第17話 仕組まれたトラウマ
今朝がた、岩田夏美の機転で強制捜査を退け、郷田への仕掛けを完了させた後、二人は不足していた電子部品の買い出しに出た。その帰り道、突然の強い雨に降られ、雨宿りを兼ねてこの店に飛び込んだのだ。緊迫した徹夜の作業が続いた桜子への、ちょっとした息抜きの時間でもあった。
秋葉原の中央通りから一本路地に入った、アンティーク調の小さな喫茶店。
ステンドグラスのランプシェードが落とす暖色系の光の中で、北村拓巳は無言でコーヒーカップの縁を指でなぞっていた。窓の外では、朝からの冷たい雨がまだ降り続いている。ガラス越しに行き交う傘の波をぼんやりと眺めながら、彼は静かに息を吐き出した。
「ボス、本当に一口もいらないの? すごく美味しいのに」
向かいの席で、服部桜子が目を輝かせながら分厚いパンケーキを切り分けている。たっぷりのメープルシロップとホイップクリームが乗ったそれを、彼女は幸せそうに頬張った。
「甘いものは桜子の特権だろ。遠慮しないで全部平らげろ」
北村は穏やかな声で返し、ブラックコーヒーを一口含んだ。
「そう? じゃあお言葉に甘えて」
桜子は嬉しそうに笑い、フォークを進める。彼女の屈託のない笑顔を見ていると、数時間前まで国家権力を相手に綱渡りのような心理戦を繰り広げていたことが嘘のように思える。郷田への24時間のカウントダウンは、今この瞬間も確実に進んでいるはずだ。
「……無理に付き合わせて悪かったな。少しは休めたか」
「全然平気。それに、ボスの淹れるお茶も好きだけど、たまにはこういう場所でちゃんとお茶するのもいい気分転換になるしね」
桜子はストローでアイスティーをかき混ぜながら、少しだけ真面目な顔つきになった。
「でも、黒田の裏帳簿からネオ・サイバー社への繋がりがはっきり出たね。相手は日本のネットインフラの根幹を握ってるような巨大企業。この先、どう動くつもり?」
「郷田の件がどう転ぶか次第だが、向こうも手段を選ばなくなってくるはずだ。物理的な警戒も一段引き上げる必要がある。事務所のセキュリティは、桜子とサーシャに頼ることになる」
「任せてよ。私が組んだトラップ、そう簡単には抜かせないから」
頼もしい返事に、北村は小さく口角を上げた。有能な仲間たちに恵まれている。今の自分は、決して一人ではない。その事実が、冷え切っていた彼の奥底に確かな温もりを与えていた。
「そろそろ小降りになってきた。戻ろう」
会計を済ませて外に出ると、雨は霧のように細かくなっていた。
二人が事務所の入る雑居ビルに戻ると、空気がひどく淀んでいるように感じられた。階段を上る軋み音が、やけに大きく響く。
「あれ? サーシャがいない」
ドアを開けて中に入った桜子が、首を傾げた。普段なら、足音を聞きつけてすぐに姿を見せるはずの彼女がいない。
「少し周辺の偵察に出ると言っていた。すぐに戻るだろう」
北村は濡れた上着をハンガーに掛け、ストーブの電源を入れた。段ボール箱の中では、子猫のスミが丸くなって静かな寝息を立てている。
桜子が機材部屋へと入り、北村がメインデスクの椅子に腰を下ろした、その瞬間だった。
メインモニターの画面が、突如として激しく乱れた。
「……なんだ?」
キーボードには一切触れていない。ローカルに隔離されているはずのシステムが、外部からの干渉を受けている。画面の中央で、クロノスの赤いカウントダウンタイマーが不規則に明滅を始めた。
『接続要求……承認』
無機質なシステムメッセージが表示された直後、接続されている大型スピーカーから、ざらついたノイズが流れ出した。
キーボードを叩いていた北村の両手が、打鍵の途中でピタリと止まる。
ノイズの奥から聞こえてきたのは、ひび割れたコンクリートの反響音と、乱れた呼吸の音だった。
『拓巳、ここは俺が突入する。バックアップを頼む』
心臓を、冷たい刃で直接貫かれたような衝撃だった。
3年前に命を落とした相棒、安田健太の声。
「やめろ……!」
北村は咄嗟に身を乗り出し、回線を物理的に遮断しようとケーブルに手を伸ばした。しかし、指先がひどく震え、思うように動かない。
スピーカーからの音声は、無慈悲に続く。
硬質な施錠音が響き渡り、健太が何かを叫ぼうとした瞬間に、凄まじい爆発音が鼓膜を打った。炎が空気を食い尽くす轟音。そして、ノイズの向こうで途切れる、くぐもった悲鳴。
「あ、ぁ……」
北村の肺から、急激に酸素が失われていく。
周囲の景色が急速に色を失い、視界が狭窄していく。鼻腔の奥に、焦げた配線と、生暖かい血の匂いが蘇る。分厚い鋼鉄の扉を叩き続けたあの夜の、骨が軋むほどの絶望感が、フラッシュバックとなって彼の全身を拘束した。
息ができない。気道が塞がったように、呼吸が浅く、速くなる。
「ボス!? どうしたの、その音……!」
異変に気づいた桜子が機材部屋から飛び出してきたが、北村の目には彼女の姿すら映っていなかった。彼は胸元を強く掴み、椅子から床へと崩れ落ちた。
「ボス! しっかりして!」
桜子の悲痛な叫び声が、遠くの出来事のように聞こえる。
その時、事務所のドアが勢いよく開かれた。
「北村さん!」
飛び込んできたのは、土屋恵だった。手には差し入れらしき紙袋を持っている。彼女のすぐ後ろには、安田つくしの姿があった。郷田の一件の裏取りの報告に訪れたのだろう。
