第6話 悪人のデリート
港区の一等地。東京湾を一望できる高級タワーマンションの最上階。分厚い防音ガラスの向こうで、白み始めた東京の街並みが静かに広がっている。海面が朝日に反射して煌めいているが、神崎の目にはそんな美しい景色は一切入っていなかった。眼下に広がるその街で、彼がどれだけの人間を食い物にし、絶望の底に突き落としてきたか。しかし今、その絶対的な高みから引きずり下ろされようとしているのは彼自身だった。
神崎は、本革のプレジデントチェアから跳ね起き、苛立ちに任せてマホガニーのデスクを蹴り上げた。鈍い音が広いリビングに響くが、彼の焦燥感を紛らわせるには程遠かった。
「なんだ、これは……」
数時間前から、彼のメインPCの挙動が狂い始めていた。
最初は単なるネットワークの遅延だと思った。だが、ダミーサーバーのトラフィックを確認しようとすると、管理画面にアクセスできない。再起動をかけても、見慣れないプロセスがバックグラウンドで異常なリソースを食い潰している。彼は自分が築き上げた完璧な防壁が、見えない外敵によって一枚、また一枚と剥がれ落ちていくのをただ見ていることしかできなかった。
タスクマネージャーから強制終了を試みるが、『アクセスが拒否されました』という無機質なダイアログが弾き返してくる。
「管理者は俺だぞ……!」
神崎の青白い顔に、じっとりと脂汗が滲んでいた。
警察のサイバー捜査か? いや、それならもっと強引にプロバイダごと遮断してくるか、あるいは直接踏み込んでくるはずだ。こんな、真綿で首を絞めるような、じわじわとシステムの主導権を奪っていくような真似はしない。
まるで、見えない巨大な蛇にゆっくりと丸呑みされているような感覚。
画面の端で、セキュリティソフトのアラートが次々と赤く明滅し、ローカルネットワークへの侵入を警告した。ファイアウォールの設定が、彼の意志とは無関係に書き換えられていく。
そこには、彼が「ビジネス」で稼いだ3億円分の仮想通貨のウォレットと、末端の人間たちを脅迫するための個人情報、裏帳簿のすべてが保管されている。
『規律を乱す者は、システムから除外する』
ふと、彼にこのツールと立場を与えた上位組織の連絡役の言葉が、脳裏にフラッシュバックした。
もし、自分の管理の甘さでデータが流出すれば。あるいは、自分が警察に捕まれば。奴らは躊躇なく自分を「除外」する。その意味を、裏社会に身を置く神崎は骨の髄まで理解していた。失敗は許されない。言い訳も通用しない。彼らが重んじるのは結果のみであり、使えなくなった駒は速やかに盤上から消し去られる。
「クソッ、ふざけるな……!」
恐怖が、彼の薄っぺらい自己愛と全能感をあっさりと粉砕した。
末端の高校生一人を死に追いやった時でさえ何も感じなかった男が、今、自身の足元が崩れ落ちる音を聞いて歯の根も合わずに震えている。
神崎は震える手でデスクの引き出しを乱暴に開け、厳重に保管してあった黒いUSBドングルを取り出した。
上位組織から渡されていた、緊急時のみ使用を許可されている暗号化通信用のデバイス。これを使えば、奴らが用意した安全なサーバーへ自身のデータを退避させ、保護を求めることができる。だが、それは同時に「自分は無能である」と組織に報告することと同義だった。
迷いは数秒だった。大理石の床に落ちた冷や汗の滴を見つめながら、このまますべてを奪われる恐怖が勝った。
神崎はUSBポートにドングルを突き刺し、特定のコマンドを叩き込んだ。
★★★★★★★★★★★
「……来たな」
秋葉原の雑居ビル。
サーバーラックの冷却ファンだけが低く唸る事務所の暗がりの中で、北村拓巳はメインモニターに表示されたトラフィックの波形を見つめていた。
深夜から仕掛けていた遅効性のトラップ。モニターに表示された異常なトラフィックの乱れは、神崎が今、極限の焦燥と恐怖に叩き落とされていることを雄弁に示していた。
――『彼は今……失敗を咎められ、切り捨てられるのではないかという恐怖と戦っている』
脳裏をよぎる恵の冷徹な分析。神崎の精神の防壁に生じたわずかな亀裂へ、仕掛けられた罠が音もなく食い込んでいく。
画面の中央に、強固な暗号化で保護された未知のパケットが、神崎のローカルネットワークから外部へ向けて射出されようとするのが見えた。
それが、上位組織へのSOS――緊急連絡用のバックドアだ。
