第29章 真紅の晩餐会と、歪な愛の告白
ドラゴニア帝国、王立闘技場の選手村。
ナイトレイ家に割り当てられた豪華なスイートルームで、俺たちは明日の決勝戦に備えていた。
時刻は夕暮れ。
窓の外では、帝都の空が血のような赤色に染まっている。
ティランは先の戦いの激闘による傷を癒すため、ソファーで泥のように眠っていた。いびきすら立てない深い眠りは、彼女の消耗の激しさを物語っている。
ヴネナンは自身もまだ完全には回復していない体を押して、ベッドで静かに寝息を立てるリゼとノクトの治療と状態確認に当たっていた。彼女の手つきは優しく、慈愛に満ちている。
レグルもまた、ノクトと同じように傷を負い、顔色は優れない。だが、彼女は休むことなく、明日のクロノスのためにと作戦計画の見直しや、武具の手入れを入念に行っていた。
俺もまた、明日のスカーレット戦に向けて、体調を整えていた。
静かな時間。
だが、その静寂は唐突に破られた。
コン、コン。
重厚な扉がノックされた。
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
その場にいた全員が一気に戦闘モードへ移行した。
レグルは手入れしていた短剣を瞬時に逆手に持ち替え、眼鏡の奥で鋭い眼光を走らせながら周囲の気配を探る。
ベッドで寝ていたはずのノクトは、音もなく跳ね起きると、影のように移動して扉のすぐ脇に張り付いた。手にはすでにチェーンハンマーが握られている。
リゼも怪我をおして身を起こし、ベッドの上からいつでも風の刃を放てるように魔力を練り始めた。
ヴネナンは即座にリゼの前に立ち、自身の体を盾にしつつ、袖口から毒のアンプルを取り出し、臨戦態勢を取った。
そして、ソファーで熟睡していたはずのティランも、一瞬で覚醒していた。彼女は手近にあった大剣を片手で軽々と引き寄せ、全員を背に庇うように仁王立ちした。その背中からは、いつでも火炎を噴き出せるほどの熱気が立ち昇っている。
全員が、無言のまま殺気を研ぎ澄ませている。
クロノス(俺)のカバーに入るための、完璧な布陣。
「……どなたですか?」
「失礼いたします。女帝スカーレット様より、お届け物です」
扉の向こうから聞こえたのは、鈴を転がすようなメイドの声だった。
ノクトが少しだけドアを開ける。
そこには、ドラゴニア王家の紋章が入ったメイド服を着た女性が立っていた。手には盆に乗せた一枚の封筒。
「お届け物?」
「はい。クロノス・ナイトレイ様へ、直々の親書にございます」
メイドは恭しく封筒を差し出した。 ノクトが毒などが仕込まれていないかを確認してから受け取り、俺の元へ持ってくる。 真紅の封筒。封蝋には竜の刻印。 嫌な予感しかしない。
俺は封を開け、中の羊皮紙を取り出した。
そこには、流麗な筆跡で、たった一行だけ記されていた。
『今夜、食事はどうだ?』
「……は?」
俺は思わず声を漏らした。
食事? 今から?
明日は殺し合いをする相手だぞ?
「なんの手回しだ……?」
レグルが封筒を覗き込み、眉をひそめる。
「罠かもしれません。食事に毒を盛る、あるいはそのまま拘束する。スカーレット様ならやりかねません」
「いや……」
俺は首を振った。
「あいつは、そういう小細工はしない。
力でねじ伏せることに快感を覚えるタイプだ。毒殺なんて退屈な真似はしないだろう」
それに、断ればどうなるか分からない。
機嫌を損ねて、いきなりここに攻め込んでくる可能性だってある。
ならば、相手の土俵に乗るフリをして、腹を探る方が得策だ。
「……行ってくる」
「クロノス様!?」
「ティランたちは待機していてくれ。もし俺が戻らなかったら……その時は派手に暴れてくれ」
俺はニヤリと笑ってみせた。
ティランが不安そうに、しかし力強く頷く。
「分かった。……何かあったら、城ごと吹き飛ばして迎えに行く」
「心強いな」
俺はレグルにだけ、詳細な連絡手段(緊急時の魔力パス)を確認し、部屋を出た。
待っていたメイドが、深々と頭を下げる。
「賢明なご判断です。では、こちらへ」
案内されたのは、選手村の外に待機していた黒塗りの馬車だった。
乗り込むと、馬車は滑るように走り出した。
向かう先は、丘の上にそびえ立つ、ドラゴニア王城。
魔王の棲家だ。
王城の内部は、外観の武骨さとは裏腹に、洗練された美しさに満ちていた。
だが、その美しさはどこか冷たく、威圧的だ。
壁に飾られた武具。床に敷かれた赤い絨毯。
すれ違う衛兵たちは、誰もが一切の無駄口を叩かず、彫像のように直立不動で敬礼する。
案内されたのは、最上階にあるプライベートホールだった。
