第十一話 生命の味
目の前で次々と表情を変えていく、この美しい支配者を目の当たりにして、マレリオの困惑は深まるばかりだった。
商人としてそれなりの経験を積み、幾つもの困難な交渉事を成功に導いてきた彼であったが、目の前に座る年若い女性からは、これまで対峙してきたどの商談相手とも全く異なる、底知れない異質な印象を受けていた。
「人類は青く輝く大洋が蒸発し、赤黒く鈍い光を発するマグマの海に移り変わるまで宇宙から観察を続け、そして太陽系から旅立つことにしました。そこからの旅路が……」
マレリオは激しく咳き込んでしまって、言葉を続けることができなくなってしまった。女主人による奇妙なプレッシャーからくる絶え間のない緊張感により、彼の喉は潤いを求めて猛烈に抗議した。
「物事とは一見しただけではわからないものね。この岩牡蠣のように、堅くごつごつとした殻の中に、このような柔らかい身が隠れているなんて、最初にこれを味わった人はどうしてこれを食べようなんて考えたのかしら」
くすりと笑いながらレディ・マーリャが話題を変えた。
「そのワインもそう。見た目から尻込みしているようだけれど、モノの形には必ず意味があるものよ。それがそのような形をしているのには明確な理由が存在するの」
自らは赤い液体をグラスの中でくゆらせながら、彼女はマレリオの前に置かれたワインを進めるような仕草をした。
「さあ、どうぞ」というレディ・マーリャのその声を耳にすると、マレリオは恐る恐るグラスを手に取り、目線まで持ち上げてみた。澱はすでにグラスの底に沈みこみ、上澄みが揺れる蝋燭の光を受けて柔らかな輝きをまとっていた。
彼女の声とグラスから放たれる光はマレリオの心を軽くし、彼は上澄みくらいなら飲めそうな気になっていた。
意を決して一口含むとまろやかな酸味が口腔に広がり、黄みがかった液体は乾ききった喉を潤しながら流れ落ちていく。思わず吐息を漏らし、マレリオはすかさず二口目を口にした。すると今度はドロリとした澱も含めてグラスの中身を流し込んでしまう。だが、上澄みとは違う香ばしさが鼻腔を抜けていき、全体の豊潤さを際立たせていった。
「一つの出来事の裏には幾層にも重ねられた真実が隠れているものよ。一方だけを見て理解したつもりになるのは、他方から見れば滑稽なものだわ。葡萄の発酵を促す酵母自体が芳醇な香りを醸し出すように、そして堅い殻の中に瑞々しく柔らかい身が隠れているように」
レディ・マーリャの言葉は何かを示唆しているようにも聞こえたが、それが何を意味しているかはマレリオにはわからなかった。
「発酵といえばミスター・セブラン。発酵と腐敗の違いをご存じかしら」
問いかけにマレリオは言葉を選びながら慎重に答えることにした。
「たしか、どちらも菌類などが有機物を変質させる現象ですね。発酵は人間にとって有用な変質で、腐敗はそうでないものと認識しておりますが」
「少し違うわ。どちらも同じものなのよ。ただ人間がこの自然の営みに対して勝手にルールを作り、その枠組みの中に押し込めてしまったのよ。人間とはなんと傲慢なのでしょうね」
どう答えてよいものかマレリオは思案したが答えを見出すことができなかった。
「現象や見かけで人間は判断するわ。それは人間がそれらを自分の知識として体系化し、用いるためのものよ。そこにはその枠組みから外れた者たちの視点は存在しないのでしょうね」
グラスには2杯目のワインが注がれていた。マレリオは揺れる液体を見ながらうまく言葉を返せない自分にもどかしさを感じていた。
レディ・マーリャは目を細め、そんなマレリオを値踏みするかのように眺めていた。下弦の月のように口角が持ち上げられ、深紅の唇の隙間から白い歯がチラリと姿を見せた。その笑顔はマレリオに舌なめずりをする猛獣を連想させた。
「さあ、岩牡蠣も味わってごらんなさい。その小さな生き物も自身の物語を持ち合わせているのよ。水系を浄化しながらその身を太らせ、そして彼らからすれば不本意だろうけど、その身はわたくしたちの味覚を楽しませてくれるわ」
「これが、生き物? 生物をそのまま食べるのですか」
「そうよ。不服かしら」
不服どころか、全力で拒否したかったが、彼女の視線はそれを許してはくれそうになかった。仕方なくスプーンを手に取り、マレリオはおそるおそる殻と身の間に滑り込ませた。
糸を引く粘液をまとった白っぽい身は、すぐにすくい取ることができてしまった。埃っぽい都市と宇宙港の匂いに馴染んだマレリオの鼻は、その異質な匂いに軽い拒絶反応を起こしたが、以前に商談で訪れた海洋クロレラプラントとその匂いがよく似ていることに遅まきながら気づいた。
「これは、海の匂いですか」
「あら、海をご存じかしら?」
茶化すようにレディ・マーリャが言うと、マレリオは負けじと言葉を返した。
「もちろん、共和国に所属する惑星の多くは海を持っています。中には完全に自然のものもありますよ」
「あら、それは素敵ね」と、レディ・マーリャは驚いたように称賛の声を上げた。それは自然の海に対してのものだったか、それとも言葉を取り戻したマレリオに対してだったか。
ただ鈴の音のように軽やかなその声は、マレリオを軽い興奮状態に誘っていった。勢いに任せてマレリオはスプーンを口に運んだ。
岩牡蠣の身を含むと、先ほどとは段違いの海の風味が拡がった。咀嚼すると塩味と旨味の中にミルクを思わせる濃厚な粘液がこぼれ出して口内を満たしていく。
共和国には様々な味わいのプリント食が数えきれないほど流通しているが、そのどれとも違う食感と味わいだった。
「如何かしら、まだ生きている生命の味は」
海の風味と濃厚な旨味の組み合わせに、白ワインのまろやかな酸味を加えると、更に味わいが深まることに気づき、グラスに手を伸ばしかけたマレリオに、レディ・マーリャは何気なく話しかけた。
「え? 生き……?」
生食どころか生きたままとは……。マレリオは思わず手のひらで口を覆ってしまった。押し寄せる吐き気を抑えながら、上目遣いで彼女を見る。
「言ったでしょう。真実は幾重にも重なって隠れていると」
艶然と笑みを浮かべる女主人を、マレリオは再び言葉を失い、呆然と眺めるばかりであった。




