第六話 いばらの君
コンソールには小さなパネルと数本のレバー、そして時代遅れの舵輪が設置してあった。構造は簡単そうであったが、目の前の機械人形はそれらにはほとんど触れずに操作しているようにも見えた。
「時間にして15分ほど所要いたします。リング部からこれから向かうシャフトまでの距離は約10キロメートルです」
問いに答えながらカッシングは引出しをあけ、そこから飲料の入ったガラス瓶を取り出した。金属とも陶器とも思えるその指が瓶の栓を抜くと、ポンッと軽い音がして中身の泡が溢れ出た。カッシングはその黄みがかった透明な液体をグラスに注ぐと盆にのせ、おもむろに差し出した。グラスの中では惑星の重力下と同じように炭酸の泡が活発に踊り、照明でキラキラと輝いていた。
それを見てマレリオの好奇心が鎌首を持ち上げた。それに理解の及ばない出来事の連続で喉がカラカラだった。さすがにここへきて毒などは入れていないだろうと自分に言い訳をしつつ、彼はグラスの中身を一口含んだ。きめの細かい泡が舌先を心地よくくすぐり、さわやかな甘みの奥にある香ばしい風味が鼻腔を抜けていった。初めて味わうその感覚に彼は、瞬く間にグラスを空けてしまった。
すかさずカッシングはおかわりをグラスに注いだ。しかし自分の置かれている状況を思い出し、呑気にもグラスを空けてしまった事に気まずさを感じたマレリオは、自制を働かせて続けて口をつけようとはしなかった。
片肘をつき、キャリッジに据え付けられた小さな窓から外の光景を眺めながらマレリオは物思いにふけっていた。機械人形との交渉は成り立たなかったが言語は通じていた。時間の単位も距離も共和国と同様なものを使用している。だが彼らが共和国に所属しているとはマレリオには到底思えなかった。
突然、キャリッジはトンネルを超え漆黒の宇宙空間に飛び出した。正確にはシャフトとリングを接続する巨大なアームの上を滑走していた。突然の風景の変化に動揺してグラスを落としそうになったが、マレリオはすんでのところでバランスを取り直し、服やシートを汚さなくて済んだ。
そのまましばらく進むと前方の暗黒の向こう側から白い壁が浮かび上がってくる。おそらくあれはこの城の中央にそびえ立っていた『尖塔』の壁だろうとマレリオは見当をつけた。やがてキャリッジがシャフト内に入り減速を始めた。
宇宙空間で冷やされたキャリッジが与圧されたシャフト内に入ると、一瞬でその表面に氷の膜を張った。氷はすぐに溶け始め車窓の外側を流れ落ちていった。
涙のように流れていく水滴とその先にある風景を眺めながら、彼は遭遇時に見たこの巨大宇宙船の姿を脳裏に思い浮かべ、今自分はあの白亜の巨塔のどのあたりにいるのだろうかと想像していた。
キャリッジは無機質な通路を静かに進み、やがて直径10メートルほどの円形の部屋の中央で停車した。到着したかとマレリオが腰を浮かせかけると、今度は部屋の床がキャリッジを乗せたまま上昇し始めた。どうやらこの部屋は大きな昇降機だったようだ。
「もうしばらくお時間がかかりますので、そのままおくつろぎください」
カッシングが穏やかな声で言ったが、マレリオはほとんどその言葉を聞いていなかった。目の前の光景に釘付けになっていたからだ。
昇降機がフロアを上がったところで空間が一気に広がった。眼前の光景は中央のひときわ大きな館を中心に放射状に拡がった石造りの街並みだった。照明は本物の陽光のように明るく調整されており、マレリオは陽光に暖められたそよ風が頬を撫でる錯覚に陥った。
昇降機は巨塔の内壁を這い上がるように上昇していた。シャフトの直径は数キロメートルを下らず、向こう側の壁は靄がかかっていてよく見えなかった。
