第14話 アイドル自死の裏側(後編)
逃げるように事務所を飛び出していった黒田の足音が、軋む階段の下へと完全に消え去る。しかし、室内に漂う焦燥と脂汗の残滓は、換気扇の低い唸り声をもってしてもしばらく拭い去れそうになかった。
北村拓巳は深く息を吐き出し、ゆっくりとキャスター付きの椅子を回転させた。デスクの脇に置かれた小さなグラスの氷を鳴らし、琥珀色をした濃いめのもろみしぼり酢を注ぎ入れる。
傍らの小皿から、波照間島産の純国産黒糖の砕片を指でつまみ、口に含んだ。噛み砕くと同時に立ち上る濃密な甘みを、もろみ酢の鋭利な酸味で一気に流し込む。強烈な酸と甘みの刺激が、徹夜で熱を持った脳の疲労を急速に押し流していく。クエン酸が強張った筋肉の隅々にまで行き渡るのを実感しながら、北村は再びメインモニターの放つ青白い光に向き直った。
「焦ってたね、あのタヌキ親父」
桜子が首元のヘッドホンをいじりながら、呆れたように吐き捨てた。
「自分が被害者ぶって持ち込んだデータの中に、自分の首を絞める時限爆弾が入ってるなんて思ってもみなかったんだろうね」
「ええ。彼は今、極度の恐怖状態にあるわ」
傍らでハーブティーのカップを持った恵が、氷のように静かな声で応じる。
「自分がひた隠しにしてきた事実が露見するかもしれないという恐怖。彼の性格とあの焦燥ぶりからして、警察より先に私たちがデータを解析したことに強い危機感を抱いている。通常なら弁護士を立てて様子を見るところだけど、自己保身のために今夜中に何らかの証拠隠滅に動く可能性が高いわね」
「消される前に、本命のデータを抜く」
北村はキーボードに両手を乗せた。
「黒田が持ち込んだこの『遺言パスワード』のファイルは、あくまで表層のダミーに過ぎない。俺が見たいのは、星野美雨の端末が裏で繋がっていた場所だ」
北村は星野美雨のクラウドデータの通信ログを、もう一段階深い層まで展開した。
彼女が残したテキストや写真データそのものではなく、バックグラウンドでシステムが自動生成していた不可視のメタデータ群。そこには、週に一度の頻度で、特定のローカルIPアドレスに向けて差分データが自動同期されている痕跡が残されていた。
「美雨のスマートフォンは、定期的にどこかのサーバーと通信を行っていた。だが、その宛先は黒田の芸能事務所が公式に登録しているドメインの管轄外だ。完全に隠蔽された、物理的なローカルネットワークの空間が存在している」
「つまり、黒田が何かを隠している『裏の金庫』があるってこと?」
桜子が目を輝かせて身を乗り出す。
「ああ。彼女のクラウドは、その金庫へと繋がる細い糸だった。黒田は美雨の端末を直接管理し、彼女の行動やデータをすべて監視して、自身の隠しサーバーに吸い上げていたんだろう」
北村の指先が高速で動き、そのローカルIPの物理的な所在地を割り出していく。
プロバイダの経路を逆探知し、ダミーのルーターを二つ経由した先で、数分後には一つの正確な座標がモニターに表示された。
「……港区の、黒田の芸能事務所が入っているビル。その最上階、社長室だ」
北村は振り返り、部屋の隅で静かに待機していたサーシャを見据えた。
彼女はすでにレザージャケットのジッパーを首元まで上げ、コンバットブーツの紐を締め直している。
「サーシャ、行けるか」
「ダー。任せて、ボス」
ターゲットを捕らえた野生の豹のように、彼女のアイスブルーの瞳が鋭く澄み渡った。
桜子が自分のデスクから、黒い消しゴムほどの大きさのデバイスを放り投げる。サーシャはそれを片手で難なくキャッチした。
「私が徹夜で組んだ特製のLANドングル。それさえ物理的に挿してくれれば、あとはこっちでどんな堅牢な鍵でもこじ開けるから。頼んだよ、サーシャ」
「証拠を消される前に、すべてを奪う。行くぞ」
北村の低く響く声が、反撃の合図となった。
★★★★★★★★★★★
午前二時。港区のオフィス街は、冷たい海風と深い静寂に包まれていた。
雨上がりの空気を切り裂くように、サーシャの黒い影がビルの裏手にある非常階段を音もなく駆け上がっていく。監視カメラの首振りのタイミングを完全に読み切り、死角を正確に縫うその動きは、まるで重力が存在しないかのように滑らかだった。
秋葉原の事務所では、北村がビルの管理システムに侵入し、全体のセキュリティ状況をリアルタイムで監視していた。
『サーシャ、三階と四階の間の踊り場に赤外線センサーがある。壁際から三十センチは離れろ』
インカムから聞こえる北村の冷徹な指示。
「ダー、ボス」
サーシャは躊躇うことなく手すりに飛び乗り、僅かな隙間を縫ってしなやかに跳躍する。着地の音すら、遠くを走るトラックの排気音に紛れて消えた。
最上階の非常扉。強固な電子ロックが掛かっている。
サーシャは迷わずパネルの隙間にヘアピンを差し込み、内部の配線を引っ張り出した。
『桜子』
『オーケー。サーシャ、赤い線と青い線をショートさせて。タイミングは私が合わせる』
桜子の声に従い、サーシャが配線を接触させた瞬間、カチリと軽い音が鳴り、重厚な扉が静かに開いた。
社長室への侵入は容易だった。
