第13話 アイドル自死の裏側(前編)
メインモニターに表示された赤いカウントダウンが、静かに、しかし着実に決戦までの刻を削り続けていた。先日、謎のハッカー集団「クロノス」から突きつけられた72時間の宣戦布告。その終滅の刻が迫る中、北村拓巳は秋葉原の薄暗い事務所を離れ、都内の洗練されたフレンチレストランに身を置いていた。
窓の外には陽光に照らされた銀杏並木が広がり、テーブルには真っ白な上質のリネンが敷かれている。向かいに座る平田雪穂は、体のラインを強調する深いボルドーのタイトなドレスを上品に着こなしていた。洗練されたハイブランドのファッションを妖艶に纏う彼女の姿は、誰が見ても隙のない大人の女だった。
「クロノスのカウントダウンが刻まれている時に、随分と優雅なランチだな」
北村は供されたグラスの水を一口飲み、静かに視線を向けた。表向きは都内の高級会員制バーのオーナー、裏の顔は政財界の情報を操る情報屋。この非常時に自分を外へ連れ出した彼女の意図を推し量るように、北村は眉をわずかに動かした。
「焦っても数字が減る速度は変わらないわ。それに、たまにはこういう場所で息抜きしないと、あなたのその優秀な脳細胞が焼き切れてしまうでしょ?」
雪穂は悪戯っぽく微笑み、グラスの白ワインを傾けた。挑発的でどこか猫のようなその笑みには、常に余裕が漂っている。供された真鯛のカルパッチョにフォークを伸ばしながら、彼女は周囲の喧騒に紛れるように声を潜めた。
「息抜きのためにわざわざ俺を呼び出したわけじゃないだろう。本題に入ってくれ」
北村が静かに促すと、雪穂はゆっくりとグラスを置いた。その瞳から一瞬だけ艶やかな光が消え、ビジネスパートナーとしての冷徹な色が浮かぶ。
「数日前、人気アイドルの星野美雨がビルから飛び降りて亡くなったニュースは知ってる?」
「ああ。ネットの誹謗中傷を苦にしての自死、という見方が強い件だな」
「ええ。でも、彼女の所属事務所の社長、黒田という男が私のバーの客でね。どうしてもあなたに頼みたい仕事があるって泣きついてきたの」
雪穂はハンドバッグから、銀色の小さなUSBメモリを取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「美雨のプライベートなクラウドストレージのデータよ。黒田は、その中にあるはずのアンチの個人情報や、誹謗中傷の証拠を見つけてほしいと言っているわ。遺族にデータを渡す前に、事務所にとって不都合なものが混ざっていないか『整理』してほしい、ともね」
「警察が押収しなかったのか」
「表向きのスマホはね。でもこれは、彼女が個人的にバックアップを取っていた裏の領域。黒田がこっそり抜き取ったのよ」
北村はUSBメモリを手に取った。冷たい金属の感触が、これから触れることの重さを物語っている。
「中身はすでに暗号化されていて、一つのファイルにまとめられているわ。黒田はそれを『遺言パスワード』と呼んでいた。彼女が死の直前にロックをかけたものよ」
「その黒田という男の主張を、お前は信じているのか」
北村の的確な問いに、雪穂は小さく肩をすくめた。
「どうかしら。ただ、この一件の背後に流れている金の一部が、あなたが追っている組織……クロノスと繋がっているダミー会社を経由している形跡があるの。だから、あなたにデートを申し込んだのよ」
北村はUSBメモリを見つめた。クロノスのタイマーが刻一刻と迫る中、このデータが思わぬ糸口になる可能性はある。
「分かった。引き受けよう」
「黒田にはたっぷり請求してちょうだい。それと、無理はしすぎないことね」
雪穂は意味深に微笑み、再びワイングラスを手にした。
★★★★★★★★★★★
