第9章 紫煙の教室と、煤だらけの絆
ティランとの「肉体言語」による地獄の特訓から一夜が明けた。
全身の筋肉が悲鳴を上げているが、ヴネナン特製の湿布とマッサージのおかげで、動けないほどではない。
むしろ、筋肉が一度破壊され、修復されたことで、昨日よりも体が軽い気さえする。
そんな爽やかな(?)朝、俺が連行されたのは、城の地下深くにある一室だった。
重厚な鉄の扉を開けると、そこは異界だった。
鼻をつく薬品の臭い。ホルマリンの刺激臭。甘ったるい花の香り。それらが混ざり合い、脳髄を直接刺激するような独特の芳香が充満している。
壁一面の棚には、無数のガラス瓶が並び、中には色鮮やかな液体や、得体の知れない生物の一部が浮いている。
部屋の中央には巨大な釜が置かれ、紫色の煙を吐き出していた。
「ようこそぉ、私の愛の実験室へ。お待ちしておりましたわ、坊っちゃま」
白衣を翻し、妖艶な笑みで迎えたのは、ヴネナンだった。
彼女は黒板(なぜここにある?)の前に立ち、手には指示棒を持っている。眼鏡をかけ、髪をアップにまとめた姿は、知的な女教師そのものだ。
ただし、その白衣の下が、際どいスリットの入ったチャイナドレスでなければの話だが。
「さて、今日から始まるのは『毒と薬の特別講座』よぉ。
ティランちゃんとのゴリラ修行もいいけれど、暗殺者たるもの、知性も磨かなくちゃね」
ヴネナンが指示棒で黒板を叩く。
そこには、複雑怪奇な化学式と魔法陣がびっしりと書かれていた。
「……お手柔らかに頼むよ。俺は座学は苦手なんだ」
「うふふ、大丈夫よぉ。手取り足取り、脳みそが溶けるまで教えてあげるから」
彼女の不穏な宣言と共に、授業が始まった。
「まずは基礎知識からね。この世界に存在する毒は、大きく分けて三種類。
生物由来の『有機毒』、鉱物由来の『無機毒』、そして魔力によって生成される『魔毒』よ」
ヴネナンは流暢に解説を始めた。
ここまではまだいい。問題はこの後だ。
「例えば、この『コカトリスの涙』に含まれる神経毒素アルファは、人間の神経伝達物質と結合し、筋肉の収縮を阻害するの。これを中和するには、『マンドラゴラの根』に含まれるベータ成分と、『聖水』を3対7の割合で混合し、さらに月の満ち欠けに合わせて魔力を注入しながら……」
「……ちょっと待ってくれ。早すぎる」
「あら、まだ序の口よぉ?
さらにこの毒素アルファは、触媒として『火蜥蜴の粉末』を加えることで分子構造が変化し、遅効性の『出血毒』へと変質するの。その際の化学式は、魔力保存の法則に基づき……こうなるわ」
カッカッカッ!
ヴネナンが黒板に猛烈な勢いで数式を書きなぐっていく。
Σ(シグマ)とか∫(インテグラル)みたいな記号と、古代魔法文字が入り乱れている。
「この可逆反応における魔力消費量Eは、術者の魔力密度ρと大気中のマナ濃度μに比例し、時間の二乗に反比例する。つまり、数式で表すと……」
「……待て、待ってくれ。日本語で頼む」
「日本語よぉ? ……ああ、ここが分からないのね。
つまり、毒のポテンシャルエネルギーが閾値を超えた瞬間、エントロピーが増大して……」
ダメだ。余計に分からなくなった。
俺の脳内で、化学式がゲシュタルト崩壊を起こし、魔法陣が回転して見える。
思考回路がショート寸前だ。
「坊っちゃま? 聞いてますかぁ?」
不意に、甘い声が降ってきた。
ハッとして顔を上げると、ヴネナンが教卓から身を乗り出し、机に突っ伏した俺の顔を覗き込んでいた。
距離が近い。
そして何より――。
「……ッ」
重力に従って垂れ下がった、白衣の襟元。
そこから、豊かな双丘の谷間が露わになっている。
チャイナドレスの生地が食い込むほどの圧倒的なボリューム。そこから漂う甘い香り。
視覚と嗅覚への暴力的な刺激。
「目が泳いでますよぉ? どこ見てるのかしら?」
「……こ、黒板だ」
「うふふ、嘘つき。脈拍が上がってるわ」
ヴネナンは楽しそうに笑い、体を戻した。
意図的な色仕掛けだ。この女教師、タチが悪い。
俺の表情が虚無になっていくのを察したのか、ヴネナンが講義を止めた。
「あらら……? 坊っちゃま、もしかしてパンクしちゃった?」
「……面目ない。俺には才能がないみたいだ」
俺が再び机に突っ伏すと、ヴネナンは困ったように、しかしどこか楽しげに笑った。
「うふふ、可愛いわねぇ。知恵熱が出ちゃったかしら?
