第9話 偽りのデジタル遺言
雨上がりの秋葉原。窓の分厚いブラインドの隙間を開けると、湿気を帯びたアスファルトの匂いが風に乗って室内に流れ込んできた。
北村拓巳はデスクの前に座り、小さなグラスに氷を落とした。琥珀色をした濃いめのもろみしぼり酢を注ぎ、ミネラルウォーターで割ってマドラーで静かにかき混ぜる。
デスクの端に置かれた小皿から、ゴツゴツとした波照間島産の純国産黒糖の塊を指でつまみ、口に放り込んだ。奥深いコクと濃厚な甘みが口の中に広がったところへ、もろみ酢のさっぱりとした、しかし強い酸味を流し込む。クエン酸と糖分が、徹夜明けの重い脳と体に急速に染み渡っていくのを感じながら、北村は長く息を吐いた。
足元の段ボール箱では、子猫のスミが毛布にくるまって規則正しい寝息を立てている。
つくしがこの事務所を訪れてから、丸1日が経過していた。彼女が置いていった微かな線香の香りはすでに消え失せているが、「これ以上1人で壊れないでよ」という彼女の切実な声と、手に残された確かな温もりは、北村の胸の奥で静かに反響し続けている。
しかし、立ち止まるわけにはいかなかった。
北村の視線の先、マルチモニターの下には、雪穂が持ち込んだ黒いUSBメモリが置かれている。
数日前に急死した、大手IT企業・ネオ・サイバー社の子会社役員、大林の遺品。クロノスの資金源とも噂される企業の幹部であり、死の直前まで何者かにひどく怯えていたという男の残したデータだ。
表向きのロックはすでに解除し、ファイルのディレクトリ構造までは確認できたが、核心とおぼしき領域には極めて強力な暗号化が施されている。
コンコン、と。
短いノックの音が響き、返事をする前にドアが開いた。
「相変わらずね、拓巳。体に気を使っているのか、酷使しているのか分からない生活」
入ってきたのは、キャメルのパンツスーツを隙なく着こなした岩田夏美だった。豊かな黒髪を緩やかに巻き、エキゾチックで華やかな美貌には、常に大人の余裕が漂っている。仕立ての良いジャケットの肩を揺らして歩く姿には隙がなく、意志の強い太めの眉の下で光る瞳は、すべてを見透かすような力強さと深い知性を湛えていた。低く落ち着いた、しかし心地よく響く声が、埃っぽい事務所の空気を一変させる。
すれ違う誰もが振り返るほどの圧倒的なカリスマ性。ここは、彼女のような人間が訪れる場所ではない。
「お久しぶりです、夏美さん」
北村は立ち上がり、散らかっていたパイプ椅子を引き寄せると、座面の埃を軽く払ってから勧めた。かつて警視庁サイバー犯罪対策課で自分の直属の上官だった彼女に対し、北村は変わらぬ敬意を持っている。彼女は北村の圧倒的な才能を誰よりも評価し、同時にその危うさを理解してくれていた、数少ない理解者の1人だった。警察という組織の限界に見切りをつけて弁護士に転身した今でも、彼女は北村の「遺品整理」というグレーな稼業を、法務顧問という形で強力にバックアップしてくれている。
「気遣いありがとう。でも、今日は少し急ぎの用なの」
夏美は椅子に座り、デスクの上の黒いUSBメモリを一瞥した。
「雪穂から聞いたわ。大林さんの遺品、あなたが預かっているそうね」
「ええ。中身の解析を進めているところです。かなり手強い暗号化が施されていますが、もう数時間もあれば突破できるでしょう」
「それはそうでしょうね。大林さんは生前、私が企業法務の顧問として何度か相談に乗っていたわ。彼はとても慎重な人だった。そして、自分が消されるかもしれないという恐怖を常に抱えていた」
夏美は持参したスリムなアタッシュケースを開き、タブレット端末を取り出して北村のデスクに置いた。
「昨日、大林さんの甥である慎吾氏から、突然『デジタル遺言状』が提出されたの。ブロックチェーンを利用した電子署名付きのもので、大林さんの所有する全株式と個人資産を、すべて慎吾氏に譲渡するという内容よ」
「甥に全財産を?」
「ええ。大林さんは慎吾氏の放漫な経営態度をひどく嫌っていた。事業から遠ざけようとしていたくらいよ。全財産を譲るなんて絶対にあり得ない。それに、慎吾氏の背後には怪しげなダミー会社がいくつもぶら下がっているわ。おそらく、クロノスの資金洗浄に関わっている組織ね」