この広大な空間を空気で満たしていることや、時代がかった街並みに何の意味があるのかは理解できなかったが、これを維持するためにどれほどの資源やエネルギーを要するのかを想像して背筋が寒くなった。
やがて昇降機は雲を突き抜け、天井に達し、さらにその上のフロアに進んでいった。針葉樹が広がる森林フロア、白い浜辺と海岸線が続く海洋フロア、そして乾いた砂と大地の中央に浮かぶオアシスに見たこともない動物たちが集うサバンナフロア。階層が移り変わるたびにマレリオはここが本当に宇宙船の中なのだろうかと疑問を募らせていった。
階層を上がっていくたびにフロアの面積は小さくなっていった。おそらく尖塔の部分に差し掛かってきたのだろうとマレリオは想像した。
やがて昇降機は上昇を止めた。今度こそ目的地に到着したようだった。カッシングがキャリッジのドアを開き、恭しくマレリオを外へ促した。
外に出たときマレリオは生身で宇宙に放り出されたような恐怖を感じた。そこが尖塔の先端に設置されたガラス張りの展望台だと気づくのに一呼吸が必要だった。
下層では数キロメートルほどあったシャフトの直径は、この尖塔の頂では200メートルほどにまで狭まっていた。
マレリオが立つ位置から展望台の中央まで緩やかなカーブを描く石畳の遊歩道が敷かれており、それを囲むように色とりどりの草花が植えられていた。花々を愛でるためのベンチが所々に置かれ、日中にはそこに木陰を落とすべく、傍らには広葉樹が植えられている。
透明なドームに囲まれたこの展望台は、宇宙の闇と遠い星の輝きに包まれた、宵闇の庭園だとマレリオは思った。
展望台の中央に小高い丘があり、それを囲むように小川が流れている。小川の周りでは虫の声が聴こえ、水辺を照らすように小さな光の群れが漂っていた。
カッシングに先導されて丘の麓まで歩みを進めたマレリオは、小川の辺で片膝をつき、その淡い光の粒をすくい上げた。掌に残ったのは光を放つ小さな甲虫だった。
「蛍を見るのは初めてですかな」
ぎょっとして手を振り甲虫を追いやったマレリオに向かって、カッシングは穏やかに話しかけた。その声には微笑ましいものを見た時の、さざ波のような微笑みの波長が込められていた。
本当にこの機械人形は人工の知性なのだろうか。誰かが自分を担いで遠隔操作でもしているのではないかとマレリオは疑った。
丘の上には大理石と思われる4本の白い石造りの柱を持つ東屋が立っていた。暗い展望台の中で、そこだけが煌々と灯りが点されており、闇に浮かび上がる神殿の様相をまとっていた。
マレリオが階段を上ると、東屋の中には大きなテーブルが据えられており、その純白のテーブルクロスの向こう側には1人の女性が座っていた。
緩やかにウエーブのかかった黒い髪を背後に流し、その肌は血管が透けて見えるほど青白かった。両の肩から胸元まで大胆に開いた深紅のドレスのデザインと、その細い首筋から鎖骨に流れ豊かな胸元に続く光景にマレリオは自らの状況を忘れて、思わず目を奪われてしまう。
長いまつ毛に縁どられた青みがかった銀色の大きな瞳は、有名なアケメネスの青い月の輝きのように、彼女の深い知性と思慮深さを物語っていた。
年の頃は20代後半から30を過ぎたくらいだろうか。マレリオは推定した。まだ十分に若く、それでいてしっかりと経験を積んでいる、そんな佇まいが彼女からは感じられた。
「謹んでご紹介いたします。この虚空の城『チェイテ』の主人であり、ワラキアの夜の王の娘、帝国の四大派閥『白の霊廟』における元老、夜の種族の真祖にして『いばらの君』、伯爵夫人、レディ・マーリャ、そして我が主にございます」
カッシングの朗々としたバリトンが宵闇の庭園に響き渡った。