分厚い、巨大な扉。
その向こうから、圧倒的な「気配」が漏れ出ている。
扉の前に立つだけで、肌がピリピリと痛むような覇気。
「……どうぞ」
メイドが震える手で扉を開けた。
ギギギ……と重い音が響き、視界が開ける。
広大なホール。
その中央に置かれた長いテーブルの向こう側。
夜景を一望できる巨大な窓を背にして、彼女は座っていた。
女帝スカーレット・ドラゴニア。
今夜の彼女は、戦闘服ではなく、背中が大きく開いた真紅のイブニングドレスを纏っていた。
燃えるような赤髪は緩く結い上げられ、白い首筋が露わになっている。
手にはワイングラス。
その姿は、絵画のように美しく、そして猛毒の花のように危険だった。
「……ようこそ、クロノス」
彼女はグラスを揺らしながら、妖艶に微笑んだ。
「待っていたわ。……逃げずに来てくれて嬉しいわ」
俺は一礼し(貴族としての礼儀は忘れない)、指定された席へと歩み寄った。
距離、約五メートル。
テーブルにはキャンドルが灯り、二人の間を揺らめく炎が隔てている。
「招待に感謝する、陛下」
「そんなに堅くならんでよい。今からとって食おうとも思っておらん。……明日の勝敗によっては、どうなるか分からぬがな」
スカーレットは楽しそうに目を細めた。
冗談なのか、本気なのか。彼女の場合、どちらもあり得るから質が悪い。
俺は席に座り、ナプキンを膝に広げた。
周囲には数人のメイドが控えているが、彼女たちは皆、顔色が青い。
無理もない。
スカーレットから放たれる覇気と、俺が放つ警戒心(殺気)。二つの強大なプレッシャーに挟まれ、立っているだけで精一杯なのだろう。
少しでも粗相をすれば殺される。そんな緊張感が空気を支配している。
「……単刀直入に聞く。なぜ、明日戦う俺を招待した?」
俺が問うと、スカーレットは小首を傾げた。
「理由は必要か?」
「俺なら誘わない。敵に塩を送るような真似はな」
「敵? ふふっ、貴方は敵じゃないわ。もとより、私の『花婿候補』よ」
彼女はフォークを手に取り、前菜のテリーヌを突き刺した。
「強いて言うなら……傷がついていない、無垢な顔を見ておこうと思ってな」
「……?」
「明日の戦いで、貴方のその綺麗な顔が、苦痛と絶望で歪むことになるでしょう?その前に、今の『生意気で美しい顔』を、私の脳裏に焼き付けておきたかったのよ」
狂気じみた愛の告白。
だが、その瞳に嘘の色はない。彼女は本気でそう思っているのだ。
「……悪趣味だな」
「最高の褒め言葉ね。まあよい。今夜は無礼講だ。食べろ」
彼女が指を鳴らすと、メイドたちが次々と料理を運んできた。
ドラゴンのステーキ、極彩色の魚のカルパッチョ、希少な果実のサラダ。
どれも超一級品の食材ばかりだ。毒見をするまでもなく、スカーレットが先に口をつけることで安全を証明している。
「……いただきます」
俺はナイフとフォークを手に取った。
腹が減っては戦はできぬ。
俺は警戒を解かぬまま、しかし味はしっかりと楽しみながら、食事を始めた。
食事は静かに進んだ。
カチャリ、という食器の音だけが響く。
だが、沈黙は重苦しいものではなく、どこか心地よい緊張感を孕んでいた。
互いに相手の隙を探り合い、品定めし合う、探り合いの時間。
「……美味しいか?」
スカーレットが問いかける。
「ああ。文句なしに」
「そう。なら良かったわ。私の城のシェフは、世界一の腕利きなの。……気に入ったなら、婿入りした後も毎日食べさせてあげるわよ?」
彼女は誘惑するように、赤い唇を舐めた。
富、名誉、美食、そして絶世の美女。
普通の男なら、この誘いに乗らない理由はないだろう。
だが。
「……遠慮しておくよ。俺の家の料理長も、なかなかの腕前なんでな。それに、俺は騒がしい食卓の方が好きなんだ」
「ふん。あの小娘たちのこと?」
スカーレットが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あんな雑魚どもと馴れ合って、何が楽しいの?貴方の器には小さすぎるわ。貴方は王になれる男よ。私の隣に立ち、世界を統べるに相応しい力を持っている。……なぜ、それが分からないの?」
彼女は身を乗り出した。
ドレスの胸元が強調され、甘い香りが漂ってくる。
「私は貴方が欲しい。貴方の強さが、賢さが、冷徹さが……どうしようもなく愛おしいの。ねえクロノス。無駄な抵抗はやめて、私のものになりなさい。そうすれば、貴方の望むものは全て与えてあげる。力も、国も、女も……私の全てを」