北村はタブレットの画面に表示された遺言状のデータをスクロールした。
「……電子署名自体は正規のアルゴリズムで生成されています。ハッシュ値も合致している。ですが、署名されたタイムスタンプが大林さんの死亡推定時刻のわずか2時間前だ。死の直前に、これほど複雑な手続きを一人で行うのは不自然すぎますね」
「遺産分割協議は今日の午後よ。慎吾氏は優秀な弁護士を雇って、この遺言状を盾に経営権を速やかに掌握するつもりでいる。拓巳、大林さんのUSBの中から、本来の遺言データか、この遺言状が偽造された証拠を見つけてちょうだい」
夏美は北村を真っ直ぐに見据えた。
「弁護士の仕事の手伝いですか。俺の料金は安くないですよ」
北村は小さく肩をすくめたが、その手はすでにキーボードの上に置かれていた。
「あら、元上官の頼みでも? それに、この遺言状を偽造した人間を辿れば、あなたが追っているクロノスに繋がるかもしれないわよ。お互いにとって悪くない取引でしょう?」
掌の上で転がすような夏美の笑みに、北村は降参したように短く息を吐いた。
「分かりました。データは俺が抜きます。法的な盾はお願いしますよ」
北村はモニターに向き直り、打鍵を始めた。
大林のUSBメモリに施された暗号の壁を、自作の解析ツールとマニュアルでのコマンド入力を組み合わせて削り取っていく。パスワードの総当たりではなく、暗号化アルゴリズムの隙間を突く精密なハッキング。数十回の無言の作業の末、最深部に隠されていたローカルのバックアップ領域に到達した。
北村の指がピタリと止まる。
「……見つけました。これが本来の遺言データです。資産の大半は財団へ寄付し、甥の慎吾には一切の権利を与えないと明記されている」
北村は2つのデータを並べて表示させた。
「慎吾が提出したデジタル遺言状は、大林さんが亡くなった直後に書き換えられたものです。ハッカーがネットワークタイムプロトコルサーバーとの通信に意図的な遅延を発生させ、電子署名のタイムスタンプを意図的に数時間過去へずらしている。大林さんが生きている間に署名されたように見せかけた偽装工作です」
「完璧な偽装に見えても、通信の経路には必ず矛盾が残るわね」
「ええ。この不正アクセスの通信ログと、大林さんがローカルに残していたオリジナルデータのハッシュ値を合わせれば、偽造は完全に立証できます。データを送ります」
北村は暗号化されたファイルを、夏美のタブレットに即座に転送した。
「助かるわ。これで、強欲な親族には退場してもらえる」
夏美は立ち上がり、タブレットをアタッシュケースにしまった。
「今日の午後、念のため回線を繋いでおいて。向こうが技術的な難癖をつけてきたら、バックアップをお願いするわ」
「了解です。気をつけて」
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
午後2時。都内の高級ホテルに用意された会議室。
重厚なマホガニーのテーブルを挟んで、岩田夏美は慎吾と彼の雇った弁護士と対峙していた。
「岩田先生。大林氏の生前の顧問であったことは存じておりますが、この正式な遺言状がある以上、経営権は速やかに私に移行されます。これ以上の介入は法的な妨害行為と見なしますよ」
慎吾の弁護士が、冷ややかな口調で牽制した。慎吾本人は腕を組み、余裕の笑みを浮かべて夏美を見下している。
夏美は手元のタブレットを開きながら、隠し付けた小型イヤホンに指を触れた。
『音声クリア。こちらのモニターに会議室のカメラ映像を同期しました。いつでもデータを出せます』
北村の低く落ち着いた声が鼓膜に届く。
夏美は脚を組み、大人の余裕を感じさせる優雅な動作でタブレットをテーブルの中央へ滑らせた。その力強い視線が慎吾を真っ向から射抜き、会議室の空気を一瞬で支配する。
「正式な遺言状、と仰いましたね。では、このデータについて合理的な説明をお願いできますか」
タブレットの画面には、北村が抽出したNTPサーバーへの不正アクセスログと、改ざん前のオリジナルデータのハッシュ値が並んで表示されていた。