でも、困ったわねぇ。理論が分からないと、実践(調合)は難しいわよ?」
彼女は俺の髪を撫でながら、耳元で囁いた。
「……仕方ないわね。じゃあ、方針を変えましょうか。
『百聞は一見に如かず』。難しいお勉強はやめて、体で覚えちゃいましょう?」
「体で?」
「ええ。毒の恐ろしさと、薬の素晴らしさを、肌で感じるのよ」
ヴネナンはニヤリと笑い、部屋の奥にあるカーテンを開けた。
そこには、鉄格子で仕切られた檻があった。
そして、その中には数人の女たちが繋がれていた。
薄汚れた服を着た、人相の悪い女たちだ。
「……彼女らは?」
「王都から引き取ってきた死刑囚たちよ。連続毒殺魔、放火魔、嬰児殺し……ろくでもないクズばかり。
処刑されるのを待つだけの命だったけど、私が有効活用してあげることにしたの」
ヴネナンは慈愛に満ちた(ように見える)笑顔で言った。
つまり、人体実験のモルモットだ。
「さあ、実践授業を始めましょうか。
坊っちゃま、この小瓶を持って」
渡されたのは、紫色に発光する液体が入った小瓶。
「これは『幻痛の雫』。一滴垂らすだけで、全身の骨が砕けるような激痛の幻覚を見せる神経毒よ。致死性はないけど、精神が壊れるわ」
「……これを、彼らに?」
「ええ。観察するのよ。毒がどのように回り、どのように人体を破壊していくか。その悲鳴の色、痙攣のリズム、瞳孔の開き具合……。それら全てが、教科書には載っていない『生きた知識』になるわ」
ヴネナンは女の一人を指差した。
女は恐怖に震え、命乞いをしている。
「や、やめて! 助けて! 私は騙されてやっただけなのよ!」 「あら、その手で何人の旦那を毒殺したのかしら? 自業自得よぉ」
ヴネナンは冷たく言い放つ。
彼女の中に、彼らに対する同情心は欠片もない。彼女が愛するのは「坊っちゃま(俺)」と「知識」だけだ。それ以外は、実験材料かゴミでしかない。
俺は小瓶を握りしめた。
正直、気乗りはしない。いくら悪人とはいえ、拷問のような真似をするのは趣味じゃない。
だが、これは修行だ。
暗殺者として生きる以上、毒の知識は必須だ。敵が使ってくることもあるだろう。その時、症状を知らなければ対処できない。
「……分かった。やろう」
俺は覚悟を決め、鉄格子に近づいた。
その日から、俺の「薬学」の授業は、座学ではなく、凄惨な「臨床実験」へと切り替わった。
死刑囚たちを使った毒の講義(内容はあまりにグロテスクなので割愛するが、俺の夢見が悪くなったことだけは記しておく)を経て、俺はようやく「調合」の段階へと進んだ。
今回の目的は二つ。
一つは、解毒剤や治療薬の作成。
もう一つは、**「一時的な身体強化薬」**の開発だ。
一ヶ月後の武闘大会。
スカーレットや各国の猛者たちと戦うには、俺の素の身体能力では心もとない。スキルの魔力が切れた時の保険として、薬によるブーストが必要不可欠だ。
だが、強力な薬には必ず副作用がある。
俺の体に適合し、かつ副作用を最小限に抑えた「専用薬」を作らなければならない。
「さあ坊っちゃま、調合の時間よぉ。
ベースになるのは『赤竜の血』と『マンドラゴラの根』。そこに『加速草』のエキスを加えて、攪拌してちょうだい」
ヴネナンの指示に従い、俺は乳鉢で材料をすり潰し、フラスコで煮詰める。
温度管理、魔力の注入量、混ぜるタイミング。
一つでも間違えれば、薬は劇薬に変わる。
「慎重に、でも大胆に。魔力を馴染ませるイメージで……そう、上手よぉ」
ヴネナンが背後から俺の手を取り、一緒にマドラーを回してくれる。
