↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遺言パスワード~天才ハッカーはあなたの「消したい過去」を整理する~  作者: 伊達ジン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/21

第15話 法の防波堤

 午前4時。深夜に一度上がったはずの雨は、夜明けが近づくにつれて再び容赦なく降り出し、秋葉原の路地裏を冷たく濡らしていた。


 分厚いブラインドを下ろした事務所の中は、外の喧騒から完全に切り離されたシェルターのようだ。しかし、壁一面のサーバーラックが発する低く単調な排気音が、そこで行われている見えない戦争の激しさを無言で物語っている。


「ボス、終わった」


 錆びついたドアを押し開け、サーシャが濡れたレザージャケットを脱ぎ捨てながら事務所に入ってきた。手には、黒田の隠しサーバーに突き立てられていた特製のLANドングルが握られている。彼女のアイスブルーの瞳はまだ微かに高揚しており、実戦を終えた直後の野性的な鋭さを残していた。


「ご苦労だった。怪我はないな」


 北村拓巳はメインモニターから視線を外し、サーシャからドングルを受け取った。彼女は小さく「ダー」と頷き、ストーブの前に置かれた折りたたみ椅子に身を投げ出した。


 黒田の裏サーバーから抽出した星野美雨の悲痛な真実と、クロノス――ネオ・サイバー社へと繋がる裏帳簿のデータは、すでに北村の物理ストレージの最深部に強固な暗号化を施されて格納されている。これで一つの糸口は確実に手に入れた。


 張り詰めていた空気が、換気扇の低い唸り声とともに少しずつ弛緩していく。


「ミー、ミー」


 デスクの足元に置かれた段ボール箱から、ひどく甲高く、しかし力強い要求の声が上がった。


 北村は小さく息を吐き、キャスター付きの椅子から立ち上がった。電気ケトルで手早く湯を沸かし、粉ミルクを溶かして流水で人肌の温度まで冷ます。手首の内側に一滴落として温度を確認する動作は、いつの間にか板についていた。


 箱を覗き込むと、黒い毛玉のような子猫のスミが、短い前足を必死にばたつかせて北村の手のひらに登ろうとしていた。


「焦るな」


 北村は低く呟き、片手でスミの小さな体をすくい上げた。哺乳瓶の乳首を口元に寄せると、スミは両方の前足でそれをしっかりと抱え込み、目を細めてチュパチュパと勢いよく音を立ててミルクを飲み始めた。


 小さな喉がごくりごくりと上下し、飲むことに夢中になるあまり、小さな三角形の耳がリズムに合わせてピクピクと動いている。北村はその様子をじっと見つめながら、空いている左手の指先で、スミの背中を優しく撫でた。指先に伝わる柔らかな体毛と、ドクドクと脈打つ小さな心臓の鼓動。極限のサイバー戦と、人間の醜い悪意の底を覗き込んだ後の冷え切った手に、その無防備な命の温もりがゆっくりと染み渡っていく。


 北村の鋭い目元が、この時ばかりは僅かに和らいだ。


「……ボスって、時々ほんとにお母さんみたいだよね」


 奥の機材部屋から顔を出した服部桜子が、呆れたような、それでいてどこか安心したような声で言った。徹夜のハードウェア修復作業を終え、彼女の目にも少し疲労の色が見えるが、北村の意外な一面を面白がっているようだった。


 北村は何も答えず、スミが満足して口を離すまで、ただ静かに哺乳瓶を傾け続けていた。


 しかし、その穏やかな時間は、唐突に、そして暴力的に破られた。


 ドンッ、という鈍い衝撃音が響き、施錠していなかった事務所のドアが蹴破られるような勢いで開け放たれた。


「動くな!」


 雪崩れ込んできたのは、数人の屈強な男たちだった。全員が揃いの黒いウィンドブレーカーを着ており、室内に雨の匂いと強引な足音が響き渡る。警視庁サイバー犯罪対策課の捜査員たちだ。


 先頭に立っているのは、雨に濡れた無骨な肩を怒らせ、眉間に深い皺を刻んだ中年の警部、倉田だった。その白髪交じりの短髪からは冷たい水滴が滴り、執念深い爬虫類を思わせる瞳が、鋭く北村を睨みつけている。


