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遺言パスワード~天才ハッカーはあなたの「消したい過去」を整理する~  作者: 伊達ジン


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第16話 黒い裏取引

 警察が去り、夏美が事務所を後にしてから一時間ほどが経過した。


 東の空が白みかける中、秋葉原の路地裏には、冷たい雨音がただ静かに響いている。事務所の巨大なサーバーラックが発する低く単調な排気音だけが、昨夜の嵐のようなガサ入れが幻でなかったことを証明していた。

 荒らされかけた配線の束や、床に散乱した機材のパーツ。それらを一つ一つ目で追いながら、北村拓巳は深く息を吐いた。警察の強行突破という最悪の事態は免れたものの、黒田という男が持つ権力の執念深さと、その背後にある巨大な闇の端を肌で感じた夜だった。


「無事だったか、桜子」


 北村が声をかけると、作業デスクの前でへたり込んでいた服部桜子が、大きく伸びをしながら立ち上がった。


「ギリギリセーフ。でも、あんの小賢しい社長、マジで許さないからね。警察使って無理やり機材ごと持ってこうとするなんて、やり口がヤクザ以下じゃん」


 彼女は乱れたパッツン前髪を無造作に掻き上げながら、床に落ちていたヒートガンやピンセットを丁寧に拾い集め、元の定位置へと戻していく。指先についた煤汚れを、MA-1の袖で気にする様子もなく拭い去った。

 一方、サーシャ・イヴァノヴァは部屋の隅でタクティカルナイフの刃こぼれを確認し、レザージャケットの奥へと静かに収めていた。彼女の透き通るような碧眼は、いまだにドアの方角への警戒を完全に解いてはいない。


 北村はデスクの奥に避難させていた段ボール箱を引き寄せた。中では、子猫のスミが何事もなかったかのように丸くなって眠っている。その微かな体温と規則正しい寝息を指先で確認し、北村は自身の強張っていた肩の力をようやく抜いた。


「少し、休憩にしよう。腹ごしらえだ」


 北村は立ち上がり、キッチンスペースに向かった。徹夜の解析作業と極度の緊張、それに続く警察の強襲で、胃は完全に空っぽだった。冷蔵庫の横に置いてあったコンビニの袋から、カゴメのレンジでチンするシリーズの『牛肉とマイタケのデミグラスソース風味リゾット』を取り出す。普段なら手作りの食事を用意するところだが、今は一分一秒でも早く脳に糖分と塩分を補給したかった。


 パッケージの端を少しだけ開け、電子レンジに放り込む。数分後、扉を開けると、コク深いソースの甘い香りが湯気とともに立ち上った。

 北村はスプーンを取り、一口頬張る。

 牛肉の深いコクと、マイタケの芳醇な香りが口いっぱいに広がる。濃厚なデミグラスが絡んだライスは、噛むほどに旨味が染み出し、カフェインとエナジードリンクで荒れ果てた胃を優しく、しかし確かな満足感で満たしていった。手軽なコンビニ飯とはいえ、その緻密に計算された味わいは、疲弊しきった体に急速に活力を呼び覚ましてくれる。


 桜子とサーシャも、それぞれ買っておいたツナサンドやプロテインバーを無言で口に運んでいる。温かい食事と静寂が、事務所の空気をいくらか和らげていった。

 桜子がツナサンドの最後の一口を飲み込み、ペットボトルのお茶で流し込む。


「しかしさ、あの岩田って弁護士さん、マジでハンパないね。あの倉田って警部、完全に蛇に睨まれたカエルだったじゃん」

「夏美さんは、警察組織の裏も表も知り尽くしている。彼女が法的な防波堤になってくれたおかげで、俺たちは本来の仕事に集中できる」


 北村が短く答えると、サーシャも小さく頷いた。


「あの女の人、強い。言葉だけで、男たち制圧した。システマの達人みたい」


 サーシャの独特な表現に、桜子が吹き出す。緊迫していた空気が、彼女たちの他愛のないやり取りによって少しずつ日常の温度を取り戻していく。


 北村がリゾットを食べ終え、温かい加賀棒茶を淹れようとした時だった。

 コンコン、と軽快なヒールの音が廊下から響き、錆びついたドアがゆっくりと開いた。


「相変わらず、ここは男所帯みたいに殺風景ね。少しはアロマでも焚いたらどうかしら」


 艶やかな声とともに姿を現したのは、平田雪穂だった。深夜のバー営業を終えてきたのだろう、深いスリットの入った漆黒のロングドレスに、上質なカシミヤのショールを羽織っている。その佇まいには、焦げたフラックスの匂いが染み付いたこのジャンク街の空気を、そっくりそのまま夜の帳へと溶かし込んでしまうような鮮烈な色気があった。

