第5話 氷のプロファイラー
秋葉原の喧騒から完全に切り離された雑居ビルの一室。壁一面を占拠する巨大なサーバーラックが発する低く単調な排気音と、長年染み付いた微かなタバコの匂いが、今日もこの空間を支配している。
だが、ここ数日、その無機質な密室に、ひどく頼りない新しい音が混じるようになった。
「ミー、ミー」
かすれ気味の、弱々しい鳴き声。
北村拓巳は、何重ものターミナルウィンドウが開かれたメインモニターから視線を外し、デスクの脇に置かれた段ボール箱を覗き込んだ。古いフリース毛布を何枚も重ねて敷き詰めたその中央で、黒い毛玉のようなものが蠢いている。
生後四日。へその緒の痕が乾ききったばかりで、目はまだ完全に開いていない。
三日前の明け方。安田つくしと激しく衝突し、彼女に「亡霊を引きずり出す」と宣言した後、冷えた頭を落ち着かせるために外へタバコを買いに出た際、路地裏のゴミ捨て場でこれを見つけた。
雨に濡れたコンビニのビニール袋の中で、虫の息になっていた。
普段の北村なら、見て見ぬふりをして通り過ぎていたかもしれない。自分自身さえまともに生かせていない男が、命を拾う資格などない。だが、その時の彼は、木村翔太という少年の理不尽な死と、三年前に失った相棒の記憶で、神経が過敏に研ぎ澄まされていた。ゴミとして捨てられ、小さく消えかかっている命を、そのまま見過ごすことがどうしてもできなかった。
「……時間か」
北村はキャスター付きの椅子から立ち上がり、部屋の隅にある小さなシンクへ向かった。マグカップでミネラルウォーターを沸かし、哺乳瓶に入れた粉ミルクを湯煎して人肌に温める。
手首の内側に一滴落とし、温度を慎重に確認する。キーボードを叩く時とはまるで違う、壊れ物を扱うかのような不器用で、しかし丁寧な手つきだった。
箱から黒い毛玉をそっと片手で掬い上げる。軽すぎて、手のひらに何の抵抗も感じないほどだ。
哺乳瓶の小さな乳首を口元に寄せると、子猫は必死に前足でしがみつき、チュパチュパと音を立ててミルクを飲み始めた。
「焦るな、スミ」
北村は低く呟き、ミルクを飲む小さな喉の動きを静かに見つめた。
真っ黒だから、スミ。単純な名付けだったが、呼ぶと少しだけ反応する気がした。濡れティッシュで腹部を刺激して排泄を促し、綺麗に拭き取ってから再び毛布の上に寝かしつける。満足したのか、スミは身を丸くしてすぐに微かな寝息を立て始めた。
「……意外な才能があるのね」
不意に、背後から声がした。
いつの間にか開いていたドアの前に、一人の女性が立っていた。
透き通るような色白の肌に、艶やかな黒髪。上質なブラウスとひざ丈のタイトスカートという清楚な装いが、この埃っぽい事務所にはひどく不釣り合いだ。誰もが目を奪われるほど端正な美貌だが、その表情はまるで精巧な白磁の彫刻のように感情が排されており、近寄りがたい空気を纏っている。
土屋恵。二十六歳。
北村が警察を辞めた直後、深刻なトラウマと不眠症に悩まされていた彼を担当した臨床心理士であり、警察の嘱託プロファイラーでもある。
「鍵のピッキングは教えた覚えがないぞ、先生」
「あなたがドアの鍵をかけ忘れているだけよ。不用心ね。それに、私はもうあなたの担当医じゃないわ」
恵はコツコツとヒールを鳴らして室内に足を踏み入れると、手提げ袋から保温ボトルと小さなタッパーを取り出し、北村のデスクの空いたスペースに置いた。
カモミールとレモングラスの香りが、部屋の淀んだ空気を少しだけ柔らかくする。
「過覚醒の状態が続いているわね。目の下の隈、三日前より酷くなっている。睡眠時間は?」
「スミが三時間おきに鳴くからな。細切れに寝てる」
