第7話 影からの誘惑
秋葉原の街を、冷たい雨が打ち据えていた。
ネオンの光が水溜まりに溶け出し、赤や青の毒々しい染みとなってアスファルトを這っている。ブラインドを下ろした事務所の中は、時折聞こえる雨粒が窓を叩く音を吸い込み、重苦しい沈黙に包まれていた。
巨大なサーバーラックの排気音だけが、単調なリズムを刻んでいる。
北村拓巳は、メインモニターの黒い背景に浮かび上がる無数のノイズを見つめていた。神崎のPCを物理的に焼き切った夜から3日が経過している。彼が最後の瞬間に抜き取った、上位組織へ繋がるIPアドレスの断片。それを手掛かりに、北村は幾重にも構築されたダミーサーバーの迷宮を、慎重に、そして執拗にマッピングし続けていた。
相手は3年前、相棒の安田健太を殺した連中と同じ暗号アルゴリズムを使う組織だ。
力任せに壁を叩けば、即座にあの「キルスイッチ」が作動し、手がかりは灰燼に帰す。北村は、相手のファイアウォールに感知されない極小のパケットを放ち、その反射の遅延時間からネットワークの構造を逆算するという、神経をすり減らす作業を遅々として進めていた。
「ミー」
デスクの足元で、小さな声がした。
北村は視線をモニターに固定したまま、左手だけを伸ばして段ボール箱の中を探る。指先に、柔らかな毛玉の感触が触れた。子猫のスミだ。北村の指の腹を小さな前足で抱え込み、喉をゴロゴロと鳴らしている。
北村はタイピングの速度を落とさず、左手の指先だけで不器用にスミの頭を撫でた。
コンコン、と。
不意に、錆びついたドアが短いノックの音を立てた。
北村が返事をする前に、ドアノブが回る。
入ってきたのは、水滴のついたトレンチコートを羽織った安田つくしだった。傘を畳む手つきには、どこか隠しきれない苛立ちと焦燥感が滲んでいる。トレンチコートの襟元から覗く、その強い眼差しが、部屋の奥の北村を厳しい色で射すくめた。
「……鍵くらいかけなさいよ。不用心すぎるわ」
「ここは店だ。鍵をかけたら依頼人が入れない」
「こんな雨の日の昼下がりに、飛び込みで来る客なんていないわよ」
つくしはコートの肩口を払いながら、北村のデスクの前に歩み寄った。その足取りには、警察官としての重圧と、北村に対する複雑な感情が入り混じっている。
そして、彼女はいきなり激しい口調で問い詰めた。
「……あなた、自分が何をしたか分かっているの!?」
「神崎が昨夜、東京湾の廃倉庫で意識不明の重体で見つかったわ。両手両足の骨を折られて、原型を留めないほどにね。ネットに流れた個人情報を頼りに、彼に恨みを持つ連中が一斉に動いた結果よ。……警察の手を通さず、悪人を社会的に抹殺して、暴力の嵐の中に放り出す。これがあなたの言う『データの整理』なの!? これじゃ、ただの私刑よ!」
つくしは両手でデスクの縁を強く握りしめ、北村を見下ろした。
北村はゆっくりと椅子を回転させ、つくしと正面から向き合った。
その瞳に、動揺は微塵もない。ただ、静かな氷のような理性が宿っていた。
「俺がやらなくても、神崎はいずれ上位組織に口封じのために消されていた。奴がすべての資産と信用を失ったことで、組織側は奴を『利用価値のない囮』として放置する方を選んだんだろう。結果的に、奴は生きて警察の病院のベッドにいる。違うか」
「詭弁よ。あなたは警察の捜査権を飛び越えて、一人の人間の人生を意図的に破壊したわ」
「あのままお前たちに任せていたら、奴は有能な弁護士を雇い、数年でシャバに出てきて、また別の木村翔太を作り出していたさ」
つくしは唇を噛み締めた。北村の言うことが、警察の限界を突いた残酷な事実であることを、彼女自身が一番よく理解しているからだ。ルールを守るからこそ、救えない命がある。そのジレンマに彼女は常に引き裂かれている。
「……それでも」
つくしが絞り出すように言った時だった。
カツン、カツン。
事務所の前の廊下から、ピンヒールがコンクリートを叩く硬質な音が近づいてきた。
つくしはハッとして振り返る。
ドアがゆっくりと開いた。
