第25章 赤き絶望と、賢者の敗北
リゼが運ばれ、会場のどよめきが収まらない中、王立闘技場のフィールドは急速に修復されていた。
土魔法使いの運営スタッフたちが総出で地面を均し、結界班が防御壁を再構築する。
だが、会場を支配する空気は、先ほどまでの熱狂とは異質のものに変質していた。
恐怖。畏怖。そして、絶対的な強者への崇拝。
そのすべての根源は、ロイヤルボックスから優雅に降り立ち、フィールドの中央で腕を組んで待つ一人の女性にあった。
女帝スカーレット・ドラゴニア。
彼女は武器を持っていない。構えすら取っていない。
ただ立っているだけだ。
それなのに、彼女の周囲だけ重力が歪んでいるかのような、視界が揺らぐほどの高密度の魔力が立ち昇っている。
対する西のゲート。
そこには、二人の女性が並んで立っていた。
漆黒のメイド服に身を包んだ『冥土』のリーダー、ノクト。
戦闘用のタイトなスーツに身を包み、銀縁眼鏡を直す『四律師』のレグル。
二人の表情は硬い。
恐怖で強張っているのではない。極限まで集中力を高め、思考を加速させているのだ。
「……行けますか、ノクト」
「問題ない。掃除道具の点検も完了」
ノクトは淡々と答え、愛用のチェーンハンマーと、スカートの中に隠した無数の暗器を確認した。
だが、その指先がわずかに白くなっているのを、レグルは見逃さなかった。
無理もない。
目の前にいるのは、生物としての格が違う「災害」そのものなのだから。
「作戦通りに。私たちの目的は『勝利』ではありません。『生存』と『情報の引き出し』、そして『消耗』です」
レグルが小声で確認する。
勝てない。
それは、戦う前から分かっている残酷な事実だった。
リゼを一撃で沈めたタイタン。そのタイタンが、赤子の手をひねるように従うスカーレット。
まともにやり合って勝てる相手ではない。
「クロノス様のために、一秒でも長く食らいつきましょう」
「御意。……主人の未来を切り開く」
二人は頷き合い、決死の覚悟でフィールドへと足を踏み入れた。
三人が対峙する。距離は二十メートル。
スカーレットは、ノクトとレグルを見ても、眉一つ動かさなかった。
興味がないのだ。
彼女が見ているのは、その背後にいるクロノスだけ。目の前の二人は、ただの「道端の石ころ」に過ぎない。
「……始めなさい。私の退屈を、少しは紛らわせてくれるのでしょう?」
スカーレットが気だるげに手を振った。
それが合図だった。
カァァァァンッ!!
銅鑼の音が鳴り響く。
同時に、ノクトとレグルが動いた。
「散開ッ!!」
レグルの指示と共に、二人は左右に大きく飛びのいた。
正面からの激突は避ける。相手の間合いに入らない。
遠距離からの波状攻撃で、少しでも削る。
「喰らいなさい! 氷結の檻!」
レグルが走りながら魔法陣を展開する。
彼女の得意とする氷魔法。
スカーレットの足元から、無数の氷の杭が突き出し、彼女を串刺しにしようと迫る。
同時に、ノクトが影から飛び出す。
「……死角」
スカーレットの背後。
ノクトは音もなくチェーンハンマーを投擲した。
鉄球が風を切り、スカーレットの後頭部へと吸い込まれる。
魔法と物理。前方と後方。
完璧なタイミングの挟撃。予選で見せたコンビネーションの再現だ。
普通の戦士なら、防御すら間に合わない。
だが。
「……遅い」
スカーレットは、動かなかった。
避ける素振りも見せない。
ただ、ため息交じりに、全身から赤いオーラを噴出させただけだ。
ドオオオオオオオオオッ!!!!
爆風のような熱波が、彼女を中心に全方位へ広がった。
【竜王の覇気】。
パリンッ!!
レグルの氷の杭が、熱波に触れた瞬間に蒸発した。
物理的な実体を持つはずの氷が、魔力の圧力だけで霧散したのだ。
ガギィンッ!!
ノクトの鉄球が、見えない壁に弾かれたように軌道を逸らされ、明後日の方向へ飛んでいく。
「なッ……!?」
「魔法障壁ですらない……!? ただの魔力放出で!?」
レグルが驚愕の声を上げる。
スカーレットは、まだ一歩も動いていない。指一本、攻撃に使っていない。
ただ「気合を入れた」だけで、二人の必殺の連携を無効化したのだ。
「終わりか?なら、次は私の番ね」
スカーレットが、初めて一歩を踏み出した。
ヒールの音が、コツンと響く。
その音は、死刑台への階段を登る足音のように、二人の心臓を鷲掴みにした。
「来ますッ! ノクト、防御陣形!」
「了解!」
レグルが叫び、即座に多重の防御結界を展開する。
ノクトも鎖を自身の周囲に張り巡らせ、鉄壁の守りを固める。
だが、スカーレットの姿が消えた。
「――どこを見ているの?」
声がしたのは、レグルの目の前だった。
ゼロ距離。
結界の内側。
「え……?」
レグルの思考が停止する。
いつ? どうやって?
