第12話 フィジカル・ハッカー
メインモニターの中央で、無機質な赤い光が正確なリズムで時を削り落としている。
61:12:45
クロノスからの宣戦布告。世界を焼き尽くすまでの猶予は、刻一刻と短くなっていた。
巨大なサーバーラックの排気音が単調に響く事務所の隅で、毛布の擦れる音がした。
「……ん」
合皮のソファで丸くなっていたサーシャが、ゆっくりと目を開けた。
彼女は跳ね起きるように上体を起こし、氷のような冷たい視線で室内を素早く見回した。見知らぬ天井、埃と焦げたフラックスの匂い。そして、部屋の奥の小さなキッチンスペースに立つ男の背中。
昨夜、路地裏で意識を失う寸前、自分を鮮やかに制圧し、そして毛布で包んでくれた男だ。
毛布から滑り出た細い肩幅と透き通るような白い肌は、まだ少女のようなあどけなさを残している。しかし、着古したレザージャケットとスキニーデニムに包まれた体幹は極限まで無駄が削ぎ落とされており、コンバットブーツを履いたままの足取りには、昨夜の深手を感じさせない野性的なバネがあった。
北村拓巳は、徹夜でクロノスの迎撃トラップを構築したままの恰好で、小鍋の前に立っていた。
出汁の香りが、油臭い事務所の空気を柔らかく中和している。
「起きたか」
北村は振り返ることもなく、低い声で言った。彼には、サーシャが目覚め、警戒しながら息を殺していることなどとうに分かっていた。
「顔を洗ってこい。飯にする」
サーシャは無言のままソファから降りた。洗面所で顔を洗い、戻ってくると、折りたたみ式のテーブルには朝食が並べられていた。
大根おろしを添えた出汁巻き卵、塩鮭の焼き物、そしてワカメと豆腐の味噌汁。
「……これ、あなたが?」
「口に合うか分からないが、食べてみてくれ。傷を早く治すには、ちゃんと栄養を摂らないとな」
サーシャはおずおずと椅子に座り、見よう見まねで箸を持った。たどたどしい手つきで出汁巻き卵を口に運ぶ。
その瞬間、彼女の目がわずかに見開かれた。
昆布と鰹の深い旨味が、ふんわりとした卵の食感とともに口の中に広がる。東欧の裏社会で冷たいパンと缶詰ばかりを齧ってきた彼女の胃袋に、それは暴力的なほどの優しさを持って染み渡った。
「……フクースナ(美味しい)」
「よく噛め。胃が驚くぞ」
北村は自身の味噌汁を啜りながら、淡々と言った。
そこへ、機材部屋の奥から派手なヘッドホンを首にかけた桜子が、大きなあくびをしながら出てきた。
「あー、よく寝た。……っておっさん、また朝からそんな手間のかかるもん作って。私にもちょうだい」
桜子は当たり前のようにテーブルにつき、サーシャをじろじろと見た。
「外人さん、傷はもう平気なの? 昨日の夜は死にそうだったのに、頑丈だね」
「平気。私、これくらい日常」
サーシャは箸を置き、まっすぐに北村を見た。
「あなた、ハッカー? この部屋、機械、すごい」
「ただの遺品整理屋だ」
「嘘。あの赤い数字。あれ、クロノスの『タイマー』。私、知ってる」
サーシャの言葉に、北村の手が止まった。
「私、東欧の裏社会で育った。生きるため、いろんな技術、覚えた。……クロノスで下働き、してた。でも、用済みになって、消されそうになった。だから、逃げた」
サーシャはテーブルの上に、昨夜ポケットからこぼれ落ちた特殊なUSBドングルを置いた。
「これ、クロノスから渡されたもの。私、彼らの指示で、いろんな企業のサーバー室に入った。カメラ壊して、配線いじって、これ挿す。それが仕事」
「物理的な侵入と工作……フィジカルハッカーか」
北村が低く呟く。サイバー空間の防壁がどれほど堅牢でも、物理的にケーブルを直接繋がれてしまえば、そこには必ず致命的な穴が開く。
「ねえねえ、物理工作って言ってもさ」
桜子が、徹夜で自作した基板を取り出し、得意げにテーブルに置いた。
「私だってハードウェアの天才だよ。この電子錠、私が組んだ最新のやつ。そう簡単には……」
サーシャは桜子の言葉が終わる前に、無言で自分のジャケットの襟元から細い金属製のヘアピンを引き抜いた。そのしなやかな指先には、長年の過酷な訓練を物語る硬いタコが刻まれている。
