、剣を杖にして立ち続け、虚ろな眼窩で敵を睨みつけていた。

俺たちが逃げる時間を、一秒でも稼ぐために。

最期の瞬間まで、父であり続けた。

死んでいる。

どう見ても、即死だった。

父は、立ったまま死んでいた。

「あ、ああ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」

俺の絶叫が、雨音を引き裂いた。

視界が赤く染まる。

激しい頭痛。魂が焼き切れるような熱。

無力感。後悔。憎悪。

――力が欲しい。

――理不尽をねじ伏せる、絶対的な力が。

――誰も死なせない、誰も奪わせない、最強の力が。

その瞬間、俺の中で何かが「カチリ」と嵌る音がした。

脳裏に、あの女神の嘲笑が響いた気がした。


『だから言ったでしょ? 苦労するって。……さあ、力を使いなさい』

俺の意識は、そこで暗転した。

「――ッ!?」

俺は弾かれたように飛び起きた。

心臓が早鐘を打っている。呼吸が荒い。ぜぇ、はぁ、と獣のような息が漏れる。

全身がびっしょりと冷や汗で濡れていて、シルクのパジャマが肌に張り付いて不快だ。

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

暗闇の中、自分の荒い呼吸音だけが響く。

震える手で顔を覆う。指先が氷のように冷たい。

夢だ。

分かっている。あれは十年以上前の出来事だ。

父はもういない。先代たちもいない。

俺は生き延びた。生き延びて、力を制御し、父の跡を継いだ。

敵対組織は、俺が初陣で殲滅した。『魔女教団』の支部も、三年かけて根絶やしにした。関係者は一人残らず、この手で地獄へ送った。

復讐は終わったはずだ。

なのに、なぜ。

「……まだ、忘れられないのか」

俺はベッドから降りた。

足元がふらつく。

サイドテーブルの水差しから、直接水を煽る。冷たい水が喉を通り、少しだけ理性が戻ってくる。

時計を見る。午前三時半。

もう一度眠れる気はしなかった。あの光景を見た後では、目を閉じるのが怖い。目を閉じれば、またあの雨音が聞こえてくる気がした。

俺は上着を羽織り、部屋を出た。

目的地はない。ただ、じっとしていられなかった。

廊下は静まり返っている。

いつものように、ノクトやレグルが警備に立っている気配はない。今夜は彼女たちも、昼間の騒動で疲れて眠っているのだろう。

いや、気配を消して見守っているのかもしれないが、今の俺にはそれを探る余裕もなかった。

足は自然と、城の最深部――地下書庫へと向かっていた。

ナイトレイ城の地下書庫。

そこは、歴代当主のみが入室を許される、一族の秘中の秘が眠る場所だ。

重厚な魔術錠を、俺の指紋と魔力パターンで解除する。

重い扉が軋んだ音を立てて開くと、古紙とインク、そして防腐剤の独特な香りが鼻孔をくすぐった。

魔導ランプの薄暗い灯りの中、無数の本棚が並んでいる。

俺はその中の一つ、一番奥にある黒い本棚の前で足を止めた。

そこに収められているのは、一冊の分厚い古書。

『ナイトレイの血の掟』と記された、初代当主が残した手記だ。

俺は震える手で、そのページを開いた。

『――我ら一族は、影なり。光ある所に影があるように、王国の光(女王)ある所に、我ら闇(暗殺者)あり。男児のみが当主となり、その血をもって国の穢れを祓うべし』

古めかしい文字で記された、呪いのような家訓。

この世界で、なぜナイトレイ家だけが「男系」を維持し、暗殺業を営んでいるのか。

それは、この国が成立した時の契約に基づいているらしい。

女性が表舞台で輝くために、汚れ仕事を一手に引き受ける「生贄」としての男性貴族。それが俺たちだ。

表向きは「守られる弱い男」として扱われながら、裏では国のために手を汚し、そして誰にも知られずに死んでいく。

「……父上も、これを読んだのだろうか」

ページを捲る。

歴代当主たちの名前と、その死に様が記されている。

畳の上で死んだ者はほとんどいない。皆、戦場で、あるいは暗殺の現場で、誰かを守って死んでいる。