弁護士が画面を覗き込み、眉をひそめる。
「何ですか、これは。出所不明のデータなど証拠能力はありませんよ。難癖をつけるなら、名誉毀損で訴えますよ」
慎吾が声を荒らげ、机を叩いた。
夏美は一切動じなかった。
「訴えていただいて結構よ。ただ、このデータはネオ・サイバー社のメインサーバーのアクセス記録と完全に一致します。死亡推定時刻の直後に、何者かが外部から侵入し、タイムスタンプを偽装して遺言状を上書きした。その通信元IPは、慎吾氏、あなたが所有するダミー会社のサーバーを経由しています」
「なっ……」
慎吾の顔から急速に血の気が引いた。
「偽造私文書行使、電磁的記録不正作出および同供用。警察のサイバー犯罪対策課がこのデータを見れば、即座に令状が下りるわ」
夏美の言葉は重く、そして逃げ道を完全に塞ぐ完璧な刃だった。
「遺産を諦めて今すぐ相続放棄の書類にサインするか、手錠をかけられてすべてを失うか。5秒で決めなさい」
沈黙が会議室を支配した。
弁護士は慎吾を庇うことを諦め、無言で目を伏せた。慎吾は震える手でペンを取り、夏美が差し出した書類にサインを書き殴った。
★★★★★★★★★★★
「鮮やかな手際でしたね」
通信を切る前、北村はマイク越しに短く労いの言葉をかけた。
『あなたのデータのおかげよ。これで大林さんの会社がクロノスに乗っ取られる事態は防げたわ。後で報酬は振り込んでおくわね』
夏美の声には、仕事を終えたプロフェッショナル特有の清々しさがあった。
通信が途切れ、事務所には再びサーバーの駆動音だけが残された。
北村は深く椅子に寄りかかり、残っていたもろみ酢を飲み干した。
遺言状の偽造を暴き、慎吾を排除することには成功した。
だが、北村の作業はまだ終わっていない。
慎吾のような男が、タイムスタンプの偽装という高度なハッキングを自力で行えるはずがない。彼が雇い、実際に大林のシステムに侵入して遺言状を書き換えたハッカーがいる。それが、クロノスの末端だ。
北村は再びキーボードに向かい、夏美の交渉の裏で密かに走らせていた逆探知プログラムのログを確認した。慎吾のダミー会社を経由していたIPアドレスを遡り、ハッカーの実際の潜伏先である物理サーバーの場所を特定しようとする。
幾重にも張られたプロキシの壁を、北村の指先が次々と破壊していく。その打鍵速度は、次第に熱を帯びて加速していった。相手が仕掛けたデコイのトラフィックを瞬時に見破り、本命の回線へとパケットをねじ込んでいく。
もう少しで尻尾を掴める。
そう確信し、最後のプロキシを貫通しようとした瞬間だった。
慎吾のダミー会社を経由していたIPアドレスを辿る北村の指が、突如画面に走った見覚えのある暗号化プロトコルの反応に止まる。
通信経路の先で、巨大なファイアウォールがただちに起動し、北村の侵入を一切の隙なく遮断した。ただ弾き返されただけではない。こちらが打ち込んだパケットを瞬時に解析し、逆にこちら側の構成を読み取ろうとする鋭いカウンターの気配。
慎吾に手を貸していたのは、ただのハッカーではない。『クロノス』の末端だ。
しかも、3年前のあの夜に相対したシステムと同種の、冷酷で洗練されたロジックがそこには存在していた。
北村は静かに奥歯を噛み締め、冷徹な光を孕んだ眼差しで画面を睨み据えた。
『……すぐ近くにいるな』
画面の奥に潜む亡霊の気配を感じ取りながら、北村は静かにキーボードへ手を置いた。3年間の逃避を経て、ついに相手の輪郭が明確なデータとなって現れた。決戦の時は、確実に近づいていた。
静まり返った事務所で、無機質な冷却ファンの低い駆動音だけが、絶え間なく響き続けていた。
【書籍発売のお知らせ】
作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。
現在予約受付中です。
もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。
書籍の詳細は活動報告/近況ノートをご覧ください。




