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遺言パスワード~天才ハッカーはあなたの「消したい過去」を整理する~  作者: 伊達ジン


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11/21

第11話 路地裏の金髪妖精

 無機質な赤い光が、メインモニターの中央で規則的に明滅を繰り返している。


 71:59:58


 71:59:57


 1秒、また1秒。世界を焼き尽くすまでの猶予が、冷酷に削り取られていく。


「ちょ……どうするの、これ」


 桜子が首にかけたヘッドホンを握りしめ、強張った声で北村を見上げた。

 大林の遺品から突如として現れた「クロノス」の迎撃システム。それは明確な殺意を持って北村を認識し、このカウントダウンという名の宣戦布告を突きつけてきたのだ。


 北村拓巳は、キーボードの上に置かれた両手を静かに手前に引き、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


「飯にする」

「……えっ?」


 間の抜けた声を上げた桜子をよそに、北村は事務所の奥に設えられた小さなキッチン兼給湯スペースへと歩を進めた。


「ちょっと待ってよ! 相手はあのクロノスだよ!? 72時間後に何が起こるか分からないのに……」

「だからだ。相手の土俵でパニックになれば、脳のパフォーマンスは急激に落ちる。長丁場になるぞ、腹をくくれ」


 北村は冷蔵庫から鶏もも肉を取り出すと、表面の水分をキッチンペーパーで丁寧に拭き取った。皮目に数カ所フォークで穴を開け、酒を振ってから蒸し器へと並べる。蓋をして火にかける間に、小鉢に味噌、蜂蜜、そしておろしたての生姜をたっぷりと加え、滑らかになるまでかき混ぜて濃厚な味噌だれを仕上げた。蒸し上がったふっくらとした鶏肉に、この甘辛くも生姜の鮮烈な香りが立つたれをかける算段だ。


 隣のコンロでは、あらかじめ水で戻しておいた干しシイタケの出汁を使って、乱切りにした人参、筍とともに筑前煮を煮込んでいる。醤油とみりんの香ばしい匂いが、無機質な排気音ばかりだった事務所に、家庭的な温もりを広げていく。

 ボウルには、ざく切りにして軽く蒸したキャベツ。そこへプレーンヨーグルトと、種を取って細かく叩いた梅干しを和え、少量のオリーブオイルで乳化させたドレッシングを絡める。梅の爽やかな酸味とヨーグルトのコクが、キャベツの甘みを引き立てる。

 最後に、椀に盛ったモズクの吸い物へ、沖縄から取り寄せたコーレーグースを数滴垂らした。泡盛の芳醇な香りと島唐辛子のピリッとした辛味が、吸い物の輪郭を鮮やかに引き締める。


「できたぞ。冷めないうちに食べよう」


 折りたたみ式のテーブルに並べられた料理を見て、桜子は目を丸くした。


「なんか……定食屋のオヤジみたいになってるよ、おっさん」

「褒め言葉として受け取っておく」


 二人は向かい合って箸を取った。桜子はおずおずと鶏もも肉を頬張り、「んまっ!」と声を上げた。


「味噌だれに蜂蜜入れるとこんなにコクが出るんだ。それに、このキャベツのヨーグルト和え、梅干しと合う!」

「梅のクエン酸とヨーグルトの整腸作用だ。徹夜明けの胃にはちょうどいい。筑前煮もシイタケの出汁が効いてるから、しっかり噛んで食べろ」


 北村はモズクの吸い物を啜りながら、淡々と答えた。決して大袈裟な励ましの言葉を口にするわけではないが、その眼差しには年下の相棒に対する確かな気遣いが宿っていた。過酷なサイバー戦を前にして、このひとときの食事が、どれほど桜子の張り詰めた神経を緩めているか、彼自身もよく理解している。恐怖を理屈でねじ伏せることはできない。だが、温かい食事は確実に人間の足元を現実に繋ぎ止める。


