第10話 カウントダウンの始まり
ネオ・サイバー社の子会社役員・大林の残したデジタル遺言状の偽造。敏腕弁護士である岩田夏美が表舞台で強欲な親族をねじ伏せている裏で、北村拓巳はその偽造工作を行ったハッカーの逆探知を試みた。結果は、想定を遥かに超える巨大な壁との遭遇だった。
北村は、秋葉原のメインストリートから少し外れた路地を歩いていた。
徹夜明けの体に容赦なく降り注ぐ昼下がりの陽光はひどく眩しかったが、冷ややかな外気は張り詰めていた神経を幾分か鎮めてくれた。周囲には電子部品のジャンク屋やメイドカフェ、無国籍な飲食店が混在し、呼び込みの声や電子音が無数のノイズとなって渦巻いている。多国籍な観光客が肩をぶつけるようにして行き交う中、北村の意識はもっと深く、冷たい電子の海の底へ潜ったままだった。
昨年、近所にオープンした真新しい複合ビル。ガラス張りのエントランスを抜け、その高層階に入っている天ぷら屋の暖簾を潜る。
白木のカウンター席に通され、北村は迷うことなくコースを注文した。
寡黙な職人が目の前でネタに薄衣を纏わせ、胡麻油が独自にブレンドされた鍋へと滑らせる。パチパチという軽快な油の弾ける音が、静かな店内に心地よく響いた。
まずは海老が2匹。北村は粗塩を少しだけつけ、熱々のうちに口に運ぶ。サクッとした極めて軽い衣の食感の直後、海老の濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
続いてキスとイカ。キスのふっくらとした淡白な味わいと、イカのサクッと噛み切れる柔らかさが、油の重さを全く感じさせない。
合間に供される野菜3品は、蓮根、茄子、そしてアスパラガスだった。それぞれの野菜が持つ水分が衣の中で見事に蒸し上げられ、瑞々しさが際立っている。塩ではなく、天つゆに大根おろしをたっぷりと入れて味わう。噛み締めるたびに溢れ出す野菜の旨味が、徹夜で酷使した体に優しく染み渡っていく。
「次は豚肉になります」
職人が静かに小皿に置いたのは、天ぷらとしては少し珍しい豚肉だった。一口かじると、上質な脂の甘みが衣の香ばしさと溶け合い、予想外の深いコクを生み出している。
そして穴子。箸で簡単に切れるほどふんわりとした身と、サクサクの衣のコントラストが絶妙だった。
締めの食事は、小海老がたっぷりと入ったかき揚げに、ご飯1杯、あさりのみそ汁、お新香。かき揚げの油を、あさりの出汁が効いた熱いみそ汁が優しく洗い流してくれる。
デザートとして出されたマンゴーのゼリー和えの、さっぱりとした酸味と甘みでコースは締めくくられた。
熱い上がりを一口含み、先ほど味わった穴子やかき揚げの香ばしい余韻を感じながら、北村はその迷路の構造を脳内で再構築していた。
完璧な火入れと計算された構成。無駄のない職人の手さばきを見ながら、北村の頭の片隅では、昨夜モニター越しに遭遇した「クロノス」の暗号プロトコルがフラッシュバックしていたのだ。
大林の遺言状を偽造したハッカーを逆探知しようとした際、通信経路の先で立ち塞がった巨大なファイアウォール。あれはただの防壁ではなかった。こちらのパケットを瞬時に解析し、カウンターを仕掛けてくる自律的な迎撃システム。
NTPサーバーの通信を意図的に遅延させ、タイムスタンプを過去へずらす。その手際に一切の躊躇はない。あの挙動も、目の前の職人の手さばきと同じだ。一切の無駄がなく、相手の侵入を予測した上で完璧な構築がなされている。だが、それは客をもてなすためのものではなく、触れた者を骨の髄まで焼き尽くす絶対的な殺意の表れだった。
3年前の連続殺人事件で、相棒の安田健太を焼き殺したあの暗号アルゴリズム。それと全く同じフラクタル構造を持つコードが、大林のシステムの中枢に潜んでいた。あの時、神崎のシステムで遭遇したのも同じコードの断片だったが、今回は規模が違う。明確に北村という存在を認識し、待ち構えているかのような反応だった。