 桜子が目を丸くして雪穂のドレス姿を上下に眺め、サーシャは野生動物のようにすっと体幹を緊張させて警戒の色を見せる。


「雪穂。こんな時間にどうしたんだ」


 北村が問いかけると、雪穂は挑発的な笑みを浮かべ、デスクの端に軽く腰掛けた。


「あの貪欲な社長さんの動向よ。警察のガサ入れが失敗したと知って、今度はもっと面倒な相手に泣きついたみたい」


 雪穂はハンドバッグから、艶消しブラックの薄型USBドライブを取り出し、北村の目の前に置いた。


「民政党の郷田議員。知っているかしら?」


 北村の目が微かに細められた。


「国土交通副大臣まで務めた大物だな。なるほど、警察上層部に圧力をかけられるわけだ。黒田の背後にいるとはな」

「ええ。黒田は長年、郷田の裏金作りに協力してきた。ダミー会社を経由したパーティー券の購入や、星野美雨のような若いタレントを使った接待。郷田にとって黒田は、切るに切れない便利な財布であり、同時に自分の弱みを握る時限爆弾でもあるのよ」


 北村は雪穂の置いた漆黒のドライブを見つめた。


「その中身は?」

「郷田議員の『裏の顔』よ。彼が過去数年間にわたって反社会的勢力と交際していた写真、未公開株のインサイダー取引の記録。私の情報網を使って、少し無理をして集めさせてもらったわ」


 雪穂は蠱惑的に微笑みながら、北村の肩にそっと指先を這わせた。


「黒田が郷田に泣きついた以上、このままではあなたが潰される。でも、郷田が黒田を『守る価値のない危険人物』だと認識すれば、彼らは勝手に共食いを始めるわ」

「……政治家のスキャンダルデータをぶつけて、郷田に黒田を切り捨てさせるということだな」


 北村は雪穂の細い指を優しく払い、自身のメインPCにそれを接続した。


「でも、郷田みたいな大物がさ、出所不明のデータだけで簡単に黒田を切るかな?」


 桜子が横から心配そうに口を挟む。


「だから、証明するんだ。私たちが持っている情報が、郷田の政治生命を完全に絶つことができる『本物』だと」


 北村がキーボードに手を置くと、乾いた打鍵音が再び、圧倒的な速度で部屋に響き始めた。

 暗号化された雪穂のデータを瞬時に展開し、画面の左半分に郷田の裏取引の記録を表示する。そして、右半分には黒田の隠しサーバーから抜き取ったデータを展開した。


 二つの異なるデータ群が、北村の凄まじいタイピング速度によってソートされ、時系列順に並べ替えられていく。

 星野美雨の遺した『遺言パスワード』というファイル名の奥に隠されていた、奴隷のような契約書と接待の記録。そこに記された日付、高級ホテルのスイートルームの予約履歴と、雪穂が持ち込んだ郷田の非公式なスケジュールの空白が、次々と見事に一致していく。さらに、美雨のスマートフォンが拾っていたGPSのログと、郷田の公用車の移動記録が、同じ座標でピタリと重なり合った。


「見事なパズルね」


 雪穂が感嘆の息を漏らす。


「これだけの証拠が揃えば、特捜部だって動かざるを得ないわ」

「黒田が美雨さんを脅し、郷田の元へ送り込んでいた。美雨さんが残したあの悲痛な言葉の裏付けが、今ここですべて繋がった」


 北村の声には、静かな、しかし確かな怒りが宿っていた。権力者たちの欲望のために、一人の少女が絶望の淵へ追い詰められた。その事実が、北村のハッカーとしての冷徹な理性に、鋭い刃のような意志を与えている。