 そして彼の背後には、トレンチコートを着た安田つくしの姿があった。彼女の表情は硬く、悔しげに視線を落とし、細い肩を微かに震わせている。


「警察だ。北村拓巳、港区の芸能事務所に対する不正アクセス、ならびにデータ窃取の容疑で令状が出ている。この部屋にある通信機器、および記憶媒体をすべて押収する」


 倉田が冷酷に告げ、令状を突きつけた。


「はあ!? あんたたち、令状なんて……黒田のタヌキ親父が泣きついたってわけ!?」


 桜子が血相を変えて立ち上がり、自らの手で組み上げた機材を守るように捜査員たちの前に立ちはだかろうとした。


「桜子、下がれ」


 北村の声は、氷のように静かだった。


 彼はスミをそっと段ボール箱に戻し、左足で箱をデスクの奥の安全な場所へと押しやった。同時に、右手はキーボードの上を滑り、わずか1秒でメインサーバーをローカルから論理的に切断し、すべてのストレージに不可視の暗号化ロックをかけるコマンドを叩き込んでいた。


「往生際が悪いぞ、北村。元身内だからといって手心は加えない。おい、ケーブルを全部抜け! 証拠を消される前に押収しろ!」


 倉田の怒号が飛び、捜査員たちが機材に手を伸ばそうとする。


 その瞬間、ソファに座っていたサーシャが音もなく立ち上がった。彼女の透き通るような碧眼が、捕食者のように冷酷に細められる。手にはいつの間にか、鈍く光るタクティカルナイフが握られていた。


「ボス、触るな」


 低い、殺意を帯びたロシア語訛りの日本語。彼女のしなやかな筋肉が、次の瞬間に最も近い捜査員の喉笛を掻き切るために限界まで収縮する。


「サーシャ」


 北村は視線を向けず、ただ短く名前を呼んだ。それだけで、彼女の動きがピタリと止まる。


「……警察相手に荒事は起こすな。ナイフをしまえ」


 サーシャは不満げに鼻を鳴らしたが、北村の絶対的な指示に従い、ナイフをレザージャケットの奥へと隠した。


 北村はゆっくりと椅子から立ち上がり、倉田を見据えた。


「押収令状の対象範囲は」

「ここにあるすべての電子機器とデータだ」

「……待ってください、倉田警部」


 それまで沈黙していたつくしが、耐えきれなくなったように前に出た。


「黒田の被害届には不審な点が多すぎます。彼は星野美雨の自殺の件で、何か重大な事実を隠蔽しようとしていた可能性がある。一方的に北村の機材を押収してしまえば、事件の真実が……」

「安田、お前は黙っていろ」


 倉田が忌々しそうに振り返り、つくしを一喝した。


「健太の元相棒だからといって庇う気か。こいつが違法なハッキングを行っているのは明白だ。上からの指示は絶対だ、下がれ!」


 つくしはきつく拳を握りしめ、言い返そうとした言葉を強引に飲み込んだ。彼女の瞳には、警察という組織の歯車にすぎない己の無力さへの怒りと、真実を追うことの難しさに対する葛藤が痛々しいほどに浮かんでいた。


 北村はつくしの視線を受け止め、微かに顎を引いた。お前は間違っていない。だが、お前がここで組織に逆らう必要はない、という無言のメッセージだった。


 捜査員の一人が、北村のメインサーバーの電源ケーブルに手をかけた、その時だった。


「相変わらず、力任せで雑な捜査をしているのね、倉田警部」


 静まり返った事務所の前の廊下から、ヒールがコンクリートを叩く硬質な音が響き、艶やかで威厳のある声が室内を制圧した。


 捜査員たちの動きが止まる。倉田が振り返った。


 ドアを開け、濡れた傘を静かに畳みながら入ってきたのは、岩田夏美だった。仕立ての良いパンツスーツを雨滴でわずかに湿らせながらも、その背筋は美しく伸び、一切の乱れがない。その知性に満ちた瞳が、倉田を正面から射抜く。


「い、岩田……元管理官……」


 倉田の声が上ずった。かつて警視庁サイバー犯罪対策課を束ねるエリート管理官として君臨し、彼らにとっては絶対に逆らえない上官だった女が、なぜここにいるのか。


 夏美は周囲を圧するような優雅な足取りで、北村と捜査員たちの間に進み出た。彼女の胸元には、金色の弁護士バッジが冷たく光っている。


「現在は弁護士の岩田夏美よ。そして、この『北村データ復旧サービス』の法務顧問を務めているわ」


 夏美は手元のスリムなアタッシュケースを開き、一枚の書類を取り出して倉田の胸元に突きつけた。


「黒田の事務所への不正アクセス容疑で令状を取ったようだけど、残念ながらその令状は紙切れよ。昨日、黒田が最初に依頼人として事務所を訪れた際、契約の形式上の手続きとして、北村があらかじめサインさせておいたものだ。つまり、北村のアクセスは業務委託契約に基づく正当な行為であり、不正アクセス禁止法には抵触しないわ」