焦げたハンダの残香と、エナジードリンクの甘い匂いが漂う事務所に戻ると、作業デスクから首だけを向けた服部桜子が、パッツン前髪の下から大きな瞳を瞬かせた。彼女はオーバーサイズのMA-1を羽織り、首にはいつもの派手なヘッドホンをかけている。
「おかえり、ボス。デートはどうだった?」
「有益な情報交換だ」
北村が短く答えると、ソファの毛布からブロンドの頭が覗いた。先日、路地裏で拾ったフィジカルハッカーのサーシャ・イヴァノヴァだ。彼女は透き通るような白い肌を擦りながら起き上がり、北村をじっと見つめた。
「ボス、違う女の匂いする」
片言の日本語で放たれたストレートな言葉に、桜子が吹き出す。
「鼻が利くねえ、サーシャ。ボスのそういうところ、意外と隅に置けないんだから」
「遊んでいる暇はない」
北村は自分のデスクに座り、雪穂から受け取ったUSBメモリをPCに接続した。
「これから依頼人が来る。桜子、サーシャ、悪いが奥の部屋で待機してくれ。少し厄介な案件かもしれない」
北村の真剣な声色に、二人は余計な詮索をやめ、素直に奥の機材部屋へと移動した。
数分後、ドアをノックする音が響き、依頼人が姿を現した。
五十代半ばほどの小肥りの体躯に、仕立てのいいストライプの高級スーツをあからさまに着崩した男が入ってきた。頭頂部の薄くなった髪を無理に撫で付け、金の腕時計をはめた手首をソワソワと動かしている。目元には深い隈が刻まれ、テカついた額からは脂汗が絶え間なく滲み出ていた。言葉の節々に芸能事務所の経営者特有の調子の良さと、それを覆い隠せない焦燥が同居している。星野美雨の所属事務所社長、黒田だ。
「平田さんの紹介で来ました、黒田です。どうか、美雨のデータを……」
黒田は落ち着かない様子でパイプ椅子に座った。
「話は聞いています」
北村は淡々と応じ、モニターに視線を向けた。
「彼女のクラウドデータ『遺言パスワード』のロックを解除し、誹謗中傷の主犯を特定する。同時に、事務所に不利益となるデータを消去する。そういう依頼で間違いないですね」
「はい。美雨は最近、一部の過激なファンからのアンチコメントにひどく悩んでいました。裏アカウントでも、その苦しみを吐露していたはずです。警察は事故と自殺の両面で調べていますが、私は彼女が言葉の暴力に殺されたと思っています。どうか、彼女の無念を晴らしてやってください」
黒田の言葉は熱を帯びていたが、北村の観察眼はその奥にある僅かな焦燥を見逃さなかった。瞬きの回数が多く、視線が頻繁に宙を泳ぐ。言葉の熱量とは裏腹に、彼の体は自己保身のために強張っていた。
「分かりました。解析に入ります」
北村はキーボードに両手を置いた。
暗号化アルゴリズムは複雑だったが、北村のタイピングは一切の迷いなくコンソールに文字列を打ち込んでいく。乱数生成の偏りを突き、数十分後にはパスワードのロックを解除することに成功した。画面には星野美雨の残したファイルが展開された。表向きのSNSアカウントのログ、そして非公開設定にされていた裏アカウントの投稿履歴。
その時、ドアが静かに開いた。
「ノックをしたけれど、返事がなかったから……。来客中だったかしら」
入ってきたのは、白いブラウスにひざ丈のタイトスカートという清楚な装いの土屋恵だった。彼女の手には、手作りの弁当が入った手提げ袋が握られている。恵は無表情のまま北村と黒田を交互に見つめた。端正でクラシカルな美貌から放たれる冷たさに、黒田が一瞬気圧される。
「いや、ちょうどいい。先生の専門分野だ」
北村は黒田に向き直り、「彼女は犯罪心理学を修めたプロファイラーです。データから故人の心理状態を読み解く手伝いをしてもらいます」と説明した。黒田は僅かに眉をひそめたが、プロの分析が入ることを拒めば逆に不自然になるため、頷くしかなかった。