彼女の体温と、甘い香りが俺を包む。
だが、俺に邪念を抱く余裕はない。目の前の液体が、ボコボコと不穏な泡を立てているからだ。
「よし、第一試作、完成だ」
出来上がったのは、ドス黒い赤色の液体。
匂いは……腐った卵とハッカを混ぜたような、鼻が曲がりそうな悪臭だ。
「じゃあ、試飲タイムね♡」
「……これを、俺が?」
「当たり前じゃない。自分の体に合わせて調整するんだもの。自分で飲んで、効果と副作用を記録しなくちゃ」
ヴネナンは満面の笑みでコップを差し出した。
逃げ場はない。
俺は息を止め、一気に煽った。
――激痛。
喉が焼ける。胃袋が暴れる。全身の血管に溶岩が流し込まれたような熱さ。
「ぐ、ぅぁぁぁッ!!」
俺はその場に膝をついた。
心臓が早鐘を打ち、視界が赤く染まる。
全身が熱い。内側から燃やされているようだ。
「あらあら、ちょっと刺激が強すぎたかしら?
顔が真っ赤よぉ。……熱はどうかしら?」
ヴネナンが膝をつき、俺の顔を両手で挟んだ。
そして、自分の額を俺の額に、コツンと押し当ててきた。
「……ッ!?」
「んー……熱い。40度はあるわねぇ。
瞳孔散大。発汗過多。……ふふ、私の顔が近くにあって、ドキドキしてるせいもあるのかしら?」
至近距離で見つめ合う瞳。
彼女の長い睫毛が触れそうな距離だ。
苦しいはずなのに、彼女の体温と香りが心地よく感じてしまう。これは薬の副作用か、それとも……。
「……離れろ、近い」
「うふふ、照れ屋さんねぇ。でも、データは取らせてもらうわよぉ」
ヴネナンは苦しむ俺を放置し(というか愛でながら)、楽しそうにデータを記録している。
「はぁ、はぁ……! 力は……出るな……!」
俺は立ち上がり、壁を殴りつけた。
ドゴンッ!!
石壁が粉砕される。身体強化スキルを使っていないのに、この威力。
効果は絶大だ。
だが、代償も大きい。
「……気持ち悪い。吐きそうだ」
「副作用で三半規管が麻痺してるのねぇ。あと、幻覚も見えてるでしょ?」
「ああ……お前が三人に見える……」
「うふふ、三倍愛してあげるわよぉ」
これが、修行の日々の始まりだった。
朝はティランと肉体をいじめ抜き、昼はヴネナンと薬漬けになり、夜はリゼやノクトと戦術の研究。
まさに地獄のローテーション。
俺は来る日も来る日も、試作品を飲んでは副作用に苦しみ、改良し、また飲むというサイクルを繰り返した。
ある日は全身が麻痺して動けなくなり、ある日は笑いが止まらなくなり、ある日は肌の色が青くなった。
並行して行われるティランとの手合わせでは、薬の効果を実戦でテストした。
「おい坊主! 今日の薬は効いてるか!?」
「ああ! 動きが見えるぞ!」
ドーピング状態で挑んだ組手では、ティランの攻撃を紙一重で躱せるようになった。
だが、薬の効果が切れた瞬間に強烈な脱力感に襲われ、ボコボコにされるのがオチだったが。
「坊っちゃまの体、だんだん薬に馴染んできたわねぇ。毒耐性も上がってるわ」
ヴネナンは嬉しそうに俺の採血データを眺める。
彼女の言う通り、度重なる人体実験のおかげで、俺の体は確実に変質しつつあった。
少々の毒なら無効化し、薬の効果を効率よく吸収する体質へ。
最強の肉体(器)を作るための、危険な土台作り。
そして、大会まであと三週間と迫ったある日のこと。 事件は起きた。
その日、俺たちは最終段階の調合に入っていた。
これまでのデータを元に、効果を最大化し、副作用をギリギリまで抑えた「完成品」を作るための作業だ。
だが、連日の修行による疲労が、俺の判断力を鈍らせていたのかもしれない。