スカーレットがテーブルの上に身を投げ出すようにして、距離を詰めてくる。 背中が大きく開いたドレスから、滑らかな背中のラインと、そこに刻まれた竜の刺青が妖しく覗く。 彼女は自分の胸元に手を這わせ、爪を食い込ませながら、潤んだ瞳で俺を見つめた。 その瞳孔は縦に割れ、爬虫類のように妖しく輝いている。
「……あぁ、想像するだけで濡れてしまいそう。 貴方を私の色に染め上げ、誰にも触れさせないように檻に閉じ込め、朝から晩まで愛し尽くす……。 私の体温、私の匂い、私の愛欲で、貴方の全てを上書きしてあげるわ」
熱烈な求愛。 その瞳は、恋する乙女のように潤み、同時に全てを飲み込むブラックホールのように暗い。 彼女の愛は、独占欲と支配欲の塊だ。 相手を自分の色に染め上げ、檻に閉じ込め、愛でるだけの愛。が済まない、独占欲と支配欲の塊だ。
相手を自分の色に染め上げ、檻に閉じ込め、一生愛で続けるだけの歪んだ愛。
「……断る」
俺は即答した。
ワイングラスを置き、彼女の目を真っ直ぐに見つめ返す。
「俺は、誰かの『所有物』になるつもりはない。俺の人生は俺のものだ。誰に捧げるかも、誰と共に歩くかも、俺が決める」
「……強情ね」
「それに、お前の言う『王』なんてものにも興味はない。俺が欲しいのは、世界征服でも最強の称号でもない。ただ、大切な家族と、平穏に暮らす日々だけだ」
俺の言葉に、スカーレットは目を丸くした。
そして、クスクスと笑い出した。
「あははは! 平穏? 貴方が?傑作だわ! あの闘技場で見せた、鬼のような殺気を放つ貴方が、平穏を望むですって?」
彼女は笑い涙を拭い、冷酷な笑みを浮かべた。
「無理よ。貴方は『こちら側』の人間だもの。血と暴力と支配。それが似合う。今は猫を被っているだけ。……私が、その皮を剥いで、本性を暴いてあげるわ」
ズズズズズ……。
スカーレットの体から、魔力が漏れ出した。
覇気。
テーブルがガタガタと震え、キャンドルの炎が青く変色する。
控えていたメイドの一人が、耐えきれずに白目を剥いて倒れた。
意識を刈り取るほどのプレッシャー。
「……ッ」
俺もまた、対抗するように魔力を放出した。
負けてはいられない。ここで引けば、精神的に食われる。
二人の魔力が衝突し、空間が軋む。
グラスにヒビが入る。
「……いい目ね」
スカーレットは恍惚とした表情で俺を見た。
「その目よ。私を射抜く、その反抗的な目。……ああ、ゾクゾクする」
彼女は自分の体を抱きしめ、身震いした。
「明日は、その目が絶望に染まる瞬間を、一番近くで見られるのね。楽しみだわ……本当に」
彼女の気配が収束していく。
嵐が去った後のような静寂。
だが、それは平和な静けさではなく、次に来る大嵐の予兆だった。
夜も更け、デザートの時間が終わった。
スカーレットはナプキンで口元を拭い、立ち上がった。
「……楽しい時間は、あっという間ね」
彼女は名残惜しそうに言った。
「本当なら、このまま寝室に連れ込みたいところだけど……。楽しみは明日に取っておくわ。最高のコンディションの貴方を頂きたいもの」
彼女は俺の席まで歩み寄り、俺の耳元に唇を寄せた。
「明日はよろしく頼む。最高の遊び(殺し合い)をしような、ダーリン」
チュッ。
耳たぶに、熱い感触が残った。
そして、彼女はドレスを翻し、ホールを出て行った。
その背中は、一度も振り返らなかった。
勝利を確信している者の、絶対的な余裕。
「……はぁ」
俺は大きく息を吐き、椅子に深く沈み込んだ。
どっと疲れが出た。
戦闘こそなかったが、精神力をごっそり削られた気分だ。
あの女と対峙するのは、命懸けだ。
「……お客様。お出口までご案内いたします」
気絶から回復したメイドが、震える声で声をかけてきた。
俺は立ち上がり、礼を言った。
「ああ。ありがとう。……美味しい食事だったよ。シェフにそう伝えてくれ」
俺はチップ(金貨)を渡し、ホールを後にした。
城を出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
空には満月。
明日は決戦。
スカーレットとの会話で、改めて確信したことがある。
彼女とは、分かり合えない。
彼女の愛は一方的で、破壊的だ。
俺たちの平穏を守るには、彼女を倒すしかない。
「……やるぞ」
俺は夜空に向かって誓った。
もう迷いはない。
明日は、俺がスカーレットを超える日だ。
俺は迎えの馬車に乗り込み、仲間たちの待つ場所へと帰還した。
長い、長い夜が明けようとしていた。
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