 食後、北村はいつものように加賀棒茶を淹れた。琥珀色の液体から立ち上る、茎を芯から浅く焙じあげた特有の甘く香ばしい香りが、室内の空気を和らげる。


「はー……沁みる」


 桜子は両手でマグカップを包み込み、深く息を吐き出した。先ほどの青ざめた表情は消え、瞳に本来の負けん気の強さが戻っている。


「少しは落ち着いたか」

「うん。でも、これからどうするの?」

「相手は俺の居場所を特定しているはずだ。システム上で迎え撃つだけじゃ後手になる。奴らが本気でこちらを潰しに来るなら、サイバー空間だけでなく、物理的な『手』も使ってくる可能性が高い」


 北村は棒茶を飲み干し、立ち上がった。


「センサー類の部品と、トラップ用の資材を買い足しておく。ジャンク通りに行くぞ。桜子、お前は部品の選定を手伝え」

「了解。護衛は任せて」


 桜子がMA-1を羽織り、得意げに胸を張る。北村は小さく口角を上げ、「頼もしいな」とだけ返した。


★★★★★★★★★★★


 外に出ると、秋葉原の街は冷たい雨に打たれていた。

 水たまりに乱反射するネオンの光が、濡れたアスファルトを毒々しく彩っている。折りたたみ傘を叩く雨音のせいで、周囲の喧騒はくぐもって聞こえた。


 目当てのパーツショップで基板や赤外線センサー、予備のルーターなどを買い込み、重いビニール袋を提げて事務所への帰路につく。メインストリートから外れた、薄暗い路地裏に入った時のことだった。


「……待って」


 桜子が足を止め、路地の奥、電子部品の空き箱が山積みにされたゴミ捨て場の暗がりを指差した。

 雨音に混じって、かすかな、しかし生々しい荒い呼吸音が聞こえる。

 北村はビニール袋をそっと足元に置き、桜子を背に庇うようにしてゆっくりと近づいた。


 暗がりの中で倒れていたのは、若い女性だった。

 透き通るような白い肌に、雨に濡れて泥に塗れた輝くようなブロンドヘア。着ているレザージャケットとスキニーデニムはところどころ破れ、血が滲んでいる。


「……外人さん?」


 桜子が短く息を詰めた。

 北村がしゃがみ込み、彼女の肩に手を伸ばした瞬間だった。


 ピクリとも動かなかったはずの女性の身体が、バネのように跳ね起きた。

 手負いの野獣のような鋭く野性的な青い瞳が北村を射抜き、その細い腕が信じられない速度で北村の首元へと伸びてきた。指先に握られているのは、鋭く研がれたタクティカルナイフ。


「危ない!」


 桜子が叫ぶ。


 だが、北村の反応はそれより僅かに早かった。

 彼は慌てることなく、上半身を最小限の動きで逸らしてナイフの軌道を躱す。同時に、彼女の伸びきった腕の手首を正確に掴み、関節の可動域を利用して円を描くように力を流し、そのままコンクリートの地面へと押さえ込んだ。


「ガッ……!」


 女性の口から、苦痛に満ちた呻き声が漏れる。しかし、彼女は諦めず、コンバットブーツを履いた足で北村の膝関節を破壊しようと蹴りを放ってきた。

 北村はその蹴りを脛で冷静にブロックし、彼女の重心を完全に奪う。流れるような、そして一切の無駄がない制圧。かつて警視庁で数々の荒事を潜り抜けてきた男の、実戦の動きだった。