あるいは、焦りがあったのかもしれない。
「次は……『氷河の雫』を三滴、だな」
俺は震える手でスポイトを握り、沸騰する釜に液体を垂らそうとした。
視界が少し霞んでいる。
手元が狂った。
「――あっ」
三滴のはずが、ドボッと多めに落ちてしまった。
さらに悪いことに、隣に置いてあった『爆炎草の粉末』の瓶に肘が当たり、中身が釜の中にこぼれ落ちた。
冷却素材と、爆発素材。
正反対の性質を持つ劇物が、不安定な状態で混ざり合う。
化学反応。
「……あ、これ、マズイ」
釜の中の液体が、一瞬にしてカッと白く発光した。
ブブブブブ……という不穏な振動音が響く。
臨界点突破。
俺が呆然としていると、横で見ていたヴネナンが、ふわりと微笑んだ。
「あらぁ……。綺麗な光」
彼女は避難するどころか、釜に近づき、愛おしそうに光を見つめた。
「懐かしいわねぇ。私も昔、こうやって失敗ばかりしていたわ。
未知の反応、予想外の結果。それが怖くて、でも知りたくて……。
ああ、坊っちゃまも同じ領域に来てくれたのね……」
彼女はウットリと浸っている。
いや、浸ってる場合じゃない!
「ヴネナン! 伏せろッ!!」
俺は叫び、ヴネナンを突き飛ばして覆いかぶさった。
次の瞬間。
カッ!!!!
ズドオオオオオオオオオンッ!!!!
研究室が閃光と爆音に包まれた。
衝撃波が壁を吹き飛ばし、色とりどりの薬品の雨が降り注ぐ。
火災報知器のベルがけたたましく鳴り響き、スプリンクラーが作動する。
「げほっ、ごほっ……!」
俺は瓦礫の中から顔を出した。
髪はチリチリに焦げ、顔は煤で真っ黒。服はボロボロだ。
腕の中にいたヴネナンも、白衣が焦げて煤まみれになっているが、なぜか恍惚とした表情で笑っていた。
「……素晴らしい爆発力ねぇ。これは兵器転用できるかも……メモしなきゃ」
「お前……死ぬところだったんだぞ……」
俺が脱力していると、破壊されたドアの向こうから、恐ろしい足音が近づいてきた。
カツ、カツ、カツ。
規則正しく、そして怒りに満ちた足音。
「……何事ですか」
煙の中から現れたのは、ノクトだった。
彼女は手にしたモップをへし折りそうなほど強く握りしめ、仁王立ちしていた。
その顔は無表情だが、黄色い瞳は修羅の如く燃え上がっている。
「ノ、ノクト……いや、これは事故で……」
「問答無用」
ノクトはスタスタと近づいてくると、俺とヴネナンの前に立ち、大きく息を吸い込んだ。
「い、い、いい加減にしてくださいッ!!!」
裂帛の怒号。
普段は冷静沈着な彼女が、初めて見せる感情の爆発だった。
「昨日のティランとの修行でさえ、全身打撲と筋肉断裂でボロボロなんですよ!? なのに、なんで今日も怪我をするような行動をとるのですか! 死に急いでいるんですか!?」
「い、いや、これは薬の調合で……」
「バカなのですか! バカなんですね!? 自分の命を何だと思っているんですか!」
ノクトの目じりに涙が浮かんでいた。
彼女は本気で心配し、本気で怒っていた。
主人が傷つくこと。それを防げなかったこと。そして、主人が自ら危険に飛び込んでいくことへの苛立ち。
そこへ、空気を読まないヴネナンが口を挟んだ。
「まぁまぁ、落ち着いてよぉノクトちゃん。大丈夫よぉ。
見ての通り、少しの怪我で済んだんだし? 私がちゃんと配合した特製ポーションがあれば、こんな火傷や切り傷なんて、一瞬で元通りに治せるわよぉ」
ヴネナンは「ほら」とポーションを取り出そうとする。
だが、それがノクトの怒りの導火線にガソリンを注いだ。
「――黙れ駄犬ッ!!」
バシィッ!!