二人は、床にうずくまる北村と、スピーカーから流れ続ける忌まわしい音声を同時に認識した。
「これは……兄さんの……」
つくしが顔面を蒼白にし、その場に立ち尽くす。彼女の瞳からも急速に光が失われ、過去のトラウマが呼び起こされようとしていた。
「桜子さん、スピーカーの電源を物理的に落として!」
恵の声が、鋭く、しかし極めて冷静に響いた。桜子が弾かれたように動き、コンセントを強引に引き抜く。ノイズと炎の音が消え、事務所に静寂が戻った。
恵は紙袋を放り出し、床に倒れ込む北村のそばに膝をついた。
「北村さん。私の声に集中してください。ここは3年前の現場じゃない。秋葉原の事務所です」
恵は北村の背中にそっと手を当て、一定のリズムでさすり始めた。彼女の氷のような冷静さが、今は何よりも頼もしい。
「息を吐いて。吸うことよりも、ゆっくりと吐き出すことに意識を向けてください。そう、その調子です」
しかし、北村の過呼吸は収まらない。彼の目は虚空を見つめ、過去の地獄を彷徨い続けていた。
その時、立ち尽くしていたつくしが、震える足を踏み出した。
彼女は恵の隣に座り込み、北村の強く握りしめられた両手を、自身の手で包み込んだ。
「……北村」
つくしの声は震えていた。兄の最期の音声を聞かされた衝撃は、彼女にとっても計り知れない。それでも、彼女は北村の手を強く握り返した。
「戻ってきて。あなたは、あそこに置いてきちゃいけない人だわ」
つくしの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それが北村の手に触れた。
「兄はもういない。でも、私たちはここにいる。今、ここにいるわ。だから、お願い……目を開けて」
温かい涙の感触と、必死に自分を繋ぎ止めようとする二人の手の温度。
それが、北村の意識を深い泥濘の中から引き上げる綱となった。
大きく息を吸い込み、そして、長く吐き出す。
視界の端の暗がりが少しずつ晴れ、元の埃っぽい事務所の天井が目に入った。背中をさする恵の規則正しい手の動きと、自分の手を強く握りしめるつくしの顔が見える。
「……すまない」
掠れた声で、北村はそうこぼした。
「無理に話さないで。呼吸は落ち着きましたか?」
恵が静かに問いかける。北村は小さく頷き、つくしの手を軽く握り返してから、ゆっくりと上体を起こした。
桜子が急いでミネラルウォーターのペットボトルを開け、差し出してくる。それを受け取り、一口飲むと、冷たい液体が強張った喉を少しだけ潤した。
「……無様だな」
北村は自嘲気味に息を吐き、デスクに手をついて立ち上がった。
つくしは目元を乱暴に拭い、立ち上がる北村をじっと見つめた。
「あんな音声を残しているなんて……。クロノスは、どこまで兄さんを、私たちを愚弄すれば気が済むの」
「焦っている証拠だ」
北村はメインモニターを睨み据えた。その瞳には、先ほどまでの恐怖や絶望は微塵もない。代わりに宿っていたのは、絶対零度の静かな怒りだった。
「奴らは郷田の件で、こちらの手札の広さと深さを知った。技術的な防壁だけではいずれ突破されると悟り、俺の精神を直接破壊しにきた。それほどまでに、盤面をひっくり返されることを恐れている」
北村はキーボードの上に両手を戻した。
「相手の目的は、俺を過去に縛り付けて無力化することだ。だが、その手口は間違っている」
打鍵音が、再び事務所に響き始める。それは過去への逃避ではなく、未来を切り開くための冷徹な反撃の音だった。
「教えてやる。死者のデータを利用して人を傷つける行為が、どれほど高くつくかということを」
北村の言葉の重みに、恵とつくし、そして桜子は無言で頷いた。
しかし、その静寂は、鼻腔を突く異臭によって破られた。
「……ボス、焦げ臭くない?」
桜子が鼻をひくつかせる。
北村は咄嗟に振り返った。視線の先にあるのは、部屋の奥に鎮座する巨大なサーバーラック。その中段、星野美雨の証拠データを含む複数のメインHDDが格納されているドライブベイから、薄黒い煙が立ち上っていた。
「しまった……!」
北村は椅子を蹴り飛ばしてサーバーラックへ駆け寄り、即座に電源ケーブルを物理的に引き抜いた。だが、遅かった。ドライブベイの金属カバーは異常な熱を持ち、内部からは電子部品が完全に焼き切れた特有の嫌な匂いが漂っている。
「クロノスの奴ら……俺の精神を攻撃して動けなくしている隙に、バックグラウンドでメインHDDに過電圧を送り込んでいやがった……!」
北村は焦げたHDDのベイを引き抜き、デスクの上に乱暴に置いた。星野美雨を殺した男たちを裁くための、たった一つの命綱。それが今、黒焦げの鉄の塊と化している。
つくしが青ざめた顔でそれを見つめる。
「そんな……郷田の件はどうなるの? この証拠がなきゃ……」
絶望の空気が事務所を包み込もうとした、その時だった。
「ボス」
桜子が、デスクの上に置かれた焦げたHDDに歩み寄った。彼女はいつもの派手なヘッドホンを首から外し、顕微鏡の横に置かれた精密ドライバーを手に取った。
「これ、直せるか?」
北村の静かな問いに、桜子はパッツン前髪の下の大きな瞳を輝かせ、不敵な笑みを浮かべた。
「任せて。私をその辺のジャンク屋と一緒にしないでよね」
カウントダウンの数字が、青白い光の中で静かに刻まれていく。モニターを見据える北村はただ、冷徹な打鍵音を暗がりに響かせ続けていた。




