第2話 パスワードは故人の涙(後編)
コンソール上にスクロールするログの速度が、北村の打鍵に追いつかない。
張り詰めた沈黙の中、緑色のステータスコードが冷酷にエラーを弾き出し続けていた。北村拓巳は瞬き一つせず、ただキーボードを叩き続けていた。
「……残り二回」
背後から覗き込んでいた桜子が、ヘッドホンを首にずらして低く呟く。
木村翔太のスマートフォン。表面上はありふれた六桁のPINコード入力画面だが、裏では全く別のカスタムOSが走っている。指定された入力回数をオーバーした瞬間、端末内のフラッシュメモリに過電圧をかけ、物理的にすべてのデータを焼き切る『キルスイッチ』だ。
「総当たりは無理だね。オフラインの仮想環境にメモリのダンプをコピーして、そっちで試す?」
「コピーするプロセス自体がトリガーになる可能性がある。直接叩くしかない」
「ミスったら完全にパーだよ」
「ミスらない」
北村の指がピタリと止まった。画面の一部、メモリのセクターを直接読み込んだ十六進数の羅列を凝視する。
彼はマウスを動かし、文字列の一部をハイライトした。
「暗号化のアルゴリズムはAES-256。だが、鍵の生成プロセスに偏りがある。乱数生成のシードに、この端末のMACアドレスと……特定のタイムスタンプを組み合わせているな」
「それって」
「この『キルスイッチ』を仕組んだ人間は、対象者がいつこの端末を使い始めたかを知っている」
北村はタイピングを再開した。彼自身の頭の中で組み上げられた復号鍵の候補が、凄まじい速度でターミナルに打ち込まれていく。
エンターキーが、短く、乾いた音を立てて叩かれた。
画面がフリーズしたように静止する。
数秒の息詰まるような沈黙の後、ターミナルの背後に隠れていた偽装ロック画面がノイズと共に崩れ落ち、見慣れたスマートフォンのホーム画面が表示された。
「……ビンゴ。開いたよ、ボス」
桜子が長々と息を吐き出す。
北村は表情を変えず、マウスを操作してファイルシステムを階層深くへと潜っていく。
表向きのフォルダには、高校生らしいゲームのアプリや友人と撮った写真が並んでいる。だが、ストレージの最深部、システム領域と偽装された不可視パーティションの中に、それはあった。
一つのパスワード付きの圧縮ファイル。
これも既に解読した鍵で開く。
展開されたフォルダの中には、数十の動画ファイルと、日付が振られたテキストファイルが格納されていた。
北村は一番新しい日付のテキストを開いた。
★★★★★★★★★★★
翌日の午後。
事務所のパイプ椅子に座った木村道子は、北村のメインモニターに映し出されたテキストを、震える目で見つめていた。
室内には、沈黙の重みを増幅させるような電子の駆動音だけが響いている。北村は道子から少し離れたデスクの端に寄りかかり、腕を組んで黙っていた。桜子は気を使って、奥の機材部屋に引っ込んでいる。
『もう限界だ。あいつらの言う通りにしないと、お母さんの店に火をつけるって言われた』
『ただのパシリだと思ってたのに、昨日渡されたカバンの中身は絶対ヤバいものだった』
『警察に行ったら殺すって。どうすればいい』
翔太のテキストは、そこからさらに凄惨な内容へと変わっていく。
彼を脅していたのは、同級生ではなく、地元の半グレ集団だった。断りきれない状況を作り出され、いわゆる『闇バイト』の末端として利用されそうになっていた記録。
そして、彼が死んだ当日の記録。
『今日、交差点で待ち合わせだ。断る。もう逃げられないなら、全部話す。お母さん、ごめんなさい』
「……そんな」
道子の喉から、空気が漏れるような音がした。
北村は静かにマウスを操作し、今度はフォルダ内の動画ファイルを再生した。
映像は、どこかの路地裏で撮影されたものだった。数人の若い男たちが、翔太を囲んで蹴りを入れている。笑い声と、翔太のうめき声。翔太のスマートフォンを奪い取り、勝手に撮影しているのだろう。