ノクトがヴネナンの手を払い除けた。ポーションが床に落ちて割れる。
「怪我に大小なんてありません! 主人の体に傷がついた、その事実だけで万死に値するんです!
第一、監督者である貴女が何てざまですか! 貴女の役目は、主人に知識を教え、安全に導くことでしょう!?
一緒に暴走して、一緒に爆発して……実験台にするなんて言語道断! 呆れます!」
ノクトの正論マシンガン。
ヴネナンもさすがに言い返せず、シュンと項垂れた。
「……ごめんなさい」
「謝って済むなら警察(衛兵)はいりません!
……もういいです。顔も見たくありません」
ノクトは冷たく吐き捨てた。
「この部屋を、チリ一つ残さず片付けない限り、今日の食事は抜きですからね! おやつも夜食もなしです! 反省してください!」
バンッ!!
彼女は踵を返し、破壊されたドアをさらに蹴り飛ばして出て行ってしまった。
残されたのは、煤だらけの二人と、廃墟と化した研究室。
「……怒られちゃったわねぇ」
「……ああ。あんなノクト、初めて見たよ」
俺たちは顔を見合わせた。
お互いに顔は真っ黒で、髪はアフロみたいになっている。
パンダのような顔。
「……ぷっ」
俺が吹き出すと、ヴネナンも耐えきれずに笑い出した。
「あははは! 坊っちゃまの顔、炭焼きトカゲみたいよぉ!」
「お前だって、実験失敗したマッドサイエンティストそのものだぞ!」
「あはははは! でも、楽しかったわねぇ!」
俺たちは瓦礫の中で、ひとしきり笑い合った。
不謹慎かもしれない。ノクトには悪いかもしれない。
だが、失敗を共有し、煤にまみれて笑い合えるこの関係が、心地よかった。
師弟であり、共犯者。
「……さて。片付けるか」
「そうねぇ。ノクトちゃんの本気は怖いわよぉ。ご飯抜きは死活問題だもの」
俺たちは立ち上がり、掃除を始めた。
魔法で瓦礫を撤去し、雑巾で床を磨く。
二時間後、研究室はピカピカに元通りになった(壁の穴は板で塞いだが)。
「よし、完了だ」
「お疲れ様ぁ。……ねえ坊っちゃま」
ヴネナンが、煤の落ちた綺麗な顔で俺を見つめた。
「今回の薬は失敗したけど……データは取れたわ。次は必ず成功させる。
最強のドーピング薬を作って、坊っちゃまを勝たせてあげるから。……覚悟しておいてね?」
「ああ。期待してるよ、先生」
俺たちは拳を合わせた。
そして、空腹を抱えてダイニングホールへと向かった。
そこには、まだ少し怒っているけれど、温かいスープを用意して待っていてくれるノクトと、心配そうなレグルたちの姿があるはずだ。
一方、その頃。
ドラゴニア帝国、皇帝の私室。
女帝スカーレットは、豪奢なソファーに深々と腰掛け、退屈そうにワイングラスを傾けていた。
窓の外には、帝都の夜景と、夜空を飛ぶ飛竜の群れが見える。
絶景だ。だが、彼女にとっては見飽きた景色でしかない。
「……暇ね」
彼女はポツリと呟いた。
ナイトレイ城への襲撃から数日。
愛しい許嫁への宣戦布告を済ませ、武闘大会の準備も部下に丸投げした今、彼女にはやることがなかった。
手元の水晶玉には、今日もクロノスの姿が映し出されている。
今日は薬の調合に失敗し、爆発してアフロヘアになっている姿だ。
「……ふふっ。馬鹿な子」
スカーレットは愛おしそうに水晶玉を撫でた。
「そんな付け焼き刃の薬で、竜の血を超えるつもり? 無駄な努力ね。
でも、その必死な姿……悪くないわ」
彼女はワインを一気に煽った。
最強ゆえの孤独。退屈。
それを埋めてくれるのは、今は彼だけだ。
「早く来なさい、クロノス。
貴方がどんな手を使って私に挑んでくるのか……楽しみで濡れてしまいそうよ」
彼女は妖艶に舌なめずりをし、月に向かってグラスを掲げた。
その瞳は、獲物を待つ捕食者の色をしていた。
決戦まで、あと三週間。
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