第10章 天空の鬼ごっこと、汚された純白
ヴネナンとの危険な薬学実験(と爆発事故)から一夜が明けた。
今日は快晴。雲ひとつない青空が広がっている。
絶好の洗濯日和であり――そして、絶好の「飛行訓練」日和だ。
場所は、ナイトレイ城で最も高い尖塔の屋上。
風が強く吹き付け、眼下には領地の森がミニチュアのように広がっている。
高所恐怖症なら足がすくむような場所だが、今の俺に恐怖を感じている暇はない。
「くろのすさまぁ~! 準備はいいですかぁ~?」
上空から、鈴を転がすような可愛い声が降ってきた。
見上げれば、太陽を背にして浮かぶ小柄な影。
『風音』のリーダー、リゼだ。
彼女は重力を無視してふわりと浮遊し、大きなキャスケット帽を押さえながら、無邪気な笑顔で俺を見下ろしている。
「……ああ、いつでもいいぞ」
俺は短剣を構え、重心を落とした。
今日の課題は**「対空戦闘」および「空中機動の習得」**だ。
敵はドラゴニア帝国。
女帝スカーレットは翼を持ち、自在に空を飛ぶ。さらに彼女の軍勢は数百の飛竜部隊だ。
地面を這いずり回っているだけでは、一方的に空から焼かれて終わる。
勝つためには、俺も空を制さなければならない。
「でもぉ、クロノスさまは風魔法の適性がゼロですよねぇ? どうやって空を飛ぶんですかぁ?」
リゼが小首を傾げる。
彼女の言う通り、俺の魔力適性は「無属性(特質系)」に偏っており、元素魔法(火・水・風・土)の才能はからっきしだ。
一般的な飛行魔法『フライ』すら発動できない。
「まともに飛ぶのは無理だ。だから……ズルをする」
「ズル?」
「ああ。物理法則を騙して、無理やり空中に居座ってやるのさ」
俺はニヤリと笑い、体内の魔力を練り上げた。
イメージするのは、鳥の羽。綿毛。空気よりも軽い存在。
【因果逆転・質量操作】
『俺の体に重力が作用している』という事実を拒絶。
『俺の体重はゼロである』という結果を一時的に強制する。
フワッ。
足元の感覚が消えた。
俺の体は風船のように軽くなり、風に乗ってふわりと浮き上がった。
「わぁっ! すごいです! クロノスさまが浮きましたっ!」
リゼがパチパチと拍手をする。
だが、これは「飛行」ではない。ただの「浮遊」だ。
風任せに流されるだけで、これでは空中の的にしかならない。推進力が必要だ。
「ここからが本番だ。リゼ、俺を捕まえてみろ」
「えっ? いいんですか?」
「ああ。本気で来い。手加減したら……今日のおやつは抜きだぞ」
「むぅっ! おやつ抜きは嫌ですっ! 本気で行きますよぉ~!」
リゼの目の色が変わった。
彼女の周囲に、鋭い風の刃が無数に生成される。
無邪気な死神の本領発揮だ。
「――ストーム・ラッシュ!」
リゼが指を振るうと同時に、風の刃が雨あられと降り注いだ。
逃げ場はない。空中に浮いている俺は、回避行動が取れない……はずだった。
【影渡】
俺は空中に浮かぶ「雲の影」を視認し、そこへ転移した。
ズババババッ!!
俺がいた空間を、風の刃が切り裂いていく。
「あれぇ? 消えちゃいました?」
「ここだ」
俺はリゼの真上、太陽の光が生み出す彼女自身の影から飛び出した。
重力はゼロ。落下音もしない。
完全な死角からの奇襲。
「えいっ!」
だが、リゼは振り返りもせず、背後に風の壁を展開した。
ガィン!
俺の短剣が弾かれる。
「惜しいですぅ! でも、風は私の友達ですから、気配の変化を教えてくれるんですっ!」
「……チッ、やっぱり一筋縄じゃいかないな」
俺は反動を利用して後方へ飛び退いた。
空中に足場はない。
だが、俺は再びスキルを発動させる。
【因果逆転・足場固定】
『空気を踏みしめる』という結果を強制。
何もない空間に、見えない床を作り出す。
タンッ!