広々とした部屋には、高級なレザーソファと巨大なマホガニーのデスクが置かれている。窓からは東京タワーのオレンジ色の光が見えるが、室内に隠しサーバーらしきものは見当たらない。デスクの上に置かれたPCは電源が落ちていた。
「ボス、サーバーない。ただのパソコンだけ」
サーシャが部屋を素早く見回しながら、インカムに小声で報告する。
『壁の裏か、床下だ。社長室の構造からして、配線を通しやすい場所があるはずだ。桜子、熱源探知を回せ』
『やってる。サーシャ、スマホのカメラを壁に向けてぐるっと回して』
サーシャがジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、部屋全体をゆっくりとスキャンする。
数秒後、桜子の声が弾んだ。
『ビンゴ! デスクの後ろ、大きな抽象画が掛かってる壁の裏。微弱だけど、冷却ファンの熱源反応がある』
サーシャが絵画を外し、壁を注意深く触る。継ぎ目のないフラットな壁面に見えたが、指先に微かな隙間の感触があった。
「隠し扉。でも、指紋と静脈、ダブルのロック。重い鉄の扉、私の力、無理」
『力は要らないわ』
桜子が自信たっぷりに言う。
『そのロックのパネルの下側に、メンテナンス用の小さなポートがあるはず。そこに私のドングルを挿して』
サーシャがパネルの下部を探り、見つけたUSBポートにドングルを押し込む。
秋葉原の事務所で、桜子の指が踊った。
「繋がった! 生体認証のモジュールとメインボードの間の通信をバイパスする。私が偽の『認証成功』の信号を直接モーターに流し込むから……今!」
重厚な機械音が鳴り、分厚い鋼鉄の扉がゆっくりとスライドした。
中には、小型だが極めて堅牢なブレードサーバーが青白いLEDの光を明滅させていた。密閉空間にこもっていた生温かい排気熱が、サーシャの頬を撫でる。
「開いた」
『よし。LANケーブルをドングル経由で接続しろ。ここからは俺の領域だ』
北村の声が、一段と低く、鋭さを増した。
サーバーとの物理的な接続が確立された瞬間、北村のメインモニターに強固なファイアウォールの壁が立ちはだかった。黒田が雇った業者が構築したのだろう、企業レベルのセキュリティだ。
だが、北村にとって、物理的なバックドアから侵入できる状態であれば、どんな防壁も薄紙に等しい。
キーボードを叩く指先が、暗闇を切り裂くような鋭い打鍵音を刻む。バックドア経由の通信ログから暗号生成の偏りを看破し、わずか三分でメインディレクトリの防壁を突破した。
画面に展開されたのは、星野美雨の本当の『遺品』だった。
北村はマウスを操作し、隠蔽されていたフォルダの一つを開く。
そこには、美雨がまだ未成年の頃に撮られた、彼女のプライベートな、そして極めて不名誉な写真の数々が保存されていた。
別のフォルダには、法外な違約金が設定された奴隷のような契約書のPDFファイル。
そして、クロノスのダミー会社と推測される怪しげな企業が主催する、裏のパーティーへの出席を強要するメールの記録が残されていた。
『あの写真がある限り逃げられない』
美雨の裏アカウントの書き込みが、痛ましい事実として裏付けられた。
黒田は彼女の弱みを握り、自分に逆らえないように縛り付け、反社勢力への接待要員として利用しようとしていた。彼女がアンチからの誹謗中傷に怯えていたという黒田の主張は、完全に保身のための嘘だった。
美雨は、匿名の言葉の暴力に殺されたのではない。最も自分を守るべき所属事務所の社長という、逃げ場のない身近な悪意に絶望して屋上から飛び降りたのだ。
「……クズだな、ほんと」
桜子が横で画面を凝視し、小さく息を詰めた。ギリッと奥歯を鳴らす音が事務所に響く。
北村の表情に変化はない。ただ、その眼差しは絶対零度の冷たさを帯びていた。
彼は静かな怒りをタイピングの速度へと変換し、証拠となるすべてのデータを自身の暗号化ストレージへと吸い上げていく。
さらに、ディレクトリの奥深くから、黒田が隠し持っていた裏帳簿のデータを発見する。
美雨のようなタレントを使い捨てにして得た汚い金が、複数のダミー会社を経由して、最終的にある一つの巨大な口座へと流れている記録。
その口座の名義は、先日発覚した「ネオ・サイバー社」の関連企業のものだった。
クロノスへの明確な資金ルート。
北村が探し求めていた、敵の中枢へと続く太い血脈が、ついに一本の線として繋がった。
「……抽出完了だ」
プログレスバーが100%に達したのを確認し、北村はエンターキーを静かに叩いた。
『サーシャ、ドングルを回収しろ。痕跡は残すな。すぐに撤収だ』
「ダー。お疲れ様、ボス」
社長室からサーシャの頼もしい声が返ってくる。
北村は深く椅子に寄りかかり、張り詰めていた肩の力を抜いた。
星野美雨の死の真相は、完全に北村の手の中に収まった。これで、黒田を社会的に破滅させ、彼女の無念を晴らす準備は整った。
そして同時に、クロノスという巨大な亡霊の喉元へと続く、確かな手がかりを手に入れたのだ。
グラスの底で溶けかけた氷が、カランと静かな音を立てた。モニターの隅で赤く明滅するカウントダウンを冷たく見据えながら、北村はゆっくりとキーボードへ手を戻した。
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