父、ヴィクター・ナイトレイの名前もあった。

死因:『名誉の戦死』。

たったそれだけ。あんなに壮絶な最期が、たった五文字で片付けられている。

「……ふざけるな」

俺は本を閉じようとした。

その時、本の間から一枚の紙片が落ちた。

羊皮紙の切れ端だ。

そこには、震えるような走り書きで、こう書かれていた。

『クロノスへ。

お前がこれを読んでいるということは、私はもういないのだろう。

すまない。重荷を背負わせる。

だが、忘れるな。

お前は「道具」ではない。ナイトレイの使命は呪いではない。

誰かを守るために力を振るうこと。それは、男として最も尊い生き方だ。

愛する者を見つけろ。その者のためなら、命さえ惜しくないと思えるような、大切な家族を作れ。

それが、最強への近道だ』

父の字だった。

いつ書いたものかは分からない。死ぬ間際に書いたものではないだろう。きっと、いつかこうなることを予期して、ここに挟んでおいたのだ。

「……愛する者、か」

脳裏に浮かぶのは、今の部下たちの顔だ。

肉を食らいながら豪快に笑うティラン。

怪しい薬を調合して迫ってくるヴネナン。

無邪気に敵を屠り、褒めてほしがるリゼ。

無表情で掃除をし、俺に執着するノクト。

そして、眼鏡を光らせてスケジュールを管理するレグル。

あの日、父が死んだ日。

俺は全てを失ったと思った。

だが、俺には残されたものがあった。

父が命懸けで守り、俺に託してくれたもの。

それは「命」だけではない。「絆」だ。

「……クロノス様?」

静寂を破る声。

入り口の方を振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。

レグルだ。

いつもの完璧なメイド服ではなく、薄手のガウンを羽織っただけの姿。

銀色の髪を下ろし、眼鏡も外している。その素顔は、昼間の有能な秘書とは違い、どこかあどけなさと、深い憂いを帯びていた。

「……レグルか。起こしたか?」

「いえ。気配が消えたので、もしやと思いまして」

彼女は静かに近づいてくる。

その目は、俺の手にある古書と、父の手紙に向けられていた。

「……夢を、ご覧になったのですか」

「ああ。最悪の目覚めだったよ。……あの日の夢だ」

俺がそう告げると、レグルの表情が歪んだ。

悲痛な色。後悔の色。

彼女にとっても、あの日はトラウマだ。

敬愛する主(父)を失い、守るべき若君(俺)を抱えて逃げるしかなかった屈辱。

当時、まだ十五歳だった彼女が背負うには、あまりにも重すぎる十字架だったはずだ。

彼女の師であった先代のリーダーたちも、あの日全員死んだのだから。

「……申し訳ございません」

レグルはその場に跪いた。

冷たい石床に膝をつき、深く頭を下げる。

「あの日、私がもっと強ければ。私が旦那様の盾になれていれば。クロノス様に、あんな悲しい思いをさせずに済んだのに……」

「よせ。お前がいなければ、俺は死んでいた」

「いいえ! 私は……私は、無力でした!」

レグルの肩が震える。

彼女の目から、大粒の涙が零れ落ちる。

昼間、あんなに毅然としていた彼女が、子供のように泣いている。

これが、彼女の「闇」だ。

彼女の過剰なまでの過保護さ、完璧主義、俺への執着。

それは全て、「二度と失いたくない」という恐怖の裏返しなのだ。

彼女もまた、あの日の呪縛に囚われている。

俺は本を置き、彼女の前にしゃがみ込んだ。

そして、震える彼女の肩に手を置いた。

「レグル、顔を上げろ」

「……合わせる顔が、ございません」

「命令だ。俺を見ろ」

ゆっくりと、彼女が顔を上げる。

涙で濡れた銀色の瞳。眼鏡のないその瞳は、無防備で、吸い込まれそうなほど綺麗だった。

「俺は、お前を恨んでなんかいない。むしろ感謝している。あの日から今日まで、お前はずっと俺を支えてくれた。ボロボロだった領地を立て直し、散り散りになった組織を再編し、俺を育ててくれた。お前がいたから、俺は強くなれたんだ」