結界は破られていない。すり抜けた? 転移?
いや、違う。
単純な「速度」だ。
レグルの動体視力も、結界の反応速度も置き去りにするほどの、圧倒的な神速。
「魔法使いは、懐に入られると脆いわよね」
スカーレットの手が、レグルの首に伸びる。
避けられない。
「させないッ!」
横からノクトが突っ込んだ。
彼女は自分の身を守る鎖を解き、スカーレットの腕に巻き付けて動きを封じようとする。
決死のカバー。
ガシッ。
鎖がスカーレットの腕に絡みつく。
だが、スカーレットはそれを「アクセサリーでもついたかしら?」という程度の認識で一瞥し、軽く腕を振った。
ブンッ!!
「ぐあぁっ!?」
ノクトの体が、木の葉のように宙を舞った。
鎖ごと引っ張られ、遠心力で吹き飛ばされたのだ。
彼女は地面に叩きつけられ、数回バウンドして壁に激突した。
「ノクトッ!!」
「よそ見はいけないわ」
レグルが叫んだ瞬間、腹部に衝撃が走った。
スカーレットの膝蹴り。
手加減されている。もし本気なら、胴体が千切れていただろう。
それでも、内臓が破裂しそうな激痛が走る。
「が、はっ……!」
レグルはその場に崩れ落ち、嘔吐した。
胃液と血が混ざったものを吐き出しながら、震える手で地面を掴む。
(強い……。強すぎる……!)
次元が違う。
リゼとの戦いでは、まだ「戦い」になっていた。
だがこれは、戦いではない。
人間が災害に立ち向かうような、無意味な抵抗。
「立て。クロノスの部下でしょう? この程度で終わるなら、彼も大したことないと思われるわよ」
スカーレットが見下ろす。
その瞳には、侮蔑すらなく、ただ退屈そうな色が浮かんでいる。
それが一番、悔しかった。
「……なめるな!」
ノクトが瓦礫の中から立ち上がった。
額から血を流し、メイド服はボロボロだが、その瞳は死んでいない。
「私はナイトレイ家の『冥土』。主人の敵を、生かしてはおかない!」
ノクトがスカートを広げた。
予選で見せた奥の手。数百の暗器の一斉射出。
「消えろぉぉぉッ!!」
シュシュシュシュシュッ!!
ナイフ、針、毒瓶。
あらゆる凶器が雨のようにスカーレットを襲う。
逃げ場のない飽和攻撃。
だが、スカーレットはあくびを噛み殺しながら、片手をかざした。
「【赤竜の息吹・小】」
彼女の手のひらから、小さな火球が放たれた。
小さい。ピンポン玉サイズだ。
だが、それが暗器の群れと接触した瞬間。
カッ!!!!
閃光。
そして、爆発的な熱風。
全ての暗器が、一瞬で蒸発した。
鋼鉄のナイフも、ガラスの瓶も、跡形もなく消滅し、熱波がノクトを襲う。
「あぁぁぁぁぁっ!!」
ノクトが熱風に煽られ、再び吹き飛ばされる。
直撃はしていない。熱波の余波だけで、この威力。
「……う、そ……」
レグルは呆然とそれを見ていた。
魔法ですらない。ただの魔力の塊をぶつけただけ。
それで、あの威力。
もし本気のブレスを吐かれたら、この闘技場ごと消滅するのではないか。
「……はぁ。つまらないわね」
スカーレットは肩をすくめた。
「もっと楽しませてくれると思ったのに。連携も、小細工も、全てが小規模さい。
アリが必死に隊列を組んでも、象には勝てないのよ」
彼女は興味を失ったように、レグルたちに背を向けた。
完全なる無視。
トドメを刺す価値すらないという意思表示。
屈辱だった。
悔しさで、唇を噛み締めすぎて血が出た。
だが、レグルは『四律師』であり、ナイトレイ家のリーダー的存在だ。感情よりも理性を優先する、冷徹な計算機だ。
(……勝てない)
彼女の脳内コンピューターが、冷酷な答えを弾き出す。
勝率、0%。
どんな奇策を使っても、どんな罠を張っても、この怪物には通じない。
これ以上戦えば、確実に死ぬ。
ノクトも、私も。
(死ぬのは怖くない。主人のために死ねるなら本望です。ですが……)
レグルは、観客席のクロノスを見た。
彼は拳を握りしめ、身を乗り出して見ている。その顔は、リゼが倒れた時と同じ、悲痛な表情だった。
もし私たちがここで死んだら、彼はどうなる?