キーボードの上にかざされていた北村の両手が、次の瞬間、吸い込まれるようにキーへと沈み込む。
静寂に包まれた事務所に、容赦のない高速の打鍵音が響き渡る。キーボードを叩く指先の動きは、もはや目で追うことすら不可能なほどに研ぎ澄まされていた。
神崎が開いたバックドアの通信経路に、北村はコンマ数秒のラグを突いて自身のパケットを割り込ませた。通常なら強固な暗号化の壁に阻まれるが、内側から開けられた扉に足をねじ込むのは容易い。彼の指先が紡ぎ出すコマンドは、一切の無駄を削ぎ落とした洗練された刃となって、神崎のシステムを内側から切り刻んでいく。防御の隙を突き、管理者権限の壁をすり抜けて、システムの最深部へと到達する。
北村の目的は二つ。
一つは、神崎がSOSを送ろうとした「上位組織のIPアドレス」のキャプチャ。
もう一つは、開かれたバックドアを逆流し、神崎のPCの深層を完全に奪取すること。
「経路確保。IP抜いた。……通信遮断」
北村がエンターキーを叩き込むと同時に、神崎が上位組織へ繋ごうとした命綱は、物理的に断ち切られたように切断された。
上位組織への接続先IPアドレスは、北村のローカルストレージにしっかりと暗号化されて保存された。これで、あの暗号の先にいる亡霊の尻尾を一つ掴んだ。
視線を右側のモニターへ移す。
そこには、神崎のPCのデスクトップがミラーリングされている。
ここから先は、木村翔太という少年の未来を奪い、己の私腹を肥やしてきた悪党に対する、遺品整理屋としての執行プロセスだ。
北村はマウスに手を伸ばすことなく、コマンドラインから直接スクリプトを走らせた。
★★★★★★★★★★★
「は……? 通信エラー……?」
タワーマンションの一室で、神崎はモニターに表示された『Connection Lost』の文字を呆然と見つめていた。
何度再接続を試みても、USBドングルは一切の反応を示さない。焦りでキーボードを叩く手が滑り、プラスチックの虚しい打鍵音だけが響く。
その直後だった。
神崎のPCの画面が、突如として真っ黒に暗転した。
電源が落ちたわけではない。バックライトは点灯している。
「おい、動けよ! なんだこれ!」
キーボードを叩き、マウスを激しく動かすが、カーソルすら表示されない。
数秒後、真っ黒な画面の中央に、白い文字でターミナルウィンドウが立ち上がった。神崎が操作しているものではない。遠隔で、何者かが神崎の画面に直接出力しているのだ。
そこに表示されたのは、見慣れた文字列だった。
神崎が所有している仮想通貨ウォレットの残高。日本円にして約3億円。
『送金先アドレス:0x000000000000000000000000000000000000dEaD』
暗号資産における、誰も秘密鍵を持たない完全な廃棄アドレス。
神崎の喉が、ヒュッと鳴った。
「やめろ……やめろ!!」
画面上の残高が、猛烈な勢いでカウントダウンを刻んでいく。
3億、1億、5千万、1千万――。
まるで砂時計の砂が落ちるように、彼が数年かけて、他人の人生をすり潰し、脅迫し、恐怖で支配して集めた血に濡れた資産が消えていく。タワーマンションに住み、自分を神だと錯覚させていたすべての拠り所が、たった数秒の間に電子の海へ投棄されていく。
『Transaction Confirmed. Balance: 0』
残高がゼロになった表示が出た瞬間、神崎は椅子から崩れ落ち、這いつくばるようにしてPCの電源ケーブルをコンセントから引き抜こうとした。
だが、遅かった。
画面が切り替わり、今度はブラウザが自動的に立ち上がる。
表示されたのは、国内で最もトラフィックの多い匿名掲示板と、拡散力のある複数のSNSの画面。
神崎がこれまでに集めた未成年の脅迫写真。
架空請求や闇バイトの指示を出していたチャットの全ログ。
裏帳簿のデータ。
そして、神崎の本名と、このタワーマンションの住所、部屋番号。
それらが、北村があらかじめ用意していた無数のボットネットワークを通じて、凄まじい速度でネット上のあらゆる場所に自動投稿されていく。数秒もしないうちに、まとめサイトのbotが反応し、SNSのトレンドに神崎の本名が一気に駆け上がっていく。隠蔽はもはや不可能だった。
「あ、ああ……」
神崎の口から、形にならないうめき声が漏れた。
電源ケーブルを掴んだ手から力が抜け、その場にへたり込む。
ピリリリリリ!