「猫のせいにしないで。あなたが意図的に眠りを拒絶しているのは、呼吸の浅さと瞬きの回数を見ればわかるわ」
恵の言葉は容赦がなかったが、その手は北村の乱雑なデスクの上のゴミをテキパキと片付けていた。彼女は極度の人見知りと不器用さを、このポーカーフェイスで覆い隠している。北村が裏社会に身を投じた今でも、こうして週に何度か手作りの弁当とハーブティーを持って現れるのだ。
「あの子は?」
「奥で寝てる。徹夜で解析ツールのハードウェア・アクセラレータを組ませたからな」
恵の少し距離を置いた問いに答えながら、北村は彼女が淹れてくれたハーブティーを一口飲んだ。温かい液体が、カフェインとエナジードリンクで荒れた胃にゆっくりと染み渡り、少しだけ肩の力が抜ける。
「……ちょうどいいところに来た。先生の専門分野だ、ちょっと知恵を貸してくれ」
北村は椅子を回転させ、メインモニターのロックを解除した。
画面に表示されたのは、木村翔太を脅していた指示役・神崎のPCから抜き取ったデータ群だ。個人を特定できる情報や、すでに警察へ渡した証拠部分は、北村の手でマスキングされている。
「指示役の男のチャットログと、金の動きだ。こいつの背後には、三年前に健太を殺した連中と同じ暗号を使う『本命』がいる。だが、こいつのPCのディレクトリをいくら深く掘っても、上位組織への直接的なコンタクト先が出てこない。連絡は常に相手からのワンウェイだ」
「だから、彼自身の心理状態から、相手を引きずり出す隙を見つけたいのね」
恵は北村の隣に立ち、モニターを見つめた。その瞬間、彼女の瞳から世話焼きの気配が消え、対象の内面を解剖するプロファイラーとしての怜悧な「眼」へと変貌した。
彼女の視線が、画面上のテキストログを驚異的な速度で滑っていく。神崎が末端の「闇バイト」の若者たちに送った脅迫めいたメッセージ、仮想通貨の取引履歴、そして、彼が日常的に利用していた高級ラウンジやブランド品の購入履歴。言葉の端々に表れる自己顕示欲と、他者への共感の完全な欠如。
沈黙が五分ほど続いた。北村は急かすことなく、スミの入った段ボール箱に軽く手を添えたまま待った。
「……典型的な、誇大性自己愛ね」
恵が口を開いた。その声は、無機質なデータを切り裂くメスのように鋭かった。
「自分を特別な存在だと思い込み、他者を搾取することに一切の罪悪感を持たない。末端の若者たちに対する言葉遣いを見て。『お前らは代わりがいくらでもいる』『俺の言う通りに動けば神になれる』……自分を全能の支配者に見立てているわ」
「だが、臆病でもある」
「ええ。その通りよ」
恵は北村の言葉に頷き、画面の一つのログを指差した。神崎が末端との通信を一方的に切断した際のものだ。
「彼は自分の手を一切汚していない。常に物理的な距離を置き、安全圏からコントロールしている。タワーマンションの最上階に住み、高級ワインを飲んで、自分は安全だと必死に思い込もうとしているわ。そして、ここが重要なんだけど……彼が末端を切り捨てる時に使っているこのフレーズ。『規律を乱す者は、システムから除外する』」
「……」
「この男の普段の語彙レベルからすると、少し不自然に硬いわ。おそらく、これは彼の言葉じゃない。彼を支配している『本命』――上位組織から、彼自身が言われ続けている言葉の反復よ。人は強い恐怖を感じた時、自分を脅かす存在の言葉を無意識に模倣して、自己防衛を図ることがあるわ」
北村の目が微かに細められた。恵の分析が、データの羅列から一人の人間の輪郭を、生々しい弱点とともに浮き彫りにしていく。
「つまり、神崎は自分を神だと思い上がりながらも、上位組織に対しては絶対的な恐怖と服従を強いられている。彼にとっての上位組織は、自分の全能感を保証してくれる『後ろ盾』であると同時に、いつでも自分を切り捨てられる『恐怖の対象』ね」
