第23章 蒼き水底の毒婦と、虹色の爆炎
ティランの劇的な勝利から一時間後。
興奮冷めやらぬ王立闘技場のフィールドは、一変していた。
轟音と共に地面が沈下し、そこへ大量の水が注ぎ込まれる。
数分後には、闘技場全体が巨大な湖へと変貌していた。
水深二十メートル。
所々に小さな足場となる岩が突き出ているだけで、9割以上が水面という極端なフィールド。
『水没都市』。
それが、第二試合の舞台だった。
『さあ、続いての試合は、この美しくも残酷な水のステージで行われます!
西の入場ゲートより! ナイトレイ家が誇る妖艶なる毒の華!
予選で見せた冷酷な手腕に、背筋が凍った男性諸君も多いでしょう!
“毒姫”ヴネナンッ!!』
実況と共に、ヴネナンが姿を現した。
彼女はいつもの白衣を羽織り、その下には身体のラインを強調するスリットの深いチャイナドレスを着ている。
足元はヒールだが、不安定な岩場をまるでダンスフロアのように優雅に歩いている。
その表情には、余裕の笑みが張り付いていた。
「あらぁ、随分と湿気た場所ねぇ。私の肌には良いけれど」
彼女は試験管に入った液体をチャプチャプと揺らしながら、水面を見下ろした。
余裕に見える。
だが、観客席で見守るクロノスには分かっていた。
彼女の指先が、微かに、本当に微かにリズムを刻んでいることを。
それは恐怖のサインではなく、脳内で膨大な計算式を組み立てている時の癖だ。
(……ヴネナンにとって、水上戦は鬼門だ)
クロノスは拳を握りしめた。
彼女の武器である毒ガスや粉末は、水や風の影響を受けやすい。
特に水中では、毒の拡散速度や濃度計算が複雑になり、難易度が跳ね上がる。
加えて、相手が悪かった。
『対するは、東の入場ゲート!ドラゴニア帝国四天王が一角! 七つの海を支配する水の覇者!その美しき鱗に魅入られた者は、二度と陸へは戻れない!“海竜将”リヴァイアァァァッ!!』
水面が爆発した。
水しぶきの中から飛び出したのは、人間と魚の特徴を併せ持つ異形の美女だった。
青い肌。エラのある耳。背中にはヒレがあり、下半身は二本の足だが、鱗に覆われている。
半魚人の上位種。
水の中での機動力は、陸上の数倍。魔法を使わずとも水を操り、呼吸すら自在に行う。
このフィールドにおいては、無敵の存在だ。
「……フン。陸の女が、私の庭に入ってくるとはね」
リヴァイアは水面に立ち(表面張力を操作しているのだ)、ヴネナンを見下ろした。
その瞳は冷たく、捕食者が獲物を見る目だった。
「悪いことは言わないわ。棄権しなさい。水の中では、貴女の自慢の毒も薄まって役に立たない。溺れて醜態を晒す前に、家に帰って薬遊びでもしていることね」
リヴァイアの挑発に、会場が沸く。
誰の目にも、勝敗は明らかだった。
地の利は100対0でリヴァイアにある。
だが、ヴネナンは白衣の襟を直し、眼鏡の奥で目を細めた。
「あら、ご忠告ありがとう。でも、残念ねぇ。私は『遊び』に来たんじゃないの」
彼女は懐から一本のメスを取り出し、舌で舐めた。
「新しい実験をしに来たのよ。『魚類における毒物耐性と、水中爆破による衝撃波の伝播実験』……被検体は貴女よ、お魚さん」
「……減らず口を!」
リヴァイアの顔色が変わり、周囲の水がざわめき始めた。
殺気が膨れ上がる。
『両者、構えて!第二試合、開始ッ!!』
ゴングが鳴った瞬間。
リヴァイアが片手を振るった。
「切り刻みなさい! ウォーター・カッター!」
シュパパパパッ!!
水面から無数の水流が立ち昇り、鋭利な刃となってヴネナンに襲いかかった。
高圧で圧縮された水は、鋼鉄さえも切断する。
数は百を超える。回避不能の弾幕。
「あらぁ、いきなり激しいわねぇ!」
ヴネナンは跳躍した。
身体強化薬『レッド・ブースト』の効果で、常人離れした脚力を発揮する。
岩場から岩場へ、軽業師のように飛び移る。
ザシュッ! ザシュッ!
