第24章 『暴風』の沈黙、そして『赤』の女帝
闘技場へと続く石造りの回廊に、場違いなほど軽やかな鼻歌が響いていた。
「ルンルンル~ン♪ ティランお姉ちゃんも勝ったしぃ、ヴネちゃんも勝ったしぃ、次は私の番だね~っと!」
『風神』リゼ。
巨大な鎌『ゼピュロス』をバトンのようにくるくると回しながら、彼女はスキップ交じりに歩を進めていた。
第一試合、第二試合とチーム・クロノスは破竹の連勝を飾っている。味方の勝利は、リゼの心に油断ではなく、心地よい高揚感をもたらしていた。
(私も続かなきゃ! 圧倒的に勝って、クロノス様に「いい子だ」って撫でてもらうんだから!)
彼女の脳裏には、勝利の報告を受けた主が優しく微笑む姿しか描かれていない。
負ける、という可能性など、今のリゼの辞書には存在しなかった。
ゲートをくぐると、闘技場はすでに異様な熱気に包まれていた。
観客たちの歓声が、まるで物理的な圧力を持って降り注ぐ。だが、それ以上の圧力が、対面のゲートから迫ってきていた。
ズシン、ズシン、ズシン――。
地面を揺らす重い足音と共に現れたのは、人の形をした岩山だった。
スカーレット配下、第三の刺客。
『剛力将』タイタン。
身長三メートルを優に超える筋骨隆々の巨躯。その皮膚は岩盤のように厚く、丸太のような腕には血管が理不尽なほどに浮き上がっている。ただそこに立っているだけで、周囲の空気が重く歪んで見えるほどの質量感だった。
「うわぁ~、おっきいねぇ~」
リゼは鎌を肩に担ぎ直し、呑気に見上げながら感想を漏らした。
対峙する両者の体格差は、大人と子供という表現すら生温い。巨人と小人。あるいは、象と蟻。
タイタンは腕を組み、眼下のリゼを見下ろして、不快そうに鼻を鳴らした。
「なんだ、俺の相手はこんな豆粒か。拍子抜けだな」
「豆粒って失礼だなぁ。私これでも成長期なんだよ? 牛乳飲んでるし」
「ハッ! 口の減らねぇガキだ。握りつぶしてやるよ」
タイタンの太い指が、ワキワキと不気味に蠢く。それは比喩ではなく、リゼの頭蓋など片手で容易に粉砕できるサイズだった。
だが、リゼは恐怖するどころか、ケラケラと笑っている。
その余裕が、絶対的な強者であるタイタンの矜持を逆撫でした。
巨人はニヤリと下卑た笑みを浮かべ、リゼの背後――観客席の特別席に座る少年へと視線を向けた。
「ま、いいさ。手間はかけねぇ。お前をプチッと潰した後、そこで見てるお前のご主人様……あの貧相なガキも、ついでに俺が片手で握り潰してやるよ」
――ピタリ、と。
リゼの周囲を舞っていた風が、止まった。
闘技場の喧騒が、リゼの耳から遠ざかる。
代わりに、頭の奥で何かが弾ける乾いた音がした。
ヘラヘラと笑っていたリゼの表情筋が、糸が切れたように弛緩し、次の瞬間、能面のような冷徹さへと再構築される。
ハイライトの消えた虚ろな瞳が、ゆっくりと巨人の顔を捉えた。
「……いま、なんて言った?」
「あ? だから、お前のご主人も俺が握りつぶ……」
「――握りつぶされる前に、刻む」
ドッ!!
リゼの足元から爆発的な風が巻き起こった。
殺気。
純度百パーセントの、ドス黒い殺意。
先ほどまでの愛らしい少女の面影は消え失せ、そこには主を侮辱された『処刑人』だけが立っていた。
大鎌ゼピュロスの刃が、ギラリと不吉な輝きを放つ。
「クロノス様を愚弄するクズは、ミンチにして肥料にする価値もない」
『第三試合、開始!』
審判のゴングと同時だった。
リゼの姿が掻き消えた。
「――遅い」
一瞬で距離を詰め、タイタンの懐へと潜り込む。
風を纏った大鎌が、不可視の刃となって巨人の胴を薙いだ。
ガギィイイイイッ!!