俺は空気を蹴り、ジグザグに跳躍した。
重力操作で体を軽くし、影渡で距離を詰め、因果逆転で足場を作る。
魔力消費は激しいが、これで擬似的な空中戦が可能になる。
「あははっ! 楽しいですっ! クロノスさま、まるで忍みたいですっ!」
「遊んでる場合か! ……ほらよッ!」
俺は懐から数本のナイフを取り出し、投擲した。
ただ投げるだけではない。
**【絶対不可視】**を付与し、ナイフ自体の姿と気配を消す。
透明な凶器が、様々な軌道を描いてリゼに迫る。
だが。
「見えなくても、風の流れが変わるから分かりますっ!」
リゼは軽やかな旋回で、全てのナイフを回避した。
まるでダンスを踊っているようだ。
彼女にとって、空は庭であり、風は手足そのもの。
地上での戦闘ならまだしも、この領域で彼女に勝つのは至難の業だ。
「くそっ、速いな……!」
「もっと速くいきますよぉ~! ついてきてくださいねっ!」
リゼが加速する。
音速の領域へ。
彼女の姿がブレて消え、次の瞬間には俺の背後に回り込んでいる。
「タッチ!」
ドンッ!
背中に衝撃。
風の塊をぶつけられた。
殺傷力はないが、吹き飛ばされる威力はある。
「ぐわっ!?」
俺はキリモミ回転しながら吹き飛ばされた。
体勢を立て直そうとするが、平衡感覚が狂う。
これが空中戦の怖さか。地面がないという不安感が、判断を鈍らせる。
「まだまだぁ! 風の迷宮!」
リゼが両手を広げると、周囲の気流が乱れ、乱気流の檻が発生した。
上下左右、あらゆる方向から暴風が襲いかかってくる。
もはや立っていることすらできない。洗濯機の中に放り込まれた気分だ。
「……ッ、負けてたまるか!」
俺は歯を食いしばり、魔力を全開にした。
リゼの風を読むんじゃない。風そのものを支配しようとするな。
俺が支配するのは、結果(因果)だけだ。
【思考加速】
視界がスローモーションになる。
乱気流のわずかな隙間。風の切れ目。
そこを縫うように、俺は体を滑り込ませる。
「シッ!」
暴風の檻を突破し、リゼへと肉薄する。
彼女の驚いた顔が目前に迫る。
捉えた。
「一本ッ!」
俺の短剣が、リゼの首元のリボンを掠める――その寸前。
プツン。
俺の中で、何かが切れる音がした。
魔力切れ(ガス欠)だ。
重力操作、足場作成、影渡、不可視化、思考加速。
複数の高難易度スキルを同時並列で使い続けた代償が、一気に来たのだ。
「――あ」
体が鉛のように重くなる。
意識がブラックアウトする。
スキルの効果が切れ、物理法則(重力)が俺の体を捕まえた。
「クロノスさま!?」
リゼの叫び声が遠くなる。
俺の体は、高度百メートルの空から、真っ逆さまに墜落し始めた。
ヒュオオオオオ……ッ!!
風切り音が耳をつんざく。
地面がみるみる迫ってくる。
城の中庭の石畳が、硬い死の床に見える。
(……まずい。受け身が取れない)
魔力欠乏で指一本動かせない。
この高さから落ちれば、間違いなく即死だ。
因果逆転を使おうにも、起動する魔力が残っていない。
走馬灯が見えかけた、その時。
「させませんっ!!」
上空から、緑色の閃光が走った。
リゼだ。
彼女は音速を超えて急降下し、俺の落下速度を追い抜いた。
そして、俺の真下の空間に回り込み、両手を天に掲げた。
「風よ! 柔らかき腕となれ!」
【風魔法・エアロ・キャッチ】
地面の直上に、高密度の空気の層が生成された。
何層にも重ねられた風のマット。
俺の体はそれに包み込まれ、ふわりと減速した。
ボフッ。
まるで巨大な羽毛布団に飛び込んだような感触。
俺は地面の数センチ上で静止し、ゆっくりと石畳の上に降ろされた。
「はぁ、はぁ……! ま、間に合いました……!」
リゼが俺の横に着地し、へたり込んだ。
彼女もまた、とっさの全力魔法で息が上がっている。
「……助かった、リゼ。ありがとう」
「もう! 無茶しすぎですクロノスさま! 魔力残量くらい計算してくださいよぉ! 心臓が止まるかと思いました!」
リゼが涙目でポカポカと俺の胸を叩く。