「ボス、どうする? これ、マスコミ、流す?」


 サーシャが身を乗り出して尋ねた。


「いや、メディアに出せば、郷田はトカゲの尻尾切りで黒田にすべてを被せて逃げ切る可能性がある。確実に二人を社会的に抹殺するためには、逃げ道を塞ぐ必要がある」


 北村はターミナルウィンドウを立ち上げ、複数のコマンドを驚異的な速度で打ち込んでいった。


「郷田の私設秘書が管理しているクラウドサーバーのIPアドレスを特定した。これから、郷田のサーバーの最深部に、この照合データを『直接』送りつける」

「えっ、直接? それって、こっちの手の内を全部バラすってことじゃん!」


 桜子が驚いて声を上げる。


「その通りだ。郷田に対して、『命綱はすでにこちらの手の中にある』と分からせる。その上で、黒田の裏帳簿のデータが自動的にマスコミ各社に一斉送信されるスクリプトを見せつける。送信のタイマーは24時間後。郷田が黒田を切り捨て、自ら警察に出頭しない限り、タイマーは止まらない」


 北村の指先が、一切の無駄なく死の宣告とも言えるプログラムを構築していく。それは、相手のセキュリティホールを穿ち、管理権限を乗っ取った上で、ディスプレイの中央に解除不能のカウントダウンを表示させ続ける悪魔的なスクリプトだ。


「権力に縋る人間は、権力によって見捨てられる恐怖に一番弱い。郷田は自分の保身のために、必ず黒田を裏切る。そして黒田もまた、自分を見捨てた郷田を道連れにするために洗いざらい口を割るはずだ」


 北村は作成したペイロードを、数カ所の海外プロキシを経由するようルーティングを設定した。郷田の私設秘書がどれほど優秀なセキュリティ業者を雇っていようと、このパケットの真の送信元が秋葉原の零細データ復旧サービスであることには絶対に辿り着けない。


 雪穂は腕を組み、満足そうに北村の横顔を見つめた。


「相変わらず、容赦がないわね。相手の心理の最も脆い部分を的確に抉る。さすがだわ」

「雪穂がこのデータを持ち込んでくれなければ、ここまで完璧な罠は組めなかった。感謝する」


 北村は短く、真摯な言葉を返した。


「あら、嬉しい。でも、私への報酬は高くつくわよ?」


 雪穂は悪戯っぽく笑ったが、その瞳の奥には北村への強い信頼が滲んでいた。


 北村はキーボードを見つめ、エンターキーに指を乗せた。一度だけ静かに息を吸い込む。頭の中には、ビルから身を投げるしかなかった星野美雨の孤独と絶望が、冷たい痛みとして焼き付いている。


「送信、完了」


 北村がエンターキーを静かに叩くと同時に、郷田のサーバーに向けて暗号化されたデータ・パッケージが射出された。

 相手のネットワークに侵入し、ファイアウォールの隙間を縫って管理者のデスクトップに直接メッセージを表示させる。郷田は今頃、深夜の事務所で画面に突如現れた自身の罪の記録と、24時間のカウントダウンを見て、恐怖に震え上がっているはずだ。


「これで、黒田と郷田の繋がりは崩壊する」


 北村は深く椅子に寄りかかり、モニターの赤い光を見据えた。

 星野美雨を死に追いやった男たちへの、冷酷で完璧な復讐の第一歩。しかし、黒田の裏帳簿が示すネオ・サイバー社への資金ルート、そして『クロノス』という巨大な闇は、まだその奥底に潜んでいる。


 冷めかけた茶の苦味が、強張った喉の奥へと静かに流れ込んでいった。モニターの端では、暗号化されたIPアドレスの断片が、青白い光を冷ややかに明滅させ、静かに次の標的を待ち受けている。

【本日発売のお知らせ】


いつも本作をお読みいただき、ありがとうございます。


作者の別連載作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されました!


Web版をもとに加筆・修正を行い、書き下ろしなども収録しています。


本作とは別の作品になりますが、ご興味がありましたらぜひチェックしていただけると嬉しいです。


『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿』第1巻、発売中です!


詳しい書籍情報は活動報告をご覧ください。

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