彼女がいた岩が、一瞬でサイの目に切断され、崩れ落ちる。
恐ろしい威力と速度。
「逃がさないわよ! 水よ、追尾なさい!」
リヴァイアが指を曲げると、外れた水の刃が空中で軌道を変え、ブーメランのようにヴネナンを追いかけ始めた。
ホーミング機能付きだ。
「きゃっ!」
ヴネナンは空中で体を捻り、紙一重で回避する。
だが、避けきれなかった一撃が、彼女の白衣の裾を切り裂いた。
白い布切れが舞い、水面に落ちる。
「ちっ……お気に入りの白衣だったのに」
ヴネナンは岩場に着地し、舌打ちした。
余裕ぶっているが、冷や汗が流れている。
速い。そして、数が多い。
毒を使う隙がない。瓶を取り出す暇さえ与えられない。
「どうしたの? 実験とやらは始めないのかしら?それとも、逃げ回るだけの実験?」
リヴァイアは余裕の笑みを浮かべ、水面を滑るように移動する。
彼女にとって、ここは戦場ではなくダンスフロアだ。
「……焦らないでよぉ。前戯は大切でしょう?」
ヴネナンは懐に手を伸ばそうとする。
だが、リヴァイアはその動作を見逃さなかった。
「させないわ!」
ドォォン!!
ヴネナンの足元の水面が爆発し、巨大な水柱が上がった。
足場が揺らぐ。
バランスを崩したヴネナンに、リヴァイア本人が突っ込んでくる。
水中からの急加速。
手には、水で形成された長槍。
「死になさいッ!」
心臓を狙った一撃。
ヴネナンは咄嗟にメスで受け止めた。
ガギィィン!!
金属と水がぶつかり合ったとは思えない、甲高い音が響く。
ヴネナンの体が後方へ弾き飛ばされる。
彼女は空中で回転し、なんとか別の岩場に着地したが、ヒールの踵が欠けた。
「……くっ、重いわねぇ」
パワーもスピードも、相手が上だ。
正面からやり合えば、数分でミンチにされるだろう。
「ふふ、次は首を落としてあげる」
リヴァイアは残忍に笑うと、音もなく水中に沈んだ。
姿が消える。
気配も消える。
水と同化したのだ。
広大なプールのようなフィールド。
どこから攻撃が来るか分からない恐怖。
水面が鏡のように静まり返り、ヴネナンの姿だけを映している。
(……来たわね。潜行モード)
ヴネナンは眼鏡の位置を直し、周囲を警戒した。
焦りはない。
むしろ、待っていた。
相手が「自分の得意な領域」に引きこもり、油断するこの瞬間を。
水中。
リヴァイアは魚のように泳ぎながら、水面上のヴネナンを観察していた。
彼女の視界は良好だ。水の振動、温度変化、魔力の揺らぎ。全てが手に取るように分かる。
(あの女、ただの毒使いじゃないわね)
リヴァイアは警戒していた。
予選での映像を見た。
ヴネナンは「幻影」を使った。煙で自分の分身を作り、斬られたと思わせて背後を取る戦法。
あれは厄介だ。
もし今、岩場に立っているヴネナンが偽物だったら?
不用意に飛び出せば、逆にカウンターを食らう可能性がある。
(焦る必要はないわ。ここは私の領域。じっくりと観察して、本物だと確信してから殺せばいい。人間は水の上では無力。酸素も続かないし、精神も磨耗していく)
リヴァイアは水底に潜み、旋回を続けた。
時折、水カッターを放って牽制し、ヴネナンの反応を伺う。
ヴネナンは必死に避けている。息が上がり始めている。
本物だ。
(……そろそろね。足を止めて、引きずり込んでやる)
リヴァイアは魔力を練り上げ、決着をつけるべく加速しようとした。
その時。
「……ん?」
違和感があった。
体が、重い。
水の中なのに、まるで泥の中を泳いでいるような抵抗を感じる。
(疲労? いいえ、まだ始まったばかりよ。魔力切れ? そんなはずはないわ)
リヴァイアは首を振った。
だが、違和感は消えない。
指先の感覚が鈍い。尾ひれの反応が遅れる。
視界が少し、霞んでいるような気がする。
「……な、なに……?」
思考に霧がかかる。
心臓の鼓動が、不整脈のように乱れ始めた。
ドクン、ドク……ン、ドクン。
(まさか……毒!?)
リヴァイアは驚愕した。
いつ? どこで?
ヴネナンは一度も攻撃していない。毒瓶を投げてもいない。煙も吐いていない。
ただ、逃げ回っていただけだ。
――逃げ回っていた?