金属と岩石が高速でぶつかり合うような、耳障りな高音が響き渡る。
タイタンは咄嗟に腕甲でガードしていたが、その衝撃に巨体がわずかに後退し、地面に深い溝が刻まれた。
「チッ、チョコマカと!」
「死ね! 死ね! 切り刻んでやる!」
リゼは止まらなかった。
本来のリゼの戦い方は、風の魔法を駆使した中・遠距離戦での撹乱だ。距離を取り、相手を翻弄し、隙を見て首を刈る。それが彼女の最も得意とする『必勝法』である。
だが、今の彼女に冷静な戦術眼はなかった。
あるのは、クロノスを侮辱されたという激しい怒りのみ。
(あの方をバカにした口、引き裂いてやる。あの方を握りつぶすと言った腕、切り落としてやる!)
「ハァアアッ!」
リゼは大鎌を風車のように回転させ、超至近距離での連撃を繰り出した。
「鎌鼬の舞!」
シュシュシュシュシュッ!!
真空の刃が、文字通り「嵐」のようにタイタンを襲った。
一秒間に数百発。
目にも止まらぬ速さで繰り出される斬撃は、頬、肩、脇腹、太腿と、巨人の全身をくまなく切り刻んでいく。鮮血が霧のように舞い上がり、リゼの白い肌を赤く染める。
「オオオオオッ!!」
だが、タイタンは倒れない。
彼は防御に徹していた。
両腕を顔の前でクロスさせ、重要臓器のみを徹底的に守る亀のような体勢。
リゼの斬撃は確かに皮膚を切り裂いている。だが、その下にある異常発達した筋肉の層が、刃の侵入を拒んでいるのだ。
ガッ! ギィン! ザシュッ!
鋼鉄のような筋肉に刃が弾かれる音が響く。
タイタンの体からは火花さえ散っている。
彼は痛みを感じていないかのように、ただ冷ややかにリゼを見下ろしていた。
「どうした図体ばかりデカくて! 止まって見えるよ!」
「ヌゥウ……ッ!」
巨人の動きが鈍る。
腕を振り上げる動作も、回避のステップも、徐々に緩慢になっていく。
(効いてる。このデカブツ、ただ硬いだけで体力はないんだ!)
リゼは確信した。
このまま押し切れる。休ませずに刻み続ければ、いずれ防御が崩れ、その太い首を刎ね飛ばせる。
ここが勝機。
「これで終わりッ! 最大出力、『旋風刃』!!」
リゼは残った全魔力を脚と腕に集中させ、トドメの一撃を見舞おうと踏み込んだ。
大鎌を大きく振りかぶり、無防備になったタイタンの心臓部へと迫る。
だが。
その瞬間、リゼは見た。
うつむき加減だったタイタンの口元が、三日月形に裂けているのを。
「――かかったな、ハエが」
「え?」
振り下ろされた鎌を、タイタンは避けることすらせず、あえて分厚い大胸筋で受け止めた。
ガッ!!
刃は筋肉に食い込んだが、骨までは届かない。
まるで鋼鉄の檻のように、異常発達した筋肉が刃を噛んでロックしたのだ。
「う、そ……抜けない!?」
「体力温存のために動きを最小限にしてただけだ。お前が勝手に熱くなって、勝手に動き回って、勝手にバテるのを待ってたんだよ」
リゼの顔色がサッと青ざめる。
言われてみれば、荒い息をついているのは自分だけだ。
怒りに任せて全力で動き回り、無駄に魔力を消費し、呼吸を乱していた。
対するタイタンは、体中に浅い傷こそ負っているものの、呼吸は整っており、その瞳には理知的な残酷さが宿っている。
誤算。
致命的な、判断ミス。
「し、ぶといですね……早くやられてくださいよぉ……」
ゼェ、ゼェ、とリゼの肩が大きく上下する。
鎌を引き抜こうと柄に足をかけて踏ん張るが、巨人の筋肉が万力のように刃を挟んで離さない。
焦りがリゼの思考を埋め尽くす。
「おう、終わりか? なら、こっちの番だな」
タイタンが、全身の筋肉をさらに膨張させた。
ドクンッ! と血管が破裂しそうなほど脈打つ音が聞こえる。
彼はリゼの鎌を弾き飛ばすと、丸太のような両腕を広げ、突進の構えを取った。
逃げ場のない至近距離。
「『剛・岩石衝』!!」
「あ……」
いつものリゼなら、避けられたはずだ。
風に乗り、蝶のように舞って回避できただろう。
だが、今は足が鉛のように重い。魔力も枯渇寸前。思考すら酸素不足で霞んでいる。
回避行動が、コンマ数秒遅れた。
その遅れは、強者同士の戦いにおいて「死」を意味する。
ドオオオオオオオンッ!!!!!
