第18話 ハードウェアの神業
服部桜子はすぐさま丸椅子を引き寄せ、作業デスクの照明を最大に明るくした。
パッツンと切り揃えられたハイトーンカラーの前髪の下、その大きな瞳には微塵の絶望も浮かんでいない。
「お姉さん、悪いけどそこどいて。埃が舞うと厄介だから」
有無を言わさぬ桜子の気迫に押され、安田つくしは小さく頷いて一歩後ずさった。
「桜子さん、スピーカーの電源は切ったままでいいのね」
土屋恵が冷静に確認すると、桜子はピンセットを片手に頷いた。
「うん。静かな方が集中できるから。ボス、同じ型番のドナーHDD、予備のパーツ箱に入ってるよね。出して」
北村拓巳は無言で立ち上がり、部屋の隅にあるパーツを分類した引き出しから、要求された型番のHDDを探し出した。いついかなる時でも最悪の事態を想定して確保してある、同型、同ロットの完全なスペアだ。
「ここにある」
北村が差し出すと、桜子は受け取りもせずに「そこに置いて」と顎で示した。彼女の視線は既に、焦げたHDDの分解へと完全に注がれている。
トルクスドライバーが小気味良い音を立てて、焦げたケースのネジを次々と外していく。カバーを開けた瞬間、より強い焦げ臭さが室内に充満した。
基板の表面は、過電圧によって無惨に焼き切れていた。モーター制御のICチップは黒く炭化し、周囲の配線も熱でひしゃげている。素人が見れば間違いなく修復不可能なスクラップだ。
だが、桜子は顕微鏡を覗き込み、ピンセットの先で基板の一部を指し示した。
「基板は完全に逝ってる。でも、データが記録されてるプラッタ自体は、まだ熱の影響を受けきってない。ヘッドも無事みたい。問題は、このHDD固有のファームウェアとキャリブレーション情報が書き込まれてるROMチップ。これが死んでたら、プラッタが無事でも一生データは読めない」
「移植する気か」
北村が尋ねると、桜子はニヤリと笑った。
「当然でしょ。ドナー基板のROMチップを剥がして、こっちの生き残ってるかもしれないROMを貼り付ける。シビアな外科手術だよ」
桜子は極細のヒートガンを手に取り、基板へと向かった。
北村は彼女の背中越しに、自身のメインモニターに残されたシステムログを素早くスクロールした。
『俺がトラウマで身動きが取れなくなっている数分間のうちに、バックグラウンドから過電圧のコマンドを流し込まれたな。物理的な破壊を直接狙ってきたわけだ』
クロノスが仕掛けた二段構えの罠。過去の音声データで精神を麻痺させ、その隙にすべての証拠を物理的に焼き払う。冷酷で、一切の無駄がない手口だ。
「桜子、作業にはどれくらいかかる」
「チップを剥がして、洗浄して、はんだ付けし直す。熱を冷ます時間もいるから……最低でも三時間は欲しいかな」
「分かった。その間に、俺は外で保険を掛けてくる」
北村はハンガーからヨレヨレのパーカーを手に取り、羽織った。
「恵先生、桜子と安田を頼めるか」
「ええ。ここは任せて」
恵の静かな頷きを確認し、北村は雨の降りしきる外へと足を踏み出した。
丸の内の高層ビル群は、雨煙に霞んで鈍いグレーに沈んでいた。
北村が指定されたのは、外資系高級ホテルの最上階にあるラウンジだった。ピアノの生演奏が静かに流れる薄暗いフロアの奥、夜景を見下ろす窓際の席に、岩田夏美はいた。
深いネイビーの仕立ての良いパンツスーツ。胸元には弁護士バッジが控えめに、しかし確かな存在感を放って光っている。彼女はグラスのシャンパンを傾けながら、パーカー姿で現れた北村を余裕のある微笑みで迎えた。
「相変わらず、場所柄をわきまえない服装ね」
「急な呼び出しでドレスコードを気にする余裕はなかったんでね」
北村は向かいのソファに腰を下ろし、ウェイターにペリエを頼んだ。
「あのデータが物理的に破壊されたというのは本当?」
夏美はシャンパングラスをテーブルに置き、周囲に聞こえないトーンで本題を切り出した。彼女の瞳から大人の余裕が消え、凄腕の弁護士としての鋭い光が宿る。
「ええ。だが、うちの天才が今、基板の移植手術をしている。数時間後にはデータは蘇るはずです」
「頼もしい助手を持ったわね。でも、クロノスが物理破壊に動いたということは、彼らは警察内部のパイプを使って、もっと強引な手段に出てくる可能性があるわ」
北村はペリエのグラスを手に取り、頷いた。
「俺もそう見ています。郷田の不正と、星野美雨の残した証拠。あれが復元されたと知れば、黒田は保身のために手段を選ばない。適当な大義名分をでっち上げて、警察に俺の事務所を再び差し押さえさせるか、あるいは……」
「非合法な実力行使ね。警察が動く前に、私が法的な防波堤を高くしておく必要があるわね」