腹を満たしたことで、脳に十分な血と糖分が巡り始めている。決戦の時は近い。北村は席を立ち、会計を済ませて店を出た。
★★★★★★★★★★★
事務所に戻ると、焦げたフラックスと機材の排気熱の匂いが北村を包み込んだ。足元の段ボール箱の中では、子猫のスミが古い毛布にくるまって丸くなり、静かな寝息を立てていた。持ち込まれた当初よりはずいぶんと毛艶も良くなり、腹の上下動も力強い。規則正しい呼吸音に、北村は張り詰めていた肩の力をわずかに抜いた。
北村はヨレヨレのパーカーをハンガーに掛け、シンクの横にある電気ケトルで湯を沸かす。茶筒からティーバッグではない、本場の加賀棒茶の茶葉を取り出し、急須へ入れた。
沸騰した湯を湯冷ましに移し、温度を80度まで下げる。急須に注ぎ、砂時計をひっくり返して落ちていく砂の粒をじっと見つめながら待つ。
時間が来ると、湯呑みへ最後の一滴まで絞り切るように注ぎ入れた。琥珀色の液体から、茎を芯から浅く焙じあげた特有の、甘く香ばしい香りが立ち上る。
機械の駆動音だけが響く無機質な事務所の中で、その澄んだ香りは異質でありながら、ひどく心を落ち着かせた。
一口飲む。焙じ茶よりもすっきりとしながら、奥深い甘みが胃を温め、研ぎ澄まされすぎた神経をわずかに緩めていく。
「ボス、なんかすごくいい匂いがする」
背後でドアが開き、オーバーサイズのMA-1を着込んだ桜子が顔を出した。首にはいつもの派手なヘッドホンがかけられている。
「棒茶だ。飲むか」
「飲む。ていうか、ボスの淹れるお茶って無駄に美味しいよね。そういう細かいところ、変にマメだし」
桜子は自分のマグカップをデスクに置き、北村が注いだ棒茶を両手で包み込むようにして啜った。
「あー、沁みる。徹夜明けの五臓六腑に染み渡るわ」
北村は自身の湯呑みをデスクの端に置き、キャスター付きの椅子に深く腰掛けてメインモニターのロックを解除した。
「桜子、これを見ろ」
北村が呼び出すと、昨夜大林のシステムから逆探知を試みた際、カウンターを仕掛けてきたプログラムのログが表示された。
桜子の手が、ピタリと止まる。
「なにこれ……」
彼女の大きな瞳が、モニターを滑る緑色の文字列を追う。ハードウェアの専門家である彼女にとっても、ソフトウェアの奥底に潜む異常性は一目で理解できた。そのコードが放つ異常な洗練と殺意は、普通の人間が書けるものではない。
「トラフィックの誘導がエグい。こっちのパケットを解析して、瞬時にデコイの迷路を作ってる。これ、完全に軍事レベルの自律型防衛システムじゃん。こんなの組める人間、日本にいるの?」
「3年前にはいた。そして、今もいる」
北村の声は低く、そして静かだった。彼が追い続けてきた亡霊は、確実に実体を持ってこのネットワークのどこかに存在している。
その時だった。
壁際を埋め尽くす巨大なサーバーラックの冷却ファンが、突如として一段高い唸り声を上げた。
メインモニターの隅で、ネットワークの監視ツールが異常なトラフィックの急増を警告する赤いアラートを点滅させる。
「ボス! ポート443に異常な数のパケットが来てる!」
桜子がマグカップを置き、手元のサブ端末を叩きながら叫んだ。
「DDoS(分散型サービス拒否攻撃)か?」
「違う。パケットのサイズが全部同じ……いや、これはダミーだ! 裏のUDPポートから直接中に入ろうとしてる! ルーターのファイアウォールが書き換えられてる!」
「物理回線を抜くか!?」
北村の呟きに、桜子がルーターのケーブルへ手を伸ばそうとする。
「いや、違う……触るな!」
北村の制止の声は、驚くほど落ち着いていた。
「相手の狙いはシステムの破壊じゃない。破壊が目的なら、こんな回りくどいノックはしない」
北村の指がキーボードの上を滑る。
圧倒的な打鍵音。通常なら回線を物理的に遮断してシステムを守るのがセオリーだ。だが、それでは相手の狙いが分からない。相手は北村の逆探知に気付き、自ら接触を図ってきたのだ。