恵は視線をモニターから北村へ移した。
「彼は今、末端の一人だった木村翔太が死に、警察が動いたことで、強いストレスに晒されているはずよ。表向きは平静を装っていても、深層心理では『上位組織に失敗を咎められ、切り捨てられるのではないか』という恐怖と戦っている。彼の誇大性は、その恐怖を隠すための薄っぺらい鎧に過ぎないわ」
「……なるほどな」
北村は深く椅子に沈み込み、指先で顎の無精髭を撫でた。
恵のプロファイリングが、分厚い壁に一本の明確な亀裂を入れた。
「直接叩けば、奴は恐怖で口を閉ざすか、あるいは自暴自棄になってすべてを破壊するだけだ。だが、奴の『自己愛』と『承認欲求』を揺さぶれば……」
「ええ。彼自身の手で、上位組織にSOSを出させることができるかもしれない」
北村の頭の中で、バラバラだったピースが急速に組み上がり、一つの緻密なトラップの設計図が完成していく。
長ったらしい説明は不要だった。北村は即座に体を起こし、キーボードに両手を乗せた。
不規則な、しかし恐るべき速度の打鍵音が、静まり返った室内に響き始める。
神崎が管理しているダミーサーバーに対し、警察のサイバー捜査を偽装した攻撃パケットを送る。いきなり本丸は叩かない。彼が普段使っている市販のセキュリティツールでは完全には防げず、徐々にリソースが食い潰されていくような絶妙なラインの負荷をかける。
自分が全能の神ではないという現実を突きつけられ、孤立と焦燥感に耐えきれなくなった神崎が、自らの身を守るために上位組織への『緊急連絡用のバックドア』を開く瞬間を待つ。
「……相変わらず、容赦がないわね」
恵は北村の凄まじいタイピング速度を見つめながら、小さく息を吐いた。
彼の瞳には、かつて警視庁でトップエースと呼ばれていた頃の、獲物を追い詰める怜悧な光が戻っていた。それは頼もしくもあるが、同時に、彼が再びあの暗い深淵へと足を踏み入れていく危うさを孕んでいる。
「三年前に戻るつもり?」
「戻るんじゃない。終わらせるんだ」
北村は画面から目を離さずに答えた。
恵は何も言わず、北村が飲み干したマグカップを無言で回収し、シンクで洗い始めた。彼女は北村を止めることができない。三年前、彼の心を救えなかった自分が、今さら正論をぶつけたところで意味がないことを知っているからだ。
ただ、こうして傍にいて、彼が完全に壊れてしまわないように、温かい茶を淹れることしかできない。それが、彼女なりの密かで、不器用な執着だった。
「ミー」
段ボール箱の中で、スミが微かに身じろぎをして鳴いた。
北村はキーボードを叩く右手を止めず、左手だけを伸ばして、スミの背中を指の腹で優しく撫でた。不規則だった鳴き声が、安心したようにすぐに収まる。
「無理はしないで、と言っても聞かないわね」
洗い物を終えた恵が、タッパーを北村の視界の端に押しやりながら言った。
「弁当、後で食べなさい。栄養失調で倒れられても、私は医者じゃないから処置できないわよ」
「ああ。助かる」
北村は短く応じ、左手もキーボードに戻した。
恵はそれ以上何も言わず、来た時と同じように静かにドアを開けて出て行った。カモミールの残り香だけが、温度の低い室内に微かな温もりとして留まっている。
北村は打鍵を止め、エンターキーを静かに押し込んだ。
モニターの青白い光が、前髪の奥にある鋭い瞳を冷たく染め上げる。仕掛けられた罠は、すでにインターネットの暗闇を這い進み始めていた。
北村はゆっくりと背もたれに体を預け、闇に潜む『神様』が自らその喉元を晒す瞬間を、静かに待ち受けた。