基板の接触部分にピンを差し込み、手首をスナップさせるように二度、三度と微細な角度で動かす。
カチッ。
わずか5秒。桜子が複雑な暗号処理を組み込んだはずの電子錠のランプが、あっさりと緑色に変わった。
「……は!?」
桜子が間抜けな声を上げる。
「回路のバイパス、簡単。この配線、物理的なショートに弱い」
サーシャはヘアピンをしまい、再び北村に向き直った。彼女は椅子から立ち上がり、北村のすぐ傍まで歩み寄ると、その長い脚を折って片膝をつくような姿勢をとった。
「あなた、私の命救った。私を追手から護ると言った。……私、恩は絶対に忘れない」
透き通るような碧眼が、北村を真っ直ぐに射抜く。そこには、裏社会で生き抜いてきた野良猫のような警戒心と、一度心を許した相手に対する絶対的な忠誠が混在していた。
「電子の壁、あなたが壊す。物理の壁、私が壊す。今日から、あなたが私のボス」
北村は箸を置き、真っ直ぐに見上げてくる彼女の視線を受け止めた。
彼を取り巻く状況は極めて危険だ。だが、クロノスの物理的な手口を知る彼女の存在は、この絶望的なカウントダウンに対する強力なカードになり得る。
「……大型犬を拾った覚えはないんだがな。好きにしろ。ただし、俺の指示には絶対に従え」
「ダー(はい)、ボス!」
サーシャがパッと花が咲いたように笑った瞬間、北村のデスクに置かれたスマートフォンが短く震えた。
画面には『安田つくし』の名前が表示されている。
北村は画面を一瞥し、電話に出た。
「どうした」
『……神崎の件、書類送検の手続きが終わったわ。被害者たちのケアも、専門の部署に引き継いだから、とりあえずの区切りはついた』
電話越しのつくしの声は、努めて平静を装っていたが、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「そうか。よくやった」
『それと……クロノスの件。本庁で専従班を立ち上げる動きがあるんだけど、上層部の動きが妙に重いの。少し、直接話せる?』
北村は壁掛けの時計を見た。午前11時半。
「昼飯は食ったか?」
『え? いいえ、まだだけど。昨日の夜からずっと調書を書いてて……』
「神保町の『琥珀』に30分後だ」
北村は一方的に通話を切り、ハンガーにかけてあったヨレヨレのパーカーを羽織った。
「ボス、私、護衛する」
サーシャが素早く立ち上がり、後を追おうとする。
北村は手で彼女を制した。
「お前は留守番だ。桜子、こいつに日本の常識と、俺の事務所のルールを叩き込んでおけ」
「えー、なんで私が子守りなのさ」
文句を言う桜子を尻目に、北村は事務所を後にした。
★★★★★★★★★★★
神保町の裏路地にひっそりと佇む純喫茶『琥珀』。
ステンドグラスから差し込む光が、飴色に変色した木製のテーブルに落ちている。
北村が窓際の席でブラックコーヒーを飲んでいると、カウベルの音とともに、ネイビーのパンツスーツ姿のつくしが入ってきた。
彼女は店内を見渡し、北村を見つけると小走りで近づいてきた。
「急に時間を作らせてごめんなさい。でも、署の近くじゃ誰に聞かれるか分からないから」
つくしは向かいの席に座り、小さく息を吐いた。スーツに目立ったシワはないが、メイクで隠しきれない目の下のわずかな隈が、彼女がどれほど奔走したかを物語っていた。
「安田、遅かったな」
北村が顎でしゃくると同時に、ウェイトレスが熱いブレンドコーヒーをテーブルに置いた。
「……ありがとう」
つくしはコーヒーカップを両手で包み込み、少しだけ緊張を解いたように肩の力を抜いた。温かい湯気が、彼女の強張った表情をわずかに和らげる。
「で、上層部の動きが重いってのはどういうことだ」
北村が静かに促すと、つくしはカップから顔を上げ、声を潜めた。
「クロノスの件よ。大林さんの遺言状の件で、ネオ・サイバー社に捜査のメスを入れようとしたんだけど、稟議が上層部で差し戻されたわ。理由は『証拠不十分』。明らかに、上からの圧力がかかってる」
つくしは悔しそうに唇を噛んだ。
不眠不休で裏付けを取り、やっと本丸へと続く糸口を掴んだというのに、警察という巨大な組織の壁が彼女の前に立ちはだかっていた。
