第8話 追体験の傷
北村拓巳は、デスクの中央に置かれた黒いUSBメモリから視線を外せないでいた。
その小さなデバイスは、巨大な敵の喉元へと続く道標であると同時に、3年前に自身のすべてを焼き尽くした『クロノス』という亡霊の影が潜むパンドラの箱でもあった。平田雪穂が残していった仄かな香水の匂いも、やがて焦げたフラックスと埃の匂いに上書きされ、事務所には再び雨音とサーバーの排気音だけが残されていた。
ふと、視界の端でメインモニターのデジタル時計が動いた。
23時59分から、0時0分へ。
日付が変わった。11月の、その日。
――その瞬間、北村の脳髄を、焼け火箸を突き立てられたような鋭い痛みが貫いた。
「っ……!」
咄嗟にデスクの縁を掴む。立ち上がろうとした足の裏から、床の感覚が急速に失われていく。
分厚いブラインドで遮られたはずの窓の外から、けたたましいパトカーのサイレンが鳴り響く錯覚。エアコンの冷気は、いつの間にか肌を焦がすような熱波へと変わり、淀んだ空気が酸素を奪っていく。
『拓巳、ここは俺が突入する。お前はバックアップを頼む』
ヘッドセット越しに響く、安田健太の声。
違う、行くな。そこは罠だ。
北村は喉を震わせようとしたが、声が出ない。気道が硬直して酸素が肺に入らない。
モニターの向こう側で、強固な暗号アルゴリズムが嘲笑うかのように増殖していく。すべての電子錠がロックされる硬質な施錠音。そして、オレンジ色の閃光。
「あ、ぁ……」
椅子から崩れ落ち、北村は冷たい床の上に這いつくばった。
肺が空気を求めて痙攣しているのに、吸い込もうとすると焦げた肉と血の生暖かい匂いが鼻腔を塞いだ。分厚い鋼鉄の扉を、掌から血が滲み、骨が軋むまで叩き続けたあの夜の感触が、両手に生々しく蘇る。
自分の傲慢さが、唯一の相棒を死の淵へ追いやった。その絶対的な敗北感と喪失感が、容赦なく北村の精神を泥濘の底へと引きずり込んでいく。どれほどハッキングの技術を極めようとも、あの夜の扉を開けるコマンドだけは、永遠に存在しない。
「ミー……」
遠くで、微かな声がした。
ひどく頼りない、小さな命の音。
北村の虚ろな瞳に、段ボール箱から這い出そうとして前足をばたつかせている黒い毛玉の姿が映った。
「す……み……」
微かに唇が動き、肺にわずかな酸素が流れ込んだ。
北村は床に爪を立て、這うようにして段ボール箱に近づくと、ひどく重い腕を伸ばしてスミの小さな体を毛布の中央へと戻した。
そのまま、北村は意識の糸を手放し、冷たいコンクリートの床に沈み込んだ。
★★★★★★★★★★★
雨は、翌日の午後になっても降り続いていた。
事務所の窓を叩く不規則な雨音と、ひどい悪寒で北村は目を覚ました。全身が冷や汗で濡れており、頭の奥で鈍い鉛玉が転がっているような痛みが続いている。
ゆっくりと上体を起こし、壁掛けの時計を見る。午後1時を回っていた。
スミが腹を空かせて鳴いている。北村は重い体を引きずるようにして立ち上がり、シンクへ向かった。
手慣れた動作で温めたミルクをスミに与え、満足して喉を鳴らす小さな体をそっと毛布に戻した。指先に残るかすかな体温だけが、冷え切った事務所の中で、今ここにいる自分を繋ぎ止める細い糸のようだった。気怠げな遺品整理屋の顔も、冷徹なハッカーの顔もない。ただ、疲弊しきった一人の男の素顔がそこにあった。
コンコン、と。
短いノックの音とともに、ドアノブが回された。
北村はゆっくりと振り返った。
立っていたのは、安田つくしだった。
濡れた傘から水滴が床に落ちる。彼女はいつものネイビーのパンツスーツではなく、漆黒の喪服に身を包んでいた。綺麗にまとめられた髪には微かに水滴が光り、目元はいつもより少しだけ赤い。
そして、雨の匂いに混じって、かすかな線香の香りが北村の鼻腔を掠めた。
今日が健太の命日であることなど、北村が一番よく知っている。
「……こんな雨の日に、来る場所を間違えてるぞ」
北村は平静を装い、低く落ち着いた声で言った。自らの体調不良を悟らせないよう、浅い呼吸を静かにコントロールする。
つくしは無言のまま、床に散乱した書類の束や、北村の異常に青白い顔色、そして首筋に張り付いた冷や汗の痕を鋭い目で観察した。刑事としての観察眼が、この部屋で数時間前に何が起きたのかを正確に読み取っていた。
「……あなた、一度もお墓に来ないわね」
つくしは傘を壁に立てかけながら、ぽつりと言った。責めるような響きはなく、ただ事実を確認するような静かな声だった。
「合わせる顔がない。それだけだ」
「そうね。私も、ずっとあなたには来てほしくなかった」
つくしはパイプ椅子に腰を下ろした。