北村はVLANを瞬時に切り替え、メインサーバーから完全に論理隔離されたハニーポットとサンドボックス環境を数秒で構築した。そこへ、相手の攻撃パケットを誘導するための仮想の脆弱性をあえて露出させる。囮を食わせ、相手の真意を暴き出すための高等技術だ。
「相手の出方を見る」
北村がエンターキーを叩いた瞬間、すべてのアラートが一瞬で静まり返った。
排気音だけが残る室内。
次の瞬間、北村のメインモニターが真っ黒に暗転した。
コンソール画面の中央に、白い文字が一文字ずつ、ゆっくりとタイピングされるように浮かび上がる。
『あの日の続きを始めよう、拓巳』
桜子の呼吸が、ぴたりと止まった。
相手は北村の素性を完全に把握し、名指しで語りかけてきている。
3年前、安田健太を焼き殺した炎の向こう側にいた亡霊が、今、ネットワークの深淵から直接北村の目を見つめ返している。
テキストの下に、新たな表示が現れた。
赤いデジタル数字のタイマー。
[ 72:00:00 ]
1秒ごとに、正確に数字が減っていく。
71:59:59。
71:59:58。
「何これ……ウイルス? カウントダウンが終わったら、どうなるの?」
桜子の声は上ずっていた。無理もない。モニターの向こうから放たれる圧倒的な悪意の圧力が、物理的な重さを持って室内の空気を圧縮しているかのようだった。
「ただのマルウェアじゃない。これは宣戦布告だ」
北村は画面の数字を見据えたまま、氷のように冷たい声で言った。
「奴らは俺が嗅ぎ回っていることに気づき、舞台を用意した。72時間。その間に俺が奴らの中枢に辿り着けなければ、俺の周囲のすべてを――物理的にも、社会的にも焼き尽くすという合図だ」
北村はキーボードを叩き、タイマーの裏で走っているプロセスを解析する。相手のコードはサンドボックス内に留まっているように見えて、既に周囲のネットワークの脆弱性をスキャンし終えていた。手を出せば、即座に自爆して道連れにする構造だ。
デスクの上の北村のスマートフォンが、けたたましく震えた。
画面には『安田つくし』の名前。
北村はスピーカー通話に切り替えた。
『北村! 今、本庁のデータベースに異常なアクセスが……! 3年前の事件の調書ファイルが、何者かにロックされて、パスワードを要求されてる!』
つくしの声は緊迫し、背景では複数の捜査官が怒号を交わす音が聞こえていた。警視庁サイバー犯罪対策課の堅牢なシステムが、いとも容易く突破されているのだ。
「落ち着け、安田」
北村の声は、騒乱の中心にありながらも氷のように静かだった。
「実害はないはずだ。ロックされただけで、データの改ざんや消去はされていないだろう」
『どうして分かるの!? これじゃ捜査本部が……』
「奴らの狙いはお前たちのデータベースじゃない。俺だ。警察のシステムを人質に取ることで、俺を確実にゲームのテーブルにつかせようとしている」
『あなたって……まさか』
「警察のネットワークを外部から物理的に遮断しろ。72時間、俺の周りで何が起きても警察は動くな。巻き込まれるぞ」
それだけを告げ、北村は通話を切った。
「ボス……」
桜子が不安げに北村を見上げる。
北村は棒茶の残りを一気に飲み干し、湯呑みをデスクに置いた。
モニターが放つ赤い光の中で、その眼差しにはかつて警視庁で最も恐れられた、冷徹なサイバー捜査官の鋭利な光が宿っていた。そこにあったのは、過去のトラウマに怯える男の目ではない。3年間、暗い海底で息を潜め、この時を待ちわびていた捕食者の顔だ。
「……待っていたぞ」
低く、地を這うような呟きが事務所の暗がりに溶けていく。
黒い画面の中央で、[ 71:59:58 ] の数字が無機質に赤く刻み込まれ続けていた。
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