闘技場全体が揺れた。
巨大な肉の砲弾が、小さな少女の体を正面から捉えたのだ。
リゼの体はボロ雑巾のように吹き飛び、石造りの壁へと一直線に叩きつけられた。
「ガハッ……!?」
背中から凄まじい衝撃。
壁には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、中央にはリゼの体が深くめり込んでいる。
肺の中の空気が強制的に吐き出され、代わりに鉄の味が口いっぱいに広がった。
肋骨が数本、確実に折れた音が体内から響く。
視界が歪む。音が遠い。
薄れゆく意識の中で、審判が手を挙げようとしているのが見えた。
勝負あり。誰の目にも明らかだ。
リゼの、敗北。
だが。
「まだだ。まだ物足りねぇよなぁ?」
審判の制止を無視し、タイタンが瓦礫に埋もれたリゼの元へと歩み寄る。
その顔には、嗜虐的な愉悦が浮かんでいた。
彼はぐったりとして動けないリゼの胴体を、片手で鷲掴みにし、宙へと持ち上げた。
「あ、が……」
「『握りつぶしてやる』って言ったろ? 俺は有言実行な女でね」
ミチチチチ……ッ。
巨大な指が、リゼの華奢な体に食い込んでいく。
折れた肋骨がさらに軋み、内臓を圧迫する。
「ああああああっ!! い、いやぁあああっ!!」
リゼの口から、悲痛な叫びが迸る。
それは戦士の声ではなく、ただの怯えた少女の悲鳴だった。
痛い。苦しい。息ができない。
視界が真っ赤に染まる。全身の骨が悲鳴を上げている。
(死ぬ……わたし、死ぬんだ……)
圧倒的な「死」の予感が、冷たい手で心臓を撫でる。
抵抗する力など残っていない。ただ、巨大な暴力の中で磨り潰されていくだけ。
悔しさと、申し訳なさが涙となって溢れ出した。
(勝てると、思ってた……クロノス様のために、あいつを倒すって……)
(なのに、負けるの? こんな、無様に……?)
「ク、ロノス……さま……ごめんなさ……」
意識が闇に落ちる寸前、リゼは最愛の主の名を呟いた。
タイタンがトドメとばかりに、さらに指に力を込めた、その時。
――ヒュン。
風を切る音すらなかった。
ただ、世界から「音」と「時間」が消滅したような静寂が訪れた。
リゼの薄れた視界に、黒い影が映り込んだ。
「――それ以上やると、お前の命はないぞ」
地獄の底から響くような、絶対零度の声。
タイタンの動きが凍りついた。
巨人の太い首筋に、いつの間にか冷たい刃が押し当てられていたのだ。
漆黒のダガー。
それを握っているのは、観客席にいたはずの少年。
クロノスだった。
クロノスの瞳は、一切の感情を排した虚無のような黒色だった。
だが、その奥底には触れれば即死するほどの濃密な殺気が渦巻いている。
リゼが傷つけられたことへの激昂。それが限界突破し、逆に静寂となっていた。
「はっ! ガキが! わざわざ降りてくるとはな!」
タイタンは一瞬怯んだものの、すぐに獰猛な笑みを浮かべた。
首元の刃を気にする様子もなく、リゼを掴んだままの手でクロノスを挑発する。
「スカーレット様が出るまでもねぇ! 今ココで勝負してやろうか! 俺の筋肉はこの程度の針じゃ傷つか……」
「望むところだ」
クロノスの腕がブレた。
タイタンの首筋から、ツーっと赤い線が走り、鮮血が滴る。
鋼鉄以上の硬度を誇るタイタンの皮膚が、バターのように切り裂かれたのだ。
「な……!?」
「リゼを放せ。さもなくば、その首を胴体から永遠にサヨナラさせる」
クロノスが一歩踏み込む。
一触即発。
ルール無用の殺し合いが始まろうとした、その刹那。
ドッズツツツツ!!!!!!!