恵は北村の横に立ち、モニターを流れる星野美雨の裏アカウントの投稿と、検索履歴に目を落とした。
『また変なDMが来た。気持ち悪い』
『どうして私の居場所がわかるの?』
『誰かに見られている気がする。助けて』
黒田が身を乗り出した。
「ほら、やっぱりストーカーやアンチのせいです。彼女はずっと怯えていたんだ」
だが、恵の氷のような瞳は画面を凄まじい速度で滑り、無機質なデータを切り裂くように分析を進めていた。
「いいえ、少し違いますね」
恵の静かな声が、事務所の空気を冷たく引き締めた。
「彼女の書き込みには、不特定多数からの誹謗中傷に対する『怒り』や『悲しみ』の感情が極端に欠落しています。代わりに顕著なのは、特定の人物への『恐怖』と『服従』です」
「な、何を言っているんですか。アンチのストーカー行為に怯えていたのは明らかじゃないですか」
黒田の反論を、恵は冷徹な事実で切り伏せる。
「検索履歴を見てください。『盗撮カメラ 見つけ方』『GPS 偽装』『契約解除 違約金』……。ストーカー対策の検索に混じって、所属事務所との契約に関する検索が異常に多い。そして、最も重要なのは彼女が残したテキストの言語パターンです」
恵は一つのログをハイライトした。
「『逆らったら全部ばらされる』『あの写真がある限り逃げられない』。これはネットの匿名のアンチに対する反応ではありません。身近な特定人物から、明確な弱みを握られている人間の防衛機制です。あるいは、契約上の不審な圧力が窺えますね」
黒田の顔から急速に血の気が引いていくのがわかった。
「ば、馬鹿なことを! 美雨はそんなこと……」
北村は黒田の動揺を静かに見つめていた。相手を追い詰めるためにわざと間を置き、逃げ道を塞ぐように言葉を放つ。
「黒田さん。あなたは先ほど、遺族に渡す前に不都合なデータを消してほしいと言いましたね。このデータが示す心理状態は、あなたの依頼内容と大きく食い違っています。彼女が本当に怯えていたのは、アンチではなく、もっと身近な『誰か』だったんじゃないですか」
「ち、違う! 私はただ、彼女の名誉を……!」
黒田が激昂して立ち上がりかけたその時、奥の部屋のドアが開き、サーシャが音もなく姿を現した。彼女のアイスブルーの瞳が、獲物を狙う野良猫のように鋭く黒田を捉える。
「この男、嘘ついてる」
サーシャの真っ直ぐな言葉が、黒田の心臓を射抜いた。
「筋肉、汗、視線。全部、隠し事してる顔。私、こういう奴、裏社会でたくさん見た」
桜子もひょっこりと顔を出し、呆れたようにため息をついた。
「うわー、怪しい。依頼内容と全然違うじゃん。何か隠してるわけ?」
黒田は後ずさりし、震える指で北村たちを指差した。
「き、貴様ら……依頼人を侮辱する気か! もういい、データは返してもらう!」
手を伸ばそうとした黒田の動きを、北村は立ち上がることもなく、ただ鋭い視線だけで制した。かつてサイバー犯罪の最前線で数々の悪意を叩き潰してきた、冷酷なまでに研ぎ澄まされた眼光。
「俺の仕事を舐めるな。死人は口無しだが、残されたデータは絶対に嘘をつかない。星野美雨が何を恐れ、誰に絶望して屋上から飛び降りたのか。その真実を調べるまで、このデータは返せないな」
「貴様……!」
「事務所の裏サーバーも含めて、徹底的に調べさせてもらう。文句があるなら警察を呼べばいい」
北村の低く重い声が、事務所の埃っぽい空気を圧し潰すように響いた。黒田の膝が震え、その場に崩れ落ちそうになる。彼は忌々しそうに北村を睨みつけると、逃げるように事務所を後にした。
顔色を失った黒田の荒い呼吸の残滓だけが、赤く明滅するモニターの光の中で虚しく響いていた。
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