北村は動画をすぐに停止した。
「……息子さんは、信号を無視して飛び出したんじゃない」
北村の低く落ち着いた声が、室内に落ちる。
「彼らから逃げようとしたか、あるいは、突き飛ばされた。データを見る限り、彼が自ら命を絶とうとした痕跡はありません。最後まで、あなたを守ろうと抵抗していた」
道子は両手で顔を覆い、声を殺して泣き崩れた。
肩が激しく震え、すすり泣きが事務所の冷たい空気に溶けていく。
北村は慰めの言葉をかけなかった。安っぽい同情は、この凄絶な事実の前では何の役にも立たないことを、彼は誰よりも知っている。
代わりに、デスクの上にあった箱ティッシュを、彼女の手の届く位置にそっと押しやった。
十分ほどの時間が過ぎ、道子がようやく顔を上げた。目は赤く腫れ上がり、深い疲労が刻まれていたが、その奥には昨日までの怯えたような光とは違う、確かな意志が宿っていた。
「……このデータを、すべてコピーしてください」
「警察に持って行くんですか」
「はい。あの子が残してくれた証拠です。これがあれば、警察も再捜査してくれるはずです」
北村はUSBメモリを取り出し、手早くデータを移行させた。
「気をつけて」
USBメモリを渡しながら、北村は言った。
「この『キルスイッチ』のプログラムは、ただの不良グループが組めるレベルのものじゃない。背後に、もっと厄介な人間がいます」
道子はUSBメモリを両手でしっかりと包み込み、深く頭を下げた。
「ありがとうございました、北村さん。あなたのおかげで……あの子の本当の気持ちが、分かりました」
★★★★★★★★★★★
道子が帰った後、事務所には再び重い沈黙が戻った。
窓の分厚いブラインドの隙間から、秋葉原の街を包む夕暮れの毒々しいネオンが細く差し込み始める。彼女が去ってから、すでに二時間近くが経過していた。
機材部屋から出てきた桜子が、大きく伸びをする。
「キッツいね。でも、あれで警察が動けば、あの不良どもは一網打尽でしょ」
「どうかな」
北村は椅子に座り直し、空になったアルミ缶をゴミ箱に放り投げた。
この数時間、彼は抽出したデータを強固に暗号化してオフラインの物理ストレージに退避させる作業と、少年の交友関係の洗い出しを無言で進めていた。
だが、どれだけ手を動かしても、彼の脳裏にはあの美しくも冷徹なプログラムの構造が焼き付いて離れなかった。無駄のない、完璧な殺意。あれは、素人の仕事ではない。
その時だった。
錆びついた事務所のドアが、ノックもなしに勢いよく開け放たれた。
「木村道子さんが今、本庁に証拠のUSBを持ち込んだわ」
凛とした、しかし冷気を孕んだ声。
ドアの敷居を跨いだのは、ネイビーのパンツスーツを隙なく着こなした女性だった。
肩のラインで切り揃えられた艶のある黒髪をきっちりとハーフアップにまとめ、細身のシルエットながら、真っ直ぐに伸びた背筋からは張り詰めた緊張感が漂っている。色白の肌に、意志の強い大きな瞳が、部屋の奥にいる北村を真っ直ぐに射抜いている。小さく結ばれた薄い唇は、怒りともどかしさで固く結ばれていた。
安田つくし。
二十六歳。警視庁サイバー犯罪対策課の現役捜査官。
そして、かつての北村の相棒であり、三年前の事件で命を落とした安田健太の妹だ。
「データを確認した瞬間、私たちのシステムがアラートを吐いたのよ。この事件の裏に、私たちがずっと追っている大規模なフィッシング詐欺グループの通信ログが残されているってね。……それで、解析元のIPを辿ったら、やっぱりここだったってわけ」
つくしの鋭い瞳が、僅かに細められる。
「動かないわけがないわ。警視庁サイバー犯罪対策課を舐めないでほしいものね」
「……警察が何の用だ。ここは令状なしで入れる場所じゃないぞ」
北村はキャスター付きの椅子を少しだけ回転させ、つくしに向き直った。その声には、驚きも焦りもない。ただ、底知れぬ疲労だけが滲んでいた。