怒り狂い、冷静さを失い、スカーレットに無謀な特攻を仕掛けるかもしれない。
あるいは、心に深い傷を負い、立ち直れなくなるかもしれない。
(私たちの役目は、クロノス様の勝利への布石となること。ここで無駄死にして、彼に精神的な重荷をかけることではありません)
生き残らなければならない。
生きて、彼のサポートを続けなければならない。
たとえ、敗北の汚名を着ることになっても。
「……ノクト、聞こえますか」
レグルは通信魔法で呼びかけた。
瓦礫の下で、ノクトが微かに動く。
『……はい。まだ、動けます。……特攻を、仕掛けますか?』
「いいえ。……撤退です」
『……っ!?』
ノクトが息を呑む気配がした。
撤退。
それは暗殺者にとって、死よりも重い恥辱。
「これ以上やっても、情報を引き出すどころか、私たちの死体が増えるだけです。スカーレット様は、まだ『遊び』の段階。本気の欠片も見せていません。……悔しいですが、私たちの負けです」
レグルは涙を呑んで告げた。
「生きて、クロノス様の元へ帰りましょう。彼には、私たちの支えが必要です。死体になったら、お世話もできませんから」
長い沈黙。
やがて、ノクトから短い返答があった。
『……了解。賢明な判断』
レグルは立ち上がった。
足が震える。恐怖と、ダメージと、そして屈辱で。
彼女は埃を払い、眼鏡を直し、毅然とした態度でスカーレットに向き直った。
「……スカーレット様」
背を向けていた女帝が、ゆっくりと振り返る。
「あら、まだ生きていたの? 命乞いなら聞かないわよ」
「いいえ。命乞いではありません」
レグルは深く深呼吸をし、会場中に響き渡る声で叫んだ。
「――降参しますッ!!」
会場が静まり返った。
戦士の誇りを重んじるドラゴニア帝国において、戦わずして(まだ動けるのに)降参することは、最大の恥とされる。
ブーイングが飛ぶかと思われた。
だが、観客たちは静まり返っていた。
誰もが理解していたからだ。これ以上続けても、ただの処刑ショーにしかならないことを。
「……降参?」
スカーレットが眉をひそめた。
不快そうに、つまらなそうに。
「最後まで足掻く気概もないの?クロノスの部下にしては、随分と賢しい(さかしい)のね」
「賢明と言ってください。私たちは、無駄死にはしません。命を大事にするよう、主人からきつく言われていますので」
レグルは胸を張って答えた。
それは、彼女なりの精一杯の強がりであり、クロノスへの忠誠の証だった。
「……チッ。まあいいわ」
スカーレットは興味を失ったように手を振った。
「失せなさい。雑魚をいたぶる趣味はないわ。……クロノスによろしく伝えておいて。『お前の部下は賢かった。おかげで五体満足で返してやる』ってね」
その言葉は、慈悲であると同時に、最大の侮辱だった。
お前たちなど、殺す価値もないと。
「……感謝いたします」
レグルは屈辱に唇を噛み締めながら、深く一礼した。
そして、ふらつく足でノクトの元へ歩み寄り、彼女を抱き起こした。
「帰りましょう、ノクト」
「……うん。……ごめんなさい、クロノス様」
二人は肩を貸し合い、退場ゲートへと歩き出した。
その背中は小さく、痛々しかったが、決して折れてはいなかった。
ゴーン、ゴーン……。
終了の鐘が、虚しく響いた。
「勝者、女帝スカーレット・ドラゴニア!!」
歓声はなかった。
あるのは、圧倒的な「恐怖」への沈黙と、畏怖だけだった。
チーム・クロノスの控室。
戻ってきたレグルとノクトは、クロノスの顔を見るなり、その場に崩れ落ちた。
「申し訳、ございません……!」
「面目、ない……」
二人は床に手をつき、涙を流して謝罪した。
勝てなかったこと。一矢報いることすらできなかったこと。
そして何より、敵前逃亡という恥晒しな真似をしたこと。
クロノスは無言で二人に近づき、力強く抱きしめた。
「……よく生きて帰ってきてくれた」
クロノスの声は震えていた。
「降参してくれてよかった。お前たちが死ぬより、1億倍マシだ。レグル、お前の判断は正しい。お前は最高の指揮官だ」
「う、うぅぅ……! クロノス様ぁ……!」
レグルが声を上げて泣いた。
ノクトもクロノスの服を握りしめ、静かに涙を流す。
クロノスは二人を抱きしめたまま、モニターに映るスカーレットを睨みつけた。
彼女は悠々と手を振り、退場していくところだった。
圧倒的な余裕。
俺の大切な家族を傷つけ、侮辱し、踏みにじった女。
(……許さない)
クロノスの中で、どす黒い炎が燃え上がった。
これまでの修行や、試合への緊張とは違う。
明確な「殺意」。
「待ってろ、スカーレット。
お前が『退屈だ』と切り捨てたもの、その全てを……俺が背負って、お前を叩き潰す」
拳を握りしめる音が、静かな控室に響いた。
残るは、最終試合。
『銀色の処刑人』 VS クロノス・ナイトレイ。
スカーレットへの挑戦権を賭けた、最後の戦いが始まる。
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