第十四話 ジャスミンの香り
「私がお迎えに上がった時は船にはセブラン様お一人しかいらっしゃいませんでしたが、他の乗組員様方は一体どちらにいらっしゃるのでしょうか」
カッシングが空いたグラスに赤い液体を注ぎながらマレリオに問うた。その言葉にマーリャははっと我に返った。
執事の言葉を聞くとマレリオはそれまでの常に余裕を持ったポーカーフェイスが剥がれ、バツのわるそうな表情を作り、一つひとつ言葉を選ぶように紡いでいった。
勢いよく出港したマレリオ達だったが、トーチ星系にたどり着くまでの二週間の緊張感はこれまで感じたことのないほど張り詰めたものだった。ナヴィは終始黙り込み必要な連絡事項以外一切口にはしなかった。コックピットには沈黙が続き、ただ空調の乾いた音と融合炉の細かな振動のみが響いていた。
いたたまれなくなった乗組員たちはそれぞれの持ち場に逃げ出していた。初老の機関士ガントは休暇中に整備が完了していなかったと言い機関室に籠った。巨漢の甲板係のドルクは積荷のチェックを始めた。衛生士のウィルは医務室で何かをやっているようだった。
哀れなのは操舵士兼通信士のピコだが、彼の持ち場はコックピットなので休憩時間以外どこにも逃げ込む場所がなく、ただ居心地悪そうに座席に座っていた。
マレリオは時折ジョークなどを言ってそんな空気を紛らわせようとしたが、ナヴィの重い沈黙とそれに威圧された若いピコの乾いた苦笑いとが返ってくるばかりだった。
事態に変化があったのはトーチ星系のワープゲートを通過した時だった。ゲートの管制官は五日前に正規軍の軍艦がゲートを通過したことをマレリオに告げた。
「こちら認識番号TN四五 〇〇〇二五六八七七六五 管制官クマルだ。ようこそトーチへ。追跡管理のための人員、船籍、積荷、その他の管理番号並びに情報データ送信を要請する。現在当星系では大規模な軍事行動が行われている。二八区から三四区までの航行は禁止されている。首都星スーザンには立ち入り可能だ。いいタイミングだったな、スーザンはいま恒星のこちら側にいるよ。三日もあれば到着するだろう」
ゲート開口面から放たれる歪んだ重力波にも拘わらず、管制区画からの音声通信はノイズなどが含まれないクリアなものだった。マレリオは用意していた圧縮データを送信しながら管制官に話しかけた。
「LL三二 〇〇〇八八五六二二三 船長のセブランだ。今データを送った。積荷は通商組合を通じて星系政府から依頼された『医療バルク』だ。ちなみに今の状況はどうなっているんだ」
「五日前に正規軍の艦隊が通過した。規模は規約により教えられんがね。反乱は二九区の小惑星帯で発生した。軍艦の足ならそろそろ到着する頃合いだ。今のところ話せる情報はそれくらいだ」
「ちなみにどこの艦隊だい?司令官は?」
「ここの星系ならティアマトの『ザイツ鎮守府』しか選択肢はないだろ。司令官はあの『片眼鏡』だ」
「あぁ、あの変人と噂の」
管制官としては珍しく、クマルは話好きな男だったらしい。多くの管制官は必要な記号のみを発し、それ以外は押し黙ってしまうものだ。もっとも一日に何十隻もの宇宙船とやり取りをしたらそれが普通なのかもしれないが。
運がいいことに価値ある情報をマレリオは手に入れることができた。通常の戦闘ならまずは拠点の制宙権の確保、次いで宙域の封鎖、最後に制圧と続く。反乱勢力が小惑星帯を拠点としているのならば物資の備蓄は惑星と比較すると少ないだろうが、封鎖すべき空間は惑星などよりよっぽど広い。やはり制圧には数週間から長引けば数か月に及ぶだろう。うまくすればもう一往復くらいできるかもしれない。
「ところで、今回は反乱としか聞いていないが、連中はどんな主張をしているんだい」
興味本位からマレリオはクマルに尋ねてみた。若干の沈黙の後でクマルは答えた。
「連中はここ数百年同じことを唱えているよ。『自由』だ。信用スコアのような不自由なカースト制度からの『自由』、物資の追跡管理からの『自由』、出生管理からの『自由』。人類に機械的な管理システムが必要だったのは過酷な移民船時代であって、多くの惑星をもつ豊かな星系間国家時代にこの制度はそぐわないとさ。もっと多くの資源を消費して、豊かさを興じる権利が人間にはある。と奴らは言っているよ。まったく、移民船だろうが惑星だろうが資源の総量が違うだけで、どちらも閉鎖空間に変りはないのにねぇ。無駄に資源は使ってしまえば後でどうなることやら」