ごもっともだ。
だが、手応えはあった。
一瞬とはいえ、空の王者であるリゼを追い詰めたのだ。この感覚を忘れなければ、スカーレットとも戦えるはずだ。
「ふぅ……」
俺は安堵の息を吐き、仰向けに寝転がったまま空を見上げた。
青い空。白い雲。
生きてるって素晴らしい。
そんな感動に浸っていた、次の瞬間。
俺の視界に、影が落ちた。
太陽を遮る、黒い影。
「……あ?」
俺とリゼは同時に顔を上げた。
そこには、仁王立ちする二人の人物がいた。
一人は、メイド服を着たノクト。
もう一人は、銀縁眼鏡のレグル。
二人とも、無表情だ。
だが、その背後からは、視認できるレベルのどす黒いオーラが噴き出している。
まるで、地獄の門が開いたかのような威圧感。
「……ノ、ノクト? レグル?」
俺が恐る恐る声をかけると、ノクトがゆらりと一歩踏み出した。
その手には、愛用の武器であるチェーンハンマー……ではなく、なぜか布団叩きが握られている。
「主人、いや……てめぇ」
ノクトが口汚い言葉を吐いた。キャラが崩壊している。
それほどまでに、彼女の怒りは頂点に達していたのだ。
「何度言わせれば気が済むのですか? 『怪我をするな』と。『無茶をするな』と。何回言わせれば、その鳥頭に学習機能が実装されるんですか?」
彼女の声は静かだが、絶対零度の冷たさを帯びている。
「昨日の爆発事故から、まだ一日も経っていないんですよ?
全身の傷も癒えていないのに、今度は飛び降り自殺の真似事ですか?
貴方にとって、命は使い捨ての道具なんですか? 私たちの心配は、ただの雑音なんですか?」
ノクトが俺の胸ぐらを掴み、引き上げた。
至近距離で睨まれる。その黄色い瞳は、怒りと、そして隠しきれない恐怖(俺を失うことへの恐怖)で潤んでいる。
「い、いや、修行の一環で……」
「黙れ」
一蹴された。
「リゼもです! 貴女は空のプロでしょう!? 主人の魔力管理もできずに、危険な機動をさせるなんて! もし受け止め損ねていたらどうするつもりだったんですか! ミンチになったクロノス様を私に掃除させるつもりでしたか!?」
「ひぃぃっ! ごめんなさぁぁい!」
リゼが土下座した。
ノクトの説教は正論すぎて、反論の余地がない。
そして、もう一人。
レグルが眼鏡を光らせて、一歩前に出た。
彼女の手には、泥だらけになった白い布切れが握られている。
「クロノス様。……これが見えますか?」
「……なんだそれは?」
「私のシーツです。そして、これはクロノス様のシャツ。あちらはノクトのエプロンです」
レグルが指差した先。
中庭の物干し場。
そこには、無惨にも地面に叩きつけられ、泥と土埃にまみれた洗濯物の山があった。
「本日は快晴。絶好の洗濯日和でした。
私とノクトが、朝から丹精込めて洗い上げ、真っ白に仕上げた洗濯物たち。太陽の匂いをたっぷり吸い込んで、今夜クロノス様を包むはずだったシーツ」
レグルの肩が震える。
「それを……貴方たちの『着地』の余波で発生した突風が……全て台無しにしました」
リゼの『エアロ・キャッチ』。
あの衝撃を殺すための逆噴射が、中庭に干してあった洗濯物をすべて吹き飛ばし、地面に叩きつけていたのだ。
「……あ」
俺とリゼは顔を見合わせた。
二次災害。
命は助かったが、生活を破壊してしまった。
「……洗濯のやり直し。乾燥の手間。洗剤の無駄遣い。そして何より、家事への冒涜」
レグルが呪文のように呟きながら、俺たちを見下ろした。
「覚悟は、できていますね?」
その後の数時間は、地獄だった。
俺とリゼは、中庭の水道場に正座させられ、延々と洗濯をさせられた。
魔法の使用は禁止。全て手洗いだ。
「腰を入れて! 汚れが落ちていません!」
「泡が残っています! すすぎ十回追加!」
鬼軍曹と化したレグルとノクトの監視の下、俺たちは泥だらけになったシーツや服を、タワシと洗濯板でゴシゴシと洗い続けた。
魔力切れの体に、肉体労働が染みる。
リゼは泣きながらパンツを洗っている。