「あら、お取り込み中だったかしら?」
その声は、甘く、それでいて鼓膜の奥にまで響くような独特の艶を帯びていた。
姿を現したのは、この埃っぽいジャンク街には致命的なまでに不釣り合いな女性だった。明るいアッシュ系の髪を緩やかに巻き、体のラインを強調するタイトな黒のドレスの上に、上質なカシミヤのロングコートを羽織っている。
平田雪穂。28歳。
彼女が足を踏み入れた瞬間、事務所の焦げたフラックスの匂いが、洗練された海外ブランドの香水の匂いに上書きされた。
「あなたは……?」
つくしが鋭い声を放つ。警察官としての本能が、目の前の女から漂う「裏」の空気を即座に嗅ぎ取っていた。
雪穂は挑発的な、どこか猫のような笑みを浮かべ、つくしを上から下まで値踏みするように見つめた。
「ただの、北村君のお仕事のパートナーよ。……ああ、でもお会いできて光栄だわ。警視庁サイバー犯罪対策課の、安田つくし巡査部長」
「……どうして私の名前を」
「優秀で、真っ直ぐで、お兄さん想いの刑事さんがいるって、界隈じゃちょっとした噂になっているのよ。生で見ると、噂以上に可愛らしいお嬢さんね」
雪穂の言葉は丁寧だが、その奥には明確な余裕と、つくしを子ども扱いするような響きがあった。つくしの顔に、怒りの赤みがさす。
「ちょっと、この女は誰なの。あなた、また怪しい裏の人間と繋がっているの?」
「怪しいだなんて心外ね。私は都内で健全な会員制バーを経営している、ただの善良な市民よ。ねえ、拓巳?」
雪穂は北村のデスクの横まで歩み寄る。雪穂の視線が、北村のマルチモニターに走るターミナルの画面を一瞬だけ掠めた。そこにある難解なパケットの挙動を、まるで朝刊の天気予報でも見るように容易く理解したその瞳に、一瞬だけプロとしての鋭い光が明滅する。だが、彼女はすぐにそれを猫のような艶っぽい微笑みの下に隠し、北村のデスクの端に軽く腰掛けた。
北村は小さく息を吐き、雪穂を見上げた。
「わざと煽るな、雪穂。面倒が増える」
「ごめんなさい、つい。真面目な子って、からかってみたくなるのよね」
雪穂は悪びれる様子もなく肩をすくめた。
つくしは、二人の間に流れる立ち入りがたい空気を前に、拳を痛いほどに握りしめた。
「……警告しておくわ」
つくしは雪穂を鋭く睨みつけた。
「彼に非合法な依頼を持ち込んでいるなら、容赦しない。私は彼を監視している。警察の目を誤魔化せると思わないことね」
「怖い怖い。でもね、刑事さん」
雪穂はつくしのトレンチコートの襟元に、すっと白く細い指先を這わせた。
「そんなに固い服を着たままで、暗闇の中にいるあの子を引きずり出せると思っているの?」
「……何が言いたいの」
「お兄さんの背中を追うのは結構だけど、ルールという名の鎖で彼を繋ぎ止めようとしたら、今度は彼自身が窒息してしまうわよ。私たちは、もっと彼を……自由に遊ばせてあげられるの」
その言葉は、つくしの胸の最も痛い部分を正確に抉った。
3年前の事件。兄の死。北村が抱えるトラウマ。
つくしの瞳が揺れ、言葉に詰まる。
「そこまでだ、雪穂」
北村の低く、重たい声が室内の空気を制圧した。
彼はゆっくりと立ち上がり、つくしの方へ向き直った。その視線は、冷たさの中に不器用な気遣いを隠しているようにも見えた。
「安田。お前が今追うべきは、俺の監視じゃない。神崎が末端にやらせていた余罪の裏付けと、被害者たちのケアだろう。警察の仕事に戻れ。ここにいる暇はないはずだ」
北村の言葉は正論だった。彼を有能なハッカーとしてではなく、かつてのエリート捜査官としての視点から発せられた的確な指示。
つくしは反論を探すように唇を震わせたが、やがて深く息を吸い込み、踵を返した。
「……神崎の背後にいる組織の件、本庁でも極秘に専従班が組まれる動きがあるわ。絶対に、一人で突っ走らないで」
それだけを言い残し、つくしは逃げるように事務所を出て行った。
怒りを隠そうともしない乱暴な勢いでドアが閉められ、その後に重苦しい静けさだけが取り残された。
事務所には、北村と雪穂の二人だけが残された。