空間そのものが歪むほどの、重厚かつ暴虐的な『覇気』が闘技場全体を圧し潰した。
クロノスの鋭利な殺気が「刃」だとすれば、それは「津波」だった。
全ての生物の本能に「ひれ伏せ」と命じる、女王の威圧。
「――タイタン」
背後から響いた声は、決して大声ではない。
だが、その場の全員の心臓を鷲掴みにするような響きを持っていた。
燃えるような赤髪をなびかせ、スカーレットがそこに立っていた。
「わ、たしの獲物(婚約者)を、取るつもりか?」
スカーレットの周囲から立ち上る赤黒い闘気は、陽炎のように空間を揺らめかせている。
彼女の瞳は、タイタンを『部下』としてではなく、『死すべき害虫』として見下ろしていた。
「め、滅相もございませんッ!!」
タイタンの顔から血の気が引いた。
クロノスに向けられた殺気とは次元が違う。これは、逆らえば魂ごと消滅させられるという絶対的な捕食者のオーラだ。
あんなに傲慢だった巨人が、生まれたての小鹿のように震え上がっている。
「ならその手を離せ。小娘とクロノスを解放しろ」
「は、はいッ! ただちに!!」
タイタンは弾かれたように指を開いた。
支えを失ったリゼの体が重力に従って落下する。
それを、クロノスが素早く抱きとめた。
「リゼ!」
腕の中の少女は、ぐったりとして動かない。
顔色は白紙のように白く、呼吸は浅く不規則だ。肋骨が折れた影響か、口端からは血の泡が吹いている。
「……勝負あった。勝者、タイタン」
遅れて、アナウンスが響き渡る。
だが、歓声はなかった。観客たちもまた、スカーレットとクロノスが放つ異常な空気に飲まれ、声を出すことすら忘れていたのだ。
スカーレットはクロノスへと視線を移すと、フンと鼻を鳴らした。
「礼は不要だ。私の『未来の夫』が、こんな筋肉ダルマに傷つけられるのは寝覚めが悪いからな」
「……借りにしておく」
クロノスは短く答え、リゼを抱きかかえたまま自陣営へと走った。
スカーレットはその背中を見送りながら、不敵な笑みを深める。
(愛しいクロノス。その怒りに歪んだ顔もまた、素敵だぞ)
チーム・クロノスの控室。
重苦しい空気が漂っていた。
簡易ベッドに横たえられたリゼの周りで、ヴネナンが必死に治癒魔法を行使している。淡い緑色の光がリゼを包むが、その表情は険しい。
「……どうだ、ヴネナン」
クロノスの問いに、ヴネナンは額の汗を拭いながら、悲痛な面持ちで首を振った。
「命に別状はありません……。ですが、酷いです。肋骨が五本骨折、肺挫傷、全身打撲、それに重度の脳震盪を起こしています。今は気絶していますが……」
「全治は?」
「……私の治癒魔法でも、完全に治して戦える状態に戻すには、かなりの時間がかかります。いつ意識が戻るかどうか……リゼちゃんの体力次第」
クロノスは拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
リゼの寝顔は、苦痛に歪んでいた。
初めての敗北。
それも、ただ負けただけではない。
リゼは、クロノスへの侮辱に怒り、冷静さを欠いて自滅した。そして死の一歩手前まで追い込まれ、あろうことか敵のボスであるスカーレットに情けをかけられて生き延びたのだ。
これほどの屈辱があるだろうか。
「すまない……リゼ」
クロノスは眠る少女の髪を優しく撫でた。
彼女が暴走したのは、自分のためだ。その忠誠心が、今回は最悪の形で裏目に出てしまった。
だが、それを責めることはできない。
責めるべきは、彼女を守りきれなかった自分の弱さと、あの巨人の傲慢さだ。
敗北の味は苦い。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「……この勝負、勝つぞ」
クロノスは静かに、しかし力強く宣言した。
その言葉に、控室の空気が変わる。
それは、傷ついたリゼのため、そして何よりチーム・クロノスのプライドを賭けた誓いだった。
「ノクト、レグル」
クロノスが視線を上げ、次の出場者たちを呼ぶ。
第四試合。それは大会のクライマックスに等しい一戦となる。
相手は、先ほど圧倒的な『覇気』で場を制圧したスカーレット本人。その実力を目の当たりにした直後だ。怯んでいてもおかしくはない。
だが。
「……承知しました。言われなくても、あの不快な害虫は私が掃除します」
ノクトが静かに告げた。その瞳にハイライトはなく、深淵のような闇と純粋な殺意だけが渦巻いている。
恐怖はない。あるのは、主人を害する者を排除するという、絶対的な使命感のみ。
「ええ、リゼの仇です。徹底的に、後悔させて差し上げましょう」
レグルが眼鏡のブリッジをくいと押し上げた。そのレンズの奥では、知的な光と共に、凍てつくような怒りの炎が煌めいている。
彼女は愛用の短剣を抜き放ち、冷酷な笑みを浮かべた。
彼女たちの目には、一点の曇りもなかった。
最強の敵を前にして、萎縮するどころか、その魂はより熱く燃え上がっている。
リゼが身を挺して繋いだバトンを、ここで落とすわけにはいかないのだ。
「頼んだぞ。俺たちの『強さ』を、スカーレットに刻み込んでこい」
クロノスの言葉に、二人は力強く頷いた。 最強の二人が、戦場へと向かう。 チーム・クロノスの逆襲は、ここから始まるのだ。
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