リヴァイアの脳裏に、先ほどの光景がフラッシュバックする。
水カッターを避けるヴネナン。
岩場を飛び移るヴネナン。
その時、彼女の手や足から、微細な何かがこぼれ落ちていなかったか?
(……まさか、あの時!)
そう。
ヴネナンは逃げ回っていたのではない。
フィールド全体に、種を撒いていたのだ。
【水溶性神経毒・クリア・パラライズ】
ヴネナンが独自に開発した、対水棲生物用の猛毒。
水に触れた瞬間に溶け出し、無色透明・無味無臭の溶液となる。
比重は水とほぼ同じ。拡散速度は極めて速い。
彼女は、自分の靴底や、破れた白衣の繊維、そして指先から、この毒を少しずつ、しかし確実に水中に散布していたのだ。
リヴァイアは、巨大な毒のスープの中を泳いでいたことになる。
エラ呼吸をする彼女は、酸素と一緒に毒を直接血液に取り込んでしまった。
「が、はっ……!」
リヴァイアは口を押さえた。
痺れが全身に回る。
動けない。浮力が維持できない。
彼女の体が、ゆっくりと水底へと沈んでいく。
その時。
水面が割れた。
バシャアッ!!
飛び込んできたのは、ヴネナンだった。
彼女は大きく息を吸い込み、躊躇なく汚染された(自分が毒を撒いた)水中へとダイブしてきたのだ。
(なッ……!? バカなの!?自分も毒を食らうじゃない!)
リヴァイアは目を見開いた。
だが、ヴネナンの表情に焦りはない。
彼女は事前に解毒剤を飲んでいるのか、あるいは常軌を逸した耐性を持っているのか。
水の中だというのに、地上と変わらぬ鋭い眼光で、沈んでいくリヴァイアを捉えていた。
水中での格闘戦。
それは、ヴネナンにとって未知の領域だった。
息は続かない。水の抵抗で動きは鈍る。服が重い。眼鏡がずれる。
最悪のコンディション。
だが、彼女は笑っていた。
口からボコボコと泡を出しながら、ナイフを構えてリヴァイアに迫る。
(……捕まえたわよぉ、お魚さん!)
ヴネナンは水を蹴った。
『レッド・ブースト』の効果はまだ続いている。筋肉が軋むほどの力で水を掻き、リヴァイアとの距離を詰める。
「ん、ぐぅ……!」
リヴァイアも必死に抵抗する。
痺れる体を叱咤し、水流操作でヴネナンを押し返そうとする。
水流がヴネナンの体に叩きつけられる。
内臓が揺さぶられる衝撃。
(痛いっ! でも、止まらない!)
ヴネナンは歯を食いしばり、水流を突き破った。
リヴァイアの懐へ。
ナイフを突き出す。狙うはエラ。
ガィン!
リヴァイアがトライデントで防ぐ。
腐っても四天王。麻痺していても、水中の王者は伊達ではない。
筋力、反応速度、水の加護。全てにおいてヴネナンを上回っている。
(くっ、硬い……!)
ヴネナンの腕が弾かれる。
リヴァイアの尾ひれが、鞭のようにしなってヴネナンの腹を打つ。
「ごふっ……!」
ヴネナンの口から大量の空気が漏れた。
酸素がない。
肺が焼けるように熱い。
視界が明滅する。
(まずい……限界が近い……)
人間が水中で活動できる時間は短い。
ましてや、激しい戦闘を行えば、酸素消費量は跳ね上がる。
あと数秒で意識が飛ぶ。
ヴネナンは判断した。
一度、引くしかない。
彼女は岩壁を蹴り、水面へと急上昇した。
「……逃がす、ものか……!」
リヴァイアが睨みつける。
毒で体は重いが、相手は瀕死だ。ここで逃せば、回復されてしまう。
今が好機。
リヴァイアは最後の力を振り絞り、ヴネナンの足を掴んだ。
ガシッ!
水面まであと数メートルというところで、ヴネナンの動きが止まる。
リヴァイアの冷たい手が、足首に食い込んでいる。
(捕まえた! 引きずり込んで、溺死させてやる!)
リヴァイアは勝利を確信し、下へと引っ張った。
ヴネナンが苦しげに藻掻く。
泡が消えていく。
彼女の目が、リヴァイアを見る。
その瞳に、絶望の色はなかった。
あるのは、憐れみと、そして――『計画通り』という冷徹な光。
(……え?)