北村は無言でミネラルウォーターのペットボトルを開け、つくしの前のデスクに置いた。温かいコーヒーを出したかったが、あいにく切らしている。
「兄は、花が好きだったから。たくさん供えてきたわ」
「そうか」
「雨に濡れて、すぐに駄目になっちゃうでしょうけど」
二人の間に、重く、しかしどこか凪いだような沈黙が流れた。
つくしは水を一口飲み、視線をデスクの中央へ移した。そこには、昨日雪穂が置いていった黒いUSBメモリが、手付かずのまま転がっていた。
「あの情報屋が置いていったものね。クロノスの資金源と噂されている、IT企業役員のデータ」
「警察もマークし始めたのか」
「ええ。本庁の捜査二課が極秘に動き出してる。でも、あの企業の防壁は厚い。警察の正規の手続きじゃ、末端のしっぽすら掴めずに終わる可能性が高いわ」
つくしは北村を真っ直ぐに見据えた。
「これを、開ける気?」
「俺の仕事だ」
「また一人で、泥を被る気なの?」
つくしの声に、初めて微かな熱が混じった。
北村は椅子に座り、少し長めの前髪の奥から彼女を見返した。彼女の瞳には、かつてのような憎しみや怒りではなく、痛みを分かち合おうとする切実な色が浮かんでいた。
「俺の過信が、健太を殺した。これは俺の落とし前だ。警察のルールに縛られているお前が関わるべきじゃない」
「思い上がらないで」
つくしが立ち上がり、デスクを挟んで北村を睨みつけた。
「あなた一人で背負えるほど、兄の命は軽くないわ。あなたの落とし前のための道具じゃない!」
「安田……」
「私だって……苦しいのよ」
つくしの声が震え、彼女は唇を強く噛み締めた。喪服の袖を握る指先が白くなっている。
「毎晩、兄がひょっこり帰ってくる夢を見るの。でも目が覚めると、もういないんだって思い知らされる。どうして止められなかったのか、どうして私じゃなく兄が死ななきゃならなかったのか……ずっと、自分を呪い続けてる」
目から零れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、つくしは言葉を絞り出した。
「その痛みが、あなたに分かる?」
北村は目を逸らさなかった。つくしが抱える、自分と同じ深さの地獄。その痛みを、彼自身の静かな眼差しで、ただ真っ向から受け止めていた。
「……分かるさ」
低く、重たい一言。
それは、どんな言葉を重ねるよりも深く、北村がこの3年間抱え続けてきた重さを物語っていた。
つくしは、デスクの下の膝の上に置かれた北村の両手に目を落とした。
その両拳は、湧き上がる亡霊の影を無理やり押さえ込むように、白くなるほど強く握りしめられていた。彼女は気づいたのだ。この男は、自分と同じか、それ以上の地獄を毎日一人で追体験し、それでもなお、自分を巻き込まないために壁を作ろうとしているのだと。
つくしはゆっくりと手を伸ばし、北村の白く強張った拳に自身の両手をそっと重ねた。
「っ……」
北村が僅かに息を呑む。つくしの手は温かく、確かな力強さを持っていた。
「……私たちは、同じ場所に立ち止まったままだわ」
つくしは、自身の喪失感を共有するように静かに告げた。
北村は、自分の拳を包み込むつくしの瞳を見た。そこにあるのは、兄の死という悲劇に押し潰された弱い妹ではない。真実から逃げず、痛みを抱えたまま闇に立ち向かおうとする一人の警察官の真っ直ぐな光だった。
北村はつくしの手の温もりに、3年ぶりに生者の温度を感じた。膝の上で固く握りしめられていた拳の力が、少しずつ抜けていく。
だが、彼女を再びあの地獄へと引きずり込むわけにはいかない。
彼はつくしの手からゆっくりと自身の腕を引き抜くと、小さく息を吐き出した。
「……足手まといになるなと言いたいが……、お前は警察官だ。お前の場所で、やれることをやれ」
突き放すような響きだったが、その声には確かな不器用な労りが混じっていた。
つくしは空になった自身の両手を見つめ、やがて静かに立ち上がった。傘を手に取り、ドアへと向かう。ドアノブに手をかけたところで、彼女は一度だけ振り返った。
「……あなたこそ、これ以上一人で壊れないでよ」
それだけを言い残し、つくしは喪服の裾を翻して雨の中へと去っていった。
錆びたドアが閉まり、事務所には再び重い静寂が降りてくる。
北村は、彼女の残した温もりを掌に感じながら、デスクの上の黒いUSBメモリを今はまだ開けずにただ静かに見つめた。
ブラインドの隙間から差し込むかすかな光が、デスクの上の黒いデバイスを照らし出していた。窓の外を叩く雨音だけが、事務所の深い沈黙を削り出すように、いつまでも響き続けていた。