夏美はタブレットを取り出し、いくつかの文書ファイルを画面に表示させた。
「すでに、信頼できる第三者機関の公証人役場に、これまでの経緯とデータのハッシュ値をタイムスタンプ付きで預ける手はずを整えてあるわ。もし警察が令状を持ってあなたの事務所に踏み込んでも、私が法廷で『不当な証拠隠滅を目的とした違法捜査』として完膚なきまでに叩き潰す」
「さすがですね。対応が早い」
「言ったでしょう。盾は私が用意するって。あなたはただ、矛を研ぎ澄ませておけばいいのよ」
夏美はふっと艶やかな笑みをこぼし、北村を真っ直ぐに見つめた。
「でも、拓巳。気をつけて。クロノスは、私たちが想定している以上に根深い場所に巣食っている。法というルールが通用しない相手には、弁護士バッジはただの飾りにすぎないわ」
「分かっています。だからこそ、奴らが表舞台に引きずり出される罠を仕掛ける」
北村の言葉に迷いはない。夏美は小さく息を吐き、グラスを掲げた。
「頼んだわよ。私たちの切り札」
北村が秋葉原の事務所に戻ると、焦げた匂いは換気扇によってわずかに薄らいでいた。
作業デスクの前で、桜子が大きく伸びをしているところだった。
「よし、乗った」
彼女は顕微鏡から目を離し、ドナーHDDのケースのネジをしっかりと締め終えた。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「お待たせ。あとはボスの仕事だよ」
桜子が差し出したHDDを受け取り、北村は自身のメインPCのSATAケーブルに直接接続した。
つくしと恵が、息を殺してモニターを見つめる。
北村が電源を入れると、修復されたHDDからモーターが回転する微かな駆動音が鳴り始めた。ウィーン、という規則正しい音。異常なシーク音はない。
モニターに、認識を知らせるダイアログが表示された。
「……認識した」
北村が短く告げると、室内の空気が僅かに揺れた。
「嘘……あんな真っ黒に焦げてたのに……」
「だから言ったでしょ。私をその辺のジャンク屋と一緒にしないでって」
桜子は誇らしげに胸を張り、MA-1の袖で額の汗を拭った。
「見事だ、桜子」
北村は振り返らずに言葉をかけ、即座にキーボードへと手を戻した。
「だが、油断はできない。クロノスがキルスイッチの裏に、データの論理破壊スクリプトを仕込んでいる可能性がある。安全な領域にデータを完全にクローンするまで、終わっていない」
北村の指が凄まじい速度でキーボードの上を舞い始める。修復されたHDDに直接アクセスするのではなく、低レベルのセクターバイセクターで完全なイメージファイルを作成するコマンドを叩き込む。
緑色のプログレスバーが、画面上でゆっくりと伸びていく。
10%、20%、30%……。
沈黙の中、ハードディスクのカリカリという読み込み音だけが響く。北村はプログレスバーの進捗とともに表示されるエラーログを監視し続けていた。幸い、物理的な読み込みエラーは発生していない。桜子のはんだ付けは完璧だった。
99%……そして、100%。
『Image creation completed successfully.』
システムメッセージが表示された瞬間、北村は修復したHDDを即座にオフラインにした。
「クローン完了。データは無事だ」
その言葉に、つくしが大きく肩で息をした。恵がそっと彼女の背中に手を添える。
「よくやってくれたわ、桜子さん」
恵の言葉に、桜子は照れくさそうに頭を掻いた。
「まあね。これくらい朝飯前だよ」
北村は椅子を回転させ、データのコピーが入ったUSBストレージをつくしに差し出した。
つくしはそれを受け取ると、まだ微かに震えの残る拳を強く握りしめた。彼女の瞳の中には、兄の音声を聞かされたトラウマの余韻と、歪んだ警察組織の上層部への不信感が渦巻いている。だが、同時に刑事としての確かな矜持が、その震えを必死に押さえ込もうとしていた。
「……分かっているわ。上層部がどう動こうと、私は刑事として、この証拠を絶対に無駄にはしない。今度は、絶対に……握り潰させはしないわ」
痛みを堪えるようなつくしの決意に、北村は深く頷いた。
「よし。桜子、少し休め。サーシャが戻ったら、事務所の物理セキュリティを再確認する」
「了解。ちょっとだけ仮眠させてもらうね」
桜子はソファへと向かい、丸くなって目を閉じた。
北村は再びモニターへと向き直る。赤いカウントダウンが、無機質に時を刻み続けている。
北村はキーボードを見据え、その前髪の奥の瞳に静かで冷徹な熱を宿した。
深夜の事務所に、乾いた打鍵音が再び、規則正しいリズムを刻み始める。モニターが放つ青白い光は、深い闇に立ち向かう彼の横顔を、ただ静かに照らし出していた。