「うぅぅ……私の手が荒れちゃいますぅ……」
「自業自得だ。……くそっ、このシミ、落ちねぇな」
俺は自分のシャツを力任せに擦った。
情けない。
最強を目指して空を飛んでいたはずが、数時間後にはパンツを洗っているなんて。
だが、これも修行だ。
指先の感覚を研ぎ澄まし、繊維の奥の汚れを感知し、最適な力加減で除去する。……これも一種の暗殺技術(?)かもしれない。
夕方になり、全ての洗濯物を干し終えた頃には、俺たちはボロ雑巾のようになっていた。
「……終わった」
「……死ぬかと思いました」
俺たちは濡れた石畳の上に大の字になった。
空は茜色に染まっている。
風が吹くと、清潔な洗剤の香りが鼻をくすぐった。
「お疲れ様でした。……まあ、合格点です」
レグルが温かいお茶を持ってきてくれた。
ノクトがタオルで俺たちの顔を拭いてくれる。
怒ってはいたが、結局は過保護なのだ。
「ありがとうございます、レグルお姉ちゃん……」
「ふふ、次は気をつけてくださいね。……でも、クロノス様の空中戦、見事でしたよ」
レグルが微笑んだ。
見ていてくれたのだ。
「ええ。最後の一撃、もし魔力が続いていれば、リゼに届いていた。……成長速度が異常」
ノクトも素っ気なく、しかし認めるように頷いた。
俺は自分の手を見た。
洗剤でふやけた指先。
だが、そこには確かな手応えが残っていた。
空を飛べる。戦える。
まだ不完全だが、可能性の扉は開いた。
「……へへっ。次は負けないぞ、リゼ」
「望むところですっ! 次はもっと高いところから落としてあげますからっ!」
俺たちは笑い合った。
洗濯物の白さが、夕日に映えて輝いていた。
一方、その頃。
ドラゴニア帝国、王立飛竜研究所。
広大なドーム状の施設の中で、女帝スカーレットは一頭の巨獣と向き合っていた。
彼女の愛竜、『漆黒の滅竜』。
神話の時代から生きるとされる、伝説のエンシェントドラゴンだ。
その巨体は山のように大きく、吐息一つで森を焼き払うとされる災厄の権化。
だが今、その最凶の竜は、猫のように喉を鳴らし、スカーレットに甘えていた。
「グルルルゥ……」
「よしよし、いい子ね。寂しかったの?」
スカーレットは竜の鼻先を撫で、硬い鱗に頬ずりをした。
彼女の体からは、竜を威圧し、同時に魅了する強烈な覇気が立ち昇っている。
竜種をも従える、真の王者の資質。
「あちら(ナイトレイ城)の様子はどうかしら?」
スカーレットが虚空に問いかけると、竜の瞳が水晶のように輝き、遠く離れた映像を映し出した。
そこには、洗濯物に埋もれて死にかけているクロノスの姿があった。
「……ぷっ。あはははは!」
スカーレットは大笑いした。
「なによあれ! 必死に空を飛ぶ練習をしたと思ったら、最後はパンツ洗い?
傑作だわ! 本当に飽きさせない男ね!」
彼女は涙を拭い、愛おしそうに映像を撫でた。
「でも、見たわよ。あの動き。
物理法則を無視した機動。魔力切れを起こすほどの集中力。
……着実に、牙を研いでいるようね」
スカーレットの瞳が、スッと細められる。
そこには、侮りではなく、好敵手に対する期待の色が宿っていた。
「いいわ。もっと足掻きなさい。もっと強くなりなさい。
そして、最高の状態で私の前に立ちなさい。
貴方をねじ伏せ、絶望させ、私のものにする瞬間……想像するだけで、ゾクゾクするわ」
彼女は竜の首に腕を回し、熱っぽい吐息を漏らした。
「残る期間は、あと二週間。
待ってるわ、私の可愛いダーリン」
夕日に照らされた帝都を見下ろしながら、最強の女王は微笑んだ。
その余裕は、揺るぎない自信の表れであり、同時にクロノスへの歪んだ愛の証明でもあった。
決戦の時は、刻一刻と迫っている。
俺たちの準備は、まだ終わらない。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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