リヴァイアが違和感を覚えた時、ヴネナンは懐から何かを取り出した。
毒瓶ではない。
赤と青の液体が二層に分かれ、不気味に発光しているガラス瓶。
それは、あの日。
クロノスとの実験で、研究室を吹き飛ばした「失敗作」。
だが、ヴネナンにとっては「成功作」だった。
水中という密閉空間で、その威力を最大限に発揮するための切り札。
『爆縮反応液・水中仕様』。
ヴネナンはニッコリと笑った(泡が出た)。
そして、その瓶をリヴァイアの胸元に押し付け、手放した。
(……さようなら)
彼女はリヴァイアの腕を振りほどき(火事場の馬鹿力だ)、全力で水面へ向かった。
リヴァイアの目の前で、瓶が輝き出した。
臨界点突破。
「――!?」
声にならない悲鳴。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!
水中大爆発。
水の抵抗などものともせず、膨張したエネルギーが衝撃波となって拡散した。
水圧が一瞬で数千倍に跳ね上がる。
リヴァイアの体が、爆心地で木の葉のように揉みくちゃにされる。
そして。
闘技場の水面が、天に向かって噴き上がった。
ザッパァァァァァァンッ!!!!
高さ五十メートルを超える巨大な水柱。
大量の水が水蒸気となり、白い霧となって会場全体を覆い尽くす。
観客席にまで水しぶきが降り注ぎ、小雨のような状態になる。
「な、なんだぁぁ!?」
「前が見えねぇ!」
「津波か!?」
観客たちがパニックになる中、水柱がゆっくりと崩れ落ちていく。
フィールドの水位が半分以下になっていた。
どれだけのエネルギーが解放されたのか、想像を絶する光景だ。
白い霧が、徐々に晴れていく。
太陽の光が差し込み、空気中に漂う水滴に反射して、七色の虹を架けた。
その虹の下。
唯一残った岩場の上に、一人の女性が立っていた。
ヴネナンだ。
全身ずぶ濡れで、ドレスは張り付き、髪からは水が滴っている。
肩で息をし、立っているのがやっとの状態。
だが、その手にはしっかりと眼鏡が握られており、彼女はそれをゆっくりとかけ直した。
足元には、気絶したリヴァイアが打ち上げられていた。
全身の鱗が剥がれ、白目を剥いてピクリとも動かない。
至近距離での水中爆破。
魚人族のタフネスがなければ、粉微塵になっていただろう。
「……ふぅ。実験、終了よぉ」
ヴネナンは濡れた髪をかき上げ、勝利を宣言した。
静寂。
そして、爆発的な歓声。
「勝者、ヴネナン選手ぅぅぅ!!」
試合終了後。
ヴネナンは医療班の手を借りず、自力で控え室へと戻った。
足取りは重いが、背筋は伸びている。
誇り高き勝利者としての凱旋だ。
ガチャリ。
ドアを開けると、そこには仲間たちが待っていた。
「ヴネナン!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、クロノスだった。
彼はタオルを持って、ヴネナンを包み込んだ。
「……無茶しやがって。心臓が止まるかと思ったぞ」
「あらぁ、心配してくれました? 嬉しいわぁ」
ヴネナンはクロノスの胸に顔を埋め、その体温を感じた。
温かい。
冷え切った体が、芯から溶けていくようだ。
「すごかったですっ! あの水柱、伝説級でしたっ!」
「……爆発オチ、さすが」
「へっ、やるじゃねぇか毒女。見直したぜ」
リゼ、ノクト、ティランも集まってくる。
そして、レグルが近づいてきた。
彼女の目は少し赤かった。
「……計算通り、でしたか?」
「ええ。まあ、最後は出たとこ勝負だったけどねぇ」
「……そうですか。無事で、何よりです」
レグルは溜息をつき、そして優しく微笑んだ。
ヴネナンも微笑み返す。
「クロノス様。……私、役に立ちましたか?」
ヴネナンが上目遣いで尋ねる。
クロノスは強く頷き、彼女の濡れた髪を撫でた。
「ああ。最高だった。お前は俺の自慢のパートナーだ。……よくやった」
その言葉だけで、全ての苦労が報われた気がした。
ヴネナンは幸せそうに目を細め、意識を手放した。
安心しきった寝顔。
クロノスは彼女を姫抱きにし、ソファーへと運んだ。
二回戦突破。
ナイトレイ家の快進撃は続く。
そして、モニターの向こう。
次の試合の準備をする、二つの影があった。
『剛力将』タイタン。
対するは、『風神』リゼ。
力と速さ。
大地と天空。
対極の属性を持つ二人の戦いが、始まろうとしていた。
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