「なっ……」


 倉田は書類をひったくるように受け取り、目を走らせた。そこには確かに、黒田の署名があった。


「し、しかし、深夜の隠しサーバーへの侵入は……!」

「黒田氏が『不都合なデータを消してほしい』と依頼した以上、対象となるすべてのデータにアクセスする権限が受任者には発生するわ。解釈の余地はあるけれど、少なくともこの令状で即時押収を強行できるほどの明白な違法性はない」


 夏美は一歩踏み出し、倉田の耳元に顔を寄せた。その声は、周囲にも聞こえるほどの冷徹な響きを持っていた。


「それに……黒田の隠しサーバーから何が見つかったか、あなたたちの上層部は分かっていて急いで踏み込んできたんでしょう?」


 倉田の肩がビクッと跳ねた。


「未成年のタレントに対する強要の証拠、反社会勢力への接待の記録。そして何より、彼が搾取した金が『ネオ・サイバー社』のダミー口座へと流れているという事実。……あなたたちの上層部が、今一番世間につつかれたくない部分じゃないかしら」


 沈黙が落ちた。


 ネオ・サイバー社。そしてその背後に潜む『クロノス』。大林の件での捜査妨害に続き、今回の迅速すぎるガサ入れから、彼らは確信していた。これは単に黒田の被害届によるものではなく、上層部をも意のままに動かすクロノスの強大な圧力が、その証拠を北村から奪い去るために差し向けられたものなのだと。


「このまま押収を強行するなら、私は弁護士として、北村が保全した黒田の裏帳簿をすべてマスコミと東京地検特捜部に提出するわ。サイバー犯罪対策課が、わざわざクロノスの資金源を揉み消そうとして不当な捜査を行った、と受け取られかねないわよ?」


 夏美の言葉は、もはや交渉ではなく、圧倒的なリーガルナレッジと権力を背景にした完全な『脅迫』だった。


 倉田の顔から血の気が引き、額に脂汗が浮かぶ。彼もまた、組織の末端として上からの指示に従っているに過ぎない。ここで弁護士の夏美と正面から争い、警察の不祥事としてメディアに晒されるリスクを負う権限は彼にはなかった。


「……引き上げるぞ」


 倉田は苦虫を噛み潰したような顔で令状をポケットにねじ込み、踵を返した。捜査員たちが戸惑いながらも、それに続く。


 つくしだけが、その場に留まっていた。


 夏美は、かつての部下であるつくしを静かに見つめた。


「つくし。あなたは優秀な刑事よ。でも、誰のための正義を貫いているのか、見失わないで。上層部の指示が常に正しいとは限らない。時には、自分で判断しなさい」


 つくしは胸元を小さく押さえ、息を詰めた。喉元まで出かかった反論が、声にならずに消えていく。夏美の言葉は、彼女がずっと抱えていた葛藤を鋭く突いていた。法とルールを守る警察の正義が、真実を覆い隠そうとしている現実。


 つくしは北村の方を一度だけ見た。北村は何も言わず、ただ静かに彼女を見返した。その視線には、3年前の夜から続く、互いにしか分からない痛みの共有があった。


 つくしは無言で深く一礼し、雨の降る廊下へと去っていった。


 警察の足音が完全に遠ざかり、事務所には再び、サーバーの冷却ファンの音と、ブラインドを叩く雨音だけが残された。


「……助かった」


 北村が短く言うと、夏美はふっとすべてを掌の上で転がすような笑みをこぼし、アタッシュケースを閉じた。


「拓巳が警察に連行されたら、法務顧問としての私の面目が丸潰れだからね。それに、拓巳が捕まったら、誰があの亡霊を引きずり出すの?」


 夏美の視線が、北村のメインモニターに向いた。


 そこには、赤いデジタル数字が冷酷に時を刻み続けている。


[ 68:45:12 ]


「法の盾は私が用意したわ。警察が次に動くための大義名分を作るまで、しばらく時間は稼げるはずよ。黒田の件も、私が法的に追い詰めておく」


 夏美は北村の肩に軽く手を置いた。


「あとは拓巳の矛で、あの数字を止めてみなさい」

「ああ。分かっている」


 嵐のような警察が去り、安堵の息を漏らす桜子。ストーブの前でナイフを収めるサーシャ。そして、すべてを見届け、静かにアタッシュケースを閉じる夏美。


 モニターの光に照らされた彼女たちの姿を見渡し、北村は胸の奥に、かつてない静かな熱が灯るのを感じていた。


 自分はもはや、3年前のように一人で暗闇を彷徨っているわけではない。


 キーボードを叩く乾いた打鍵音が、再び雨音に混じって事務所に響き出す。モニターが放つ青白い光は、深い闇に立ち向かう彼の横顔を、静かに、しかし力強く照らし出していた。

【書籍発売のお知らせ】


作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。


現在予約受付中です。


もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は活動報告をご覧ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。