「それは、私の義務ですから……」

「義務だけでできることじゃない。……なあ、レグル。覚えているか? 父上が死んだ翌日、泣きじゃくる俺に、お前が言った言葉を」

レグルがハッとする。

――あの日。

隠れ家の洞窟で、雨に震えながら、彼女は俺の手を握り締めて言ったのだ。

自分も泣きたいはずなのに、涙を堪えて。

『泣かないでください、クロノス様。

私が、貴方様の剣になります。盾になります。

この命に代えても、貴方様を最強の当主にしてみせます。

だから……どうか、生きてください』

あの言葉が、絶望の淵にいた俺を繋ぎ止めた。

「……覚えています。一言一句、忘れたことはございません」

「なら、胸を張れ。お前は約束を守った。俺は今、こうして生きている。最強の暗殺者として、ここに立っている」

俺は彼女の涙を指で拭った。

「父上の死は悲しい。だが、俺たちには今がある。ティランや、リゼや、ヴネナンや、ノクトがいる。騒がしくて、手のかかる、最高の家族がいる」

「……はい。……はいっ!」

レグルは俺の胸に飛び込んできた。

俺は彼女を抱きしめた。

温かい。

夢の中の、冷たい雨と泥の感触とは違う。

確かな体温。鼓動。生きている証。

俺の中で、恐怖が溶けていくのを感じた。

一人ではない。

俺には、守るべきものが、そして俺を守ってくれる者たちがいる。

それが、どれほど力強いことか。

しばらくして、レグルは落ち着きを取り戻した。

少し恥ずかしそうに目を伏せ、眼鏡をかけ直す。いつもの「鉄の女」の仮面を被り直そうとしているが、耳まで真っ赤だ。

「……取り乱しました。お見苦しいところを」

「いや、たまにはいいさ。お前だって人間なんだ」

「……クロノス様の前では、完璧な『四律師』でありたいのです。ですが……今夜だけは、甘えさせていただけますか?」

「どうするつもりだ?」

「寝室まで、お送りします。そして……悪夢が来ないように、朝まで添い寝をさせてください。手をつなぐだけで構いませんから」

彼女の懇願するような上目遣いに、俺は苦笑した。

ここで断れる男はいないだろう。それに、今の俺も、誰かの温もりが欲しかったのは事実だ。

「……分かった。だが、本当に手をつなぐだけだぞ? ヴネナンのような夜這いは禁止だ」

「ふふ、善処します」

俺たちは書庫を出て、並んで廊下を歩いた。

窓の外では、空が白み始めている。

夜明けだ。

長い夜が終わる。

部屋に戻り、ベッドに入ると、レグルは約束通り、ベッドの端に腰掛け、俺の手を優しく握った。

その手のぬくもりが、心地よい眠気を運んでくる。

「……レグル」

「はい、クロノス様」

「俺は、もっと強くなる。父上よりも、誰よりも。……もう二度と、大切なものを失わないために」

それは、自分自身への誓いだった。

因果逆転のスキルだけじゃない。この世界で培った技術、知識、そして仲間との絆。

全てを使って、このふざけた女尊男卑の世界で、俺たちの「居場所」を守り抜く。

「はい。信じております。貴方様こそが、ナイトレイの至宝。そして、私の……私たちの、全てですから」

レグルの優しい子守唄のような声を聞きながら、俺は今度こそ、安らかな眠りへと落ちていった。

夢は見なかった。

ただ、朝の光の中で、騒がしい一日がまた始まる予感だけが、微かに胸に残っていた。

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