リビングのガラステーブルに放り出されていた神崎のスマートフォンが、けたたましい着信音を響かせた。
画面には、彼が「仕事」で使っていた半グレグループの幹部の名前が表示されている。自分の悪事がすべてネットにばらまかれ、警察だけでなく裏社会からも同時に狙われる立場になったのだと、その着信音が雄弁に物語っていた。
電話には出られない。出たところで、もう彼を守ってくれるものは何一つない。
資産もなく、信用もなく、上位組織との繋がりも断たれた。
神崎は、自分が絶対的な安全圏から下界を見下ろす神などではなく、ただの無力な肉の塊に成り下がったことを、この上なく残酷な形で理解した。昨日まで彼が嘲笑っていた『使い捨てのコマ』たちと、今の自分は何一つ変わらない。
★★★★★★★★★★★
事務所のモニター越しに、神崎のシステムのトラフィックが完全に沈黙したことを確認し、北村は長く息を吐いた。
「完全消去完了だ」
低い呟きは、誰に聞かせるためのものでもない。
木村翔太を脅していた暴力の連鎖は、これで完全に断ち切られた。神崎は数時間以内に警察に踏み込まれるか、あるいは情報を知った裏社会の人間に拉致されるか。どちらにせよ、二度と社会の表舞台に戻ってくることはない。
北村は手元で最後のコマンドを叩いた。
木村翔太の端末に仕掛けられていた『キルスイッチ』の構造を逆用し、神崎のPCのフラッシュメモリに致死量の過電圧をかける。
ネットワーク越しに、神崎のPCが物理的に焼け焦げ、ただの鉄屑に変わったことをシステムログが伝えてきた。
北村はゆっくりと背もたれに体を預け、両手で顔を覆った。
疲労が鉛のように全身にのしかかってくる。一睡もしていない眼球の奥が、熱を持って疼いていた。極度の集中から解放された反動で、耳鳴りがキーンと脳の奥で鳴っている。
「ミー」
足元の段ボール箱から、スミの微かな鳴き声がした。
北村は手を下ろし、箱の中を覗き込んだ。黒い毛玉が、ミルクを求めてもぞもぞと動いている。
「少し待て」
北村は立ち上がり、シンクへ向かった。
電気ケトルで湯を沸かし、粉ミルクを慎重に溶かしてから流水で人肌まで冷ます。慣れない手つきでスミを抱き上げ、哺乳瓶を口元に寄せる。チュパチュパと音を立ててミルクを飲む小さな命の重みが、かじかんでいた北村の掌に微かな熱を伝えてくる。その温もりは、つい先程まで電子の海で一人の悪人を社会的に抹殺していた自身の冷徹な手と、奇妙な対比を描いていた。
デスクの端には、数時間前に土屋恵が置いていったタッパーと保温ボトルが手付かずのまま残されていた。
北村は片手でスミにミルクを飲ませながら、もう片方の手でタッパーの蓋を開けた。
綺麗に彩りよく詰められた卵焼きと、鮭の塩焼き、ほうれん草の胡麻和え。冷めてはいるが、出汁の優しい匂いが鼻腔をくすぐる。一口食べると、控えめな甘さと塩気が、カフェインで荒れ果てた胃を優しく撫でるように広がっていった。
「……美味いな」
ぽつりと漏らした声は、静まり返った事務所の空気に溶けていった。
モニターの隅には、神崎から奪い取った上位組織のIPアドレスの断片が、暗号化された状態で表示されたままになっている。
三年前に相棒の健太を奪い、今またこの街で誰かの命を弄んでいる亡霊の影。
尻尾は掴んだ。だが、相手は法の網の目を容易くすり抜け、3年前に相棒の命を奪った、底知れぬ悪意の深淵だ。
北村は割り箸を置き、冷めたカモミールティーで喉を潤した。
モニターの端では、暗号化されたIPアドレスの断片が、青白い光を冷ややかに明滅させている。
ブラインドの隙間から差し込む朝の光が、埃の舞う室内を白く照らし出し、夜の支配を少しずつ塗り替えていった。