「だろうな。警察内部にも、クロノスの息がかかった人間がいる。大林の件で、奴らも尻尾を隠すのに必死だ」
「どうすればいいの……。このままじゃ、せっかくの証拠も握り潰されてしまう」
つくしの声が少し沈む。疲労と無力感が、彼女の表情に濃い影を落としていた。
北村は無言で片手を上げてウェイトレスを呼び、メニューを見ずに告げた。
「自家製の固めプリンを一つ」
「……勝手に。私、お腹空いてないわよ」
「嘘をつけ。さっきからコーヒーのブラックがきつそうな顔をしてるぞ。糖分を摂れ。脳が動いてない」
数分後、運ばれてきた銀色の器に乗ったプリンを前に、つくしは少し恨めしそうに北村を睨んだが、抗うのを諦めてスプーンを手に取った。
一口食べると、カラメルのほろ苦さと濃厚な卵の甘みが空っぽの胃に染み渡ったのか、彼女の瞳の奥にあった張り詰めた光が少しだけ解けた。
「安田、お前が裏付けを急いだおかげで、連中も証拠隠滅に動けなかった。被害者たちのケアも早く進んだはずだ。警察官としては満点の働きだろ」
つくしはスプーンを持ったまま、少し驚いたように北村を見た。彼が自分を正面から評価する言葉をかけるのは、極めて珍しい。
「……警察として、当たり前の仕事をしただけよ」
「それでもだ。健太も、お前のそういう頑固なところを褒めてた」
つくしの視線が揺れ、彼女は小さく息を吐いた。
「……反則よ、そういう言い方」
北村は自分のコーヒーカップを置き、つくしを真っ直ぐに見た。
「安田、お前は、この件から少し距離を置け。これ以上深追いすれば、お前自身が組織内で孤立するか、あるいは物理的に消される」
「逃げろって言うの?」
「戦う場所を選べと言っているんだ。お前の正義は、表の光の中でしか使えない。俺が潜る暗闇に、無理に付き合う必要はない」
北村の言葉は冷たいようでいて、つくしを心底案じているからこその重みがあった。
「あなたは? 72時間のカウントダウン……あと二日もないわよ」
「仕掛けは作っている。奴らの本丸を叩くための『鍵』も、手に入った」
北村は伝票を手に取り、立ち上がった。
「少し休め。顔色が悪いぞ。プリン、残すなよ」
つくしは、背中を向けて歩き出す北村を見上げた。
彼が何をしようとしているのか、すべては語らない。だが、彼が必ずあの亡霊を引きずり出すつもりであることだけは伝わってきた。
「……ごちそうさま。気をつけてね」
つくしの静かな声に、北村は背中を向けたまま、短く右手を上げて応えた。
★★★★★★★★★★★
事務所に戻ると、北村は奇妙な光景を目にした。
サーシャと桜子が、メインモニターの横に並べて置かれたサブモニターで、古いロシアのアクション映画を見ながら、並んでポテトチップスを貪っていた。言葉の壁はあるはずだが、映画の爆発シーンに揃って歓声を上げている。
「あ、ボス! おかえりー」
「ボス、オカエリ!」
サーシャが弾かれたように立ち上がり、目を輝かせて北村を出迎えた。すっかり馴染んでいるようだ。
北村は呆れたように息を吐き、メインモニターの前に座った。
59:20:15
赤い数字は、冷酷に時を刻み続けている。
「サーシャ」
北村が低く呼ぶと、サーシャは即座に居住まいを正し、北村の横に立った。
「お前の物理工作の腕と、知識は分かった。当面は、この事務所の物理的なセキュリティの監視と、俺の護衛をやってもらう」
「護衛……?」
「ああ。俺はこれから、奴らの本丸を叩くための『仕掛け』をネットの深層に組み上げる。だが、クロノスは必ず、現実側からも俺を潰しにくるはずだ。お前の力が必要になる」
サーシャの鋭い眼差しが、獲物を見つけた肉食獣のように鋭く光った。
「ダー。任せて、ボス。電子の壁はあなたが守る。物理の壁は、私が守る。どんな敵でも、私が壊す」
「ああ。頼むぞ」
赤いカウントダウンの光が、二人の顔を妖しく照らし出していた。
メインモニターに浮かぶ無機質なタイマーが、刻一刻と迫る次の刻を静かに削り続けていた。
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