「違法捜査と言いたいくつもり? 私はあなたの端末が引き起こしたPing発信を追って、確認のために臨場しただけよ。民間人が不正にアクセスしてデータを抜き取る方が、よっぽど立派な犯罪だわ」
「犯罪か」
北村は短く鼻で笑った。
「俺がやらなきゃ、あの母親は一生、息子が不注意で死んだと思い込んだままだった。お前ら警察が『事故』で処理して、見捨てた事件だ」
その言葉に、つくしの肩がビクッと跳ねた。
「……私たちは、限られた証拠の中で最善を尽くしてる。あなたがルールを無視して暴走するから、いつも現場が混乱するのよ。昔から、ずっとそう!」
つくしの鋭い声が、狭い事務所の壁に跳ね返る。
北村は何も言えなかった。彼女の激しい非難は、そのまま三年前のあの夜の記憶となって北村の胸を深く抉る。己の技術への過信、傲慢さが引き起こした相棒の死。責め立てるつくしの瞳に宿る怒りは、北村自身が日々抱え続けている消えない自責の念そのものだった。
北村はその視線から逃げるように、静かに目を伏せた。
痛いほどの沈黙が落ちた。
部屋の隅で、桜子が息を殺して二人のやり取りを見守っている。
「……死んだ人間のデータは、嘘をつかない」
北村の口から漏れたのは、絞り出すような、掠れた声だった。
「健太もそう言っていた。俺はただ、残されたデータが示す事実を拾い上げているだけだ」
「事実……」
つくしは唇を噛み締め、それ以上言葉を続けることができなかった。
北村の言う通り、もし彼がロックを解除していなければ、翔太の事件はただの交通事故として永遠に葬り去られていただろう。つくしの瞳が、北村の顔を憎悪と哀切が入り混じったような複雑な色で見据える。その理不尽さと、北村への消えない感情の板挟みになり、彼女はギリッと奥歯を鳴らした。
「……木村道子さんが持ち込んだデータは、本庁で正式に受理したわ。フィッシング詐欺グループとの関連も含めて、殺人事件として再捜査本部が立つ」
つくしは姿勢を正し、冷たい事務的なトーンに戻って告げた。
「あなたから押収するものは今のところない。でも、これ以上この事件に首を突っ込まないで。これは警察の仕事よ」
踵を返し、ドアへ向かおうとするつくしの背中に、北村は静かに声をかけた。
「安田」
つくしの足が止まる。
「あの『キルスイッチ』のコードを書いた奴は、ただの詐欺グループの末端じゃない。もっと深く、暗い場所にいる人間だ。気をつけろ」
つくしは振り返らなかった。
「あなたに心配される筋合いはないわ」
バタン、と。
錆びたドアが荒々しく閉まる音が、事務所に虚しく響き渡った。
北村はしばらくそのドアを見つめていたが、やがて深くため息をつき、再び自分のモニターへと向き直った。
画面の隅に、木村翔太の端末から抽出したシステムログの一部が表示されたままになっている。
AES-256で暗号化された、美しいコード。
「……ボス」
桜子が、おずおずと声をかけてきた。
「あの警察のお姉さん、ボスのこと、すっごい睨んでたけど」
「気にするな。昔のツケだ」
北村はマウスを動かし、ログファイルのある一部を拡大した。
そこに記録されていたのは、『キルスイッチ』が起動する直前に、外部サーバーと通信を行うためのルーティングの痕跡だった。
「桜子」
「なに?」
「この通信のプロトコル……このポートの叩き方、ただの半グレが抱えるハッカーのレベルじゃない」
「えっ……それって」
桜子の顔色が変わる。
北村の瞳に、再び鋭い光が宿った。ダウナーな遺品整理屋の顔から、かつて警視庁サイバー犯罪対策課でトップエースと呼ばれた男の、冷徹で容赦のないハッカーとしての眼光へと。
「ただの偶然じゃない。この少年の背後に、もっと恐ろしい闇が潜んでいる」
北村は無言でキーボードの上に両手を戻した。
モニターの放つ青白い光が、少し長めの前髪の奥にある鋭い瞳を冷たく染め上げる。キーボードを叩く乾いた打鍵音が、再び事務所の暗がりに響き始めた。