「暴れるな。息が上がっている。その傷じゃ、これ以上動けば失血で意識が飛ぶぞ」


 北村の低く、落ち着いた声が、雨音を切り裂いて彼女の耳に届く。

 その声に敵意がないことを悟ったのか、あるいは本当に体力の限界だったのか。女性の眼差しから刃のような鋭さが消え、抗っていた全身からふっと力が抜けた。

 ナイフがコンクリートの地面に落ち、甲高い音を立てる。


「……おっさん、この人……」

「桜子、荷物を持て。事務所に運ぶ」


 北村は気を失った女性の身体を抱き上げた。

 事務所に戻り、北村は彼女をソファに寝かせ、手早く救急箱を取り出した。


「桜子、タオルと温かい湯を。傷口の泥を落とす」

「わ、わかった!」


 北村は彼女のレザージャケットを慎重に脱がせ、腕と腹部にある切り傷の止血と消毒を行った。濡れて頬に張り付いていた金髪をタオルで拭うと、小振りで整った鼻筋や薄い唇といった、まだ少女のようなあどけなさの残る可憐な顔立ちが露わになる。だが、その華奢な印象とは裏腹に、ジャケットの下から覗く細い肩幅に対して、無駄な脂肪が極限まで削ぎ落とされた体幹は、しなやかな筋肉の鎧を纏っていた。手首や指の関節には、特殊な訓練を長年積んできた者特有の硬いタコがある。ただの一般人ではない。


 手当てを終え、彼女の身体を乾いた毛布で包み込む。

 その時、北村は彼女のジャケットの内ポケットからこぼれ落ちた、小さな金属製のデバイスに目を留めた。


「なにこれ。USB?」


 桜子が覗き込む。


「……いや、市販品じゃない。軍や特殊工作で使うようなバイパスツールだ」


 北村はデバイスの側面に刻まれた、微小なロットナンバーの規則性を見つめた。

 電子ロックの強制解除や、物理的なセキュリティを突破するためのドングル。これを持ち歩いているということは、潜入や工作を専門とするプロフェッショナルだ。


「……一体、何者なんだ、この人」


 桜子の不安そうな呟きに、北村は無言で眉を寄せた。


 ソファの上で、女性が微かに身じろぎをし、透き通るような碧眼をゆっくりと開いた。

 彼女は警戒に満ちた目で室内を素早く見回し、最後に北村の顔をじっと見つめた。


「……Ty kto?(あなたは誰?)」


 かすれた、しかし芯のあるロシア語が紡がれる。


「敵じゃない。お前は路地裏で倒れていた。傷の手当てをしただけだ」


 北村が静かに答えると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、片言の日本語で口を開いた。


「……助けた、の。私を」

「たまたまな。お前がナイフを持っていなければ、警察を呼んでいたところだ」

「ダメ。警察、ダメ」


 彼女は痛む身体を無理やり起こそうとし、北村の袖を強く掴んだ。


「奴ら、警察にも、いる……。私、追われてる。見つかれば、殺される」


 その切実な声は、彼女が背負っている闇の深さを如実に物語っていた。


「奴らとは、クロノスのことか」


 北村がその名を口にした瞬間、彼女の肩がビクッと跳ね、瞳に明確な恐怖が浮かんだ。彼女の震える指先が、北村のパーカーの袖をさらに強く握りしめる。


「……どうして、知ってる」

「俺たちも奴らから狙われている。……安心しろ、ここにいる限りはお前を追手には渡さない。俺は北村拓巳だ」


 北村は彼女を落ち着かせるように、掴まれた自分の袖に手を添えた。


「……サーシャ」


 彼女はぽつりと自分の名を告げた。


「サーシャ・イヴァノヴァ。……アリガトウ」


 サーシャは緊張の糸が少しだけ緩んだように、再び毛布の中へ深く沈み込んだ。温かい寝床を見つけたように、微かにすり寄るような仕草を見せて、静かに目を閉じる。


 北村は小さく息を吐き、立ち上がった。

 振り返った先のメインモニターでは、依然として


 70:15:32


 のカウントダウンが赤く時を刻み続けている。

 サイバー空間の亡霊を追う最中に、現実の路地裏から転がり込んできた、謎のツールを持つ異邦人。


「さて、嵐が来るぞ。桜子、防御壁の構築と物理トラップの設置を急ぐ」

「了解。徹夜の準備はできてるよ」


 雨音の強まる秋葉原の夜。無機質な赤いタイマーだけが、静かに次の刻を刻み続けていた。

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作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。


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もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は活動報告をご覧ください。

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