北村は再び椅子に座り、雪穂を見上げた。
「趣味が悪いぞ。あいつは神崎の件で神経が尖ってる」
「あら、私は真実を言っただけよ。彼女の真っ直ぐさは眩しいけれど、この先あなたが踏み込もうとしている闇には、あの光は少し邪魔になるわ」
雪穂はデスクから降り、北村の背後に回った。彼女の細い指先が、北村のパーカーの肩口にそっと触れる。
「神崎の件、界隈じゃ大騒ぎよ。あの男が持ってた裏口座の金、全部バーンアドレスに投げたんですって? 3億円も。もったいないことするわね。私に言ってくれれば、綺麗にロンダリングして半分ずつ山分けできたのに」
「汚い金だ。興味はない」
「そういう禁欲的なところ、嫌いじゃないわ」
雪穂の指先が、北村の首筋を撫でるように這う。北村は表情を変えず、ただ静かに彼女の手首を掴み、その動きを止めた。
「本題に入れ。ただ世間話をしに来たわけじゃないだろう」
北村の強い視線を受け、雪穂は小さく笑い、手を引いた。
「相変わらず隙がないわね」
彼女はコートのポケットから、一つの黒いUSBメモリを取り出し、北村の目の前のデスクに置いた。
「依頼よ。デジタル遺品の整理」
「誰のデータだ」
「5日前に、都内のホテルで急性心不全で亡くなった、ある大手IT企業の役員のものよ。警察は病死として処理したけれど、彼は死の直前まで、誰かにひどく怯えていたという話があるわ」
北村はUSBメモリを見つめた。
「それが、俺と何の関係がある」
「神崎のサーバーが物理的に焼け焦げる直前、一瞬だけ上位組織へ向けた逆探知のシグナルが走ったわ。拓巳、あれはあなたの仕業でしょう? そのシグナルが指し示した暗号化IPの宛先がね、私の情報網が掴んでいる『クロノス』の末端と符合したのよ」
「……」
「私の情報網を舐めないで。それで、ここからが本題」
雪穂は北村の耳元に顔を寄せ、内緒話をするように声を潜めた。
「亡くなったこの役員の企業、クロノスの資金源の一つじゃないかって噂があるの。彼らは今、あなたが神崎を潰したせいで警戒レベルを上げている。この役員が遺したデータを開けば、クロノスの中枢――あなたが3年前に失ったものを奪った連中の、本当の姿に繋がるかもしれないわ」
北村は、デスクに置かれた黒いUSBメモリを静かに見下ろした。
ただの遺品整理ではない。これは、彼を再び深淵へと誘い込むための、明確な「餌」だ。
「なぜ俺に持ち込む。お前の抱えているクラッカーたちにやらせればいいだろう」
「彼らじゃ無理よ。クロノスの防壁は、そこらの三流じゃ触れた瞬間に焼き切られる。あれを開けられるのは、私が知る限り、この街であなた一人だけ」
雪穂は微笑んだ。その笑顔は、蠱惑的でありながら、一切の感情を読ませない底知れなさがあった。
「それに、面白そうじゃない? かつて最強と呼ばれた男が、亡霊相手にどう戦うのか」
北村はUSBメモリを手に取った。
指先に伝わる、無機質な硬質の感触。その小さなデバイスの中に、巨大な敵の喉元へ至る道が隠されているかもしれない。
「……高くつくぞ、俺の仕事は」
「構わないわ。期待しているわよ、拓巳」
雪穂は満足そうに微笑むと、背を向けた。
ドアに向かう彼女のヒールの音が、事務所に響く。
「あ、そうそう」
ドアノブに手をかけたところで、雪穂が振り返った。
「その箱の中の子猫、可愛いわね。でも、ミルクの温度はもう少し高めの方がいいわよ。あの子たち、意外と寒がりだから」
雪穂はそれだけ言い残し、雨の降る街へと消えていった。
事務所には再び、サーバーの排気音だけが残された。
北村は、デスクに置かれた黒いUSBメモリをじっと見つめた。
掌の中にある冷たい金属は、巨大な敵の喉元へと続く道標であると同時に、3年前のあの炎の夜へと自分を引きずり戻す呼び水だ。
脳裏をよぎる、焼夷弾の閃光と、ヘッドセットから消えた相棒の声。
北村は、吸い込まれるようにキーボードへ伸ばしかけた手を止め、ただその小さなデバイスを睨み据えた。暗闇の奥から、亡霊が自分を誘うように笑っている気がした。