「まったくだ」
ここで低速航行エリアを抜けたことを知らせるアラームが短く鳴った。世間話に飢えていたマレリオは後ろ髪を引かれる思いだったが、加速シークエンスに移行するようナヴィに指示をした。
船は加速をはじめ、瞬く間に通信可能エリアから離れていった。再びコックピットは沈黙に包まれた。マレリオはシートを通じて駆動系の唸るような振動を背中で感じながら船長席からそっと操縦席に座るナヴィを覗き見た。その艶やかな黒髪はそのほとんどがジャンプスーツのフードに隠れてしまっていたが、その後ろ姿からは彼女がいつも身に着けている香油のジャスミンの香りがふわりと漂ってくる気がした。
彼女とはもう長い付き合いだった。出会った当時、彼女はマレリオの所属していた商会の新人だった。真新しい派手なオレンジのジャンプスーツに身を包んだ彼女はまだ少女の趣を多く残していた。まだ二十代半ばだったマレリオは彼女の指導役を任され、彼は業務の多くを彼女に叩き込んだ。
生真面目な彼女は万事大雑把な船乗りたちとはそりが合わず、よく周りと衝突していたものだった。世渡り上手を自認していたマレリオは、そんな彼女の相談に公私を問わず聞いていたものだ。二人の距離は自然と近しくなり、やがてマレリオは彼女の初めての夜を独占するに至った。以来、彼女との関係は続いていた。
思えば十年前にマレリオが独立する際もナヴィは当然のような顔をしてついて来たし、商会の創業期の労苦も二人で分かち合ってきたものだ。商談が上手くいかなかった日や、二人してクタクタに疲れ果てた夜も、アパートメントに戻るとお互いに激しく求めあったものだった。
マレリオは今回の仕事を受けたことを間違いだと思っていなかった。成長と拡大は商いにとって必要不可欠な物であって、継続や安定を求めた瞬間に衰退が始まると彼は考えていた。その姿勢はナヴィもわかっている筈だった。それを知っているからこそ彼女は最初の反対意見以降は黙って業務に専念していたのではなかったか。
つまりは壁を作っていたのは自分だったのではないか。マレリオは自問した。そしてこの問題に関してまだ二人でちゃんと話をしていないことにも気づいた。
彼女が本当に反対していたのなら船を降りてもよかったはずだ。彼女の信用スコアはⅮランクの上位だった筈だ。航宙士の仕事は引く手あまただし、なにもこんな零細企業で働く必然はない筈だ。
マレリオは何だか無性に彼女が恋しくなってきた。滑らかで官能的なチョコレート色の肌も、艶やかな黒髪も、悩ましい吐息の感触と言い、そのすべてが濃厚なジャスミンの香りと共に想起された。
「あら、このわたくしの目の前で他の女の事を思い浮かべるなんてどういうことかしら」
その一言がマレリオの魂を乾燥した冷涼な宇宙船のコックピットから虫の音と小川のせせらぎの聞こえる東屋へ一瞬のうちに引き戻した。
「それに、何かしら、これは……ジャスミンの香り?」
レディ・マーリャのその言葉はマレリオの心臓を鷲掴みにした。お決まりのポーカーフェイスは剝ぎ取られ、目を見開き驚きの表情を隠すことができずにマレリオは彼女の顔を凝視してしまった。
それまで極力避けていた一組の銀色の瞳が正面からマレリオを見据えていた。その視線から這い出た見えない触手が彼の眼球を固定し、視神経に押し入っていくような錯覚をマレリオは感じた。怖気が全身を駆け巡り、彼の全身の筋肉は硬直して身動き一つとれないでいた。
暫しの間、その瞳はマレリオの肉体と魂を縛り上げ続けた。宛らブラックホールに巻き込まれた漂流物のように、マレリオはただひたすら無力感を感じながら、解放されるのを待つ以外の手段を見出すことができなかった。
やがて二つの銀色の光が細められ、深紅の紅を差した唇が微笑を浮かべると、マレリオを縛っていた緊張が弛緩し、彼は肉体の制御を取り戻すことができた。マナーも忘れて純白のテーブルクロスに両手をつくと、肺の中にたまっていた息を一気に吐き出し、ついで新鮮な空気を体内に送り込んだ。




