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遺言パスワード~天才ハッカーはあなたの「消したい過去」を整理する~  作者: 伊達ジン


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第3話 死者の裏アカウント

 安田つくしが嵐のように去った後の事務所には、張り詰めた沈黙と、機材から発せられる微かな電子の駆動音だけが取り残された。

 彼女が遺していった熱量と、胸に刺さったままの言葉を振り払うように、北村は無言でモニターに向かい、ただ指先を動かし続けた。


 時刻は午前2時を回っている。窓の分厚いブラインドの隙間から漏れ入る秋葉原のネオンは、深夜になってもその毒々しい色を失うことなく、散らかった室内の床に幾何学的な影を落としていた。


 部屋の隅に置かれた合皮のソファでは、オーバーサイズのパーカーに身を包んだ桜子が、丸くなったまま規則正しい寝息を立てていた。手元の基板修復という神経をすり減らす大仕事を終え、すっかり限界が来ていたらしい。彼女の首にかけられたヘッドホンからは、微かに重低音のビートが漏れ聞こえている。


 北村は立ち上がり、音を立てないようにソファへ近づくと、傍らに落ちていたブランケットを桜子の肩に掛け直した。彼女の寝顔は年相応にあどけなく、数時間前まで見せていた凄まじい集中力が嘘のようだ。北村は微かに口角を上げると、再び自分のデスクへと戻った。


 暗い部屋の中で一人、巨大なメインモニターと向き合う。手元にあるのは、半分ほど残った冷めたブラックコーヒー。カフェインも糖分も、今の彼の酷使された脳には焼け石に水だったが、キーボードの上に置かれた指先だけは、まるで別の生き物のように正確な待機姿勢を保ち続けていた。


 数時間前にこの部屋を訪れた、かつての相棒の妹、安田つくし。彼女の瞳に宿っていた怒りと悲しみの色は、北村の胸の奥深くに突き刺さったままだ。警察という組織の限界に縛られながらも、必死に正義を貫こうとする彼女の姿は、3年前の相棒・健太そのものだった。


 だからこそ、北村は警察のやり方にすべてを委ねるわけにはいかなかった。法と証拠に基づいた捜査では、末端の実行犯を逮捕することはできても、安全な場所に隠れている本物の悪意にまで刃を届かせることは難しい。


 木村翔太のスマートフォンから抽出したデータは、すでに暗号化して物理ストレージに移し終えている。母親である道子が警察に証拠のUSBメモリを持ち込んだ以上、表向きの『遺品整理』は完了した。警察組織が正式に動き出せば、翔太を直接脅していた地元の半グレ集団はいずれ一網打尽にされるだろう。


 だが、北村の仕事はまだ終わっていなかった。


「……見つけた」


 長時間の沈黙にひび割れた声が、室内の淀んだ空気に吸い込まれる。

 北村の視線の先には、翔太のスマートフォンの不可視パーティションの奥深く、幾重にも偽装されたシステムファイルの階層が表示されていた。


 翔太は日常的に使っていた表向きのSNSとは別に、もう一つの通信アプリを隠し持っていた。


 アイコンは一般的な電卓アプリに巧妙に偽装されており、一見しただけでは誰も気付かない。特定の複雑な数式を入力し、等号ボタンを長押しした時のみ、裏の通信インターフェースが起動する仕組みになっていた。ただの高校生が自力で構築したとは思えない、プロの仕事によるカスタムメイドのアプリだ。起動の際のメモリの使われ方や、バックグラウンドでのパケットの秘匿方法など、どれをとっても非常に洗練されている。


 おそらく、指示役が末端の人間たちに強制的にインストールさせていたものだろう。逃げ出そうとしたり、裏切ろうとしたりすれば、遠隔で端末を破壊するためのバックドアまで丁寧に仕込まれていた。


 そのアプリの暗号化されたログに残されていたのは、たった一つのアカウントとのやり取りだった。

 アカウント名は『Z』。


 それが、翔太を闇バイトの末端として引きずり込み、あのキルスイッチ付きの凶悪なOSを端末に仕込んだ真の指示役の正体だ。


 翔太の残したテキストや動画データが示す通り、彼は最後まで家族を守るために一人で戦っていた。誰にも相談できず、この真っ黒な画面の向こうにいる顔も見えない悪意に対して、たった一人で。どんなに恐ろしかっただろうか。母親の店に火をつけると脅され、犯罪の片棒を担がされそうになりながらも、彼は交差点で全てを終わらせる決断をした。その震える手で打たれた『お母さん、ごめんなさい』という文字の重みが、北村の胸の奥で重く鈍い痛みを伴って響いている。


 北村は『Z』との通信パケットの履歴を抽出し、自作の解析ツールに放り込んだ。


 相手は幾つものプロキシサーバーを経由し、IPアドレスを海外のものに偽装している。通常の警察のサイバー捜査なら、ここで壁にぶつかる。国際捜査共助の手続きという途方もない時間のかかる迷路に放り込まれ、その間に証拠はすべて消滅してしまうだろう。


 しかし、北村には守るべきルールも、煩わしい手続きも必要ない。


「ルーティングの設定に癖があるな」


 北村はモニターに流れるログの規則性を見抜き、即座にタイピングの速度を上げた。

 深夜の事務所に、キーボードを叩く容赦のない金属的な打鍵音が、高速で刻み込まれていく。


 相手は確かにプロだが、複数のダミーサーバーを経由させる際のトラフィックの分散に、わずかなタイムラグが生じている。北村はそのコンマ数秒のラグの隙間を縫うように、逆探知のパケットを連続で打ち込んだ。相手の構築した迷路の壁を、力技と精密な計算で次々と破壊していく。ファイアウォールの脆弱性を突き、偽装されたIPの皮を一枚ずつ剥ぎ取っていく。


 15分後。


 幾重もの防御壁を突破した先に、一つの国内IPアドレスが浮かび上がった。

 港区の高級タワーマンション。そこが、指示役『Z』の本当の居場所だった。


 北村はそのままの手際で、相手のネットワークルーターのポートの隙間を突き、内部のローカルネットワークへ侵入する。音もなく、痕跡も残さず、Zが現在使用しているメインPCの管理者権限を奪取した。


 画面が切り替わり、ZのPCのデスクトップ画面が北村のモニターにミラーリングされる。

 そこには、見覚えのある通信アプリのウィンドウが開かれたままになっていた。Zは現在進行形で、別の誰かとチャットをしている最中だった。


★★★★★★★★★★★


 一方、その頃。


 本名・神崎と呼ばれるその男は、港区の夜景を見下ろすタワーマンションの一室で、贅沢なシルクのルームウェアをだらしなく着崩していた。20代後半ほどの若さだが、不健康に青白い顔立ちと、肉厚な唇には常に薄笑いが張り付いている。


 部屋のインテリアはすべて海外の一流デザイナーもので統一され、壁には高価な現代アートが飾られている。彼は高級なレザーチェアに深くもたれかかり、ボルドー産の高価なワインが入ったグラスを揺らしながら、PCモニターの光に照らされたチャット画面を眺めていた。


 彼は自分自身の手を汚すことは決してない。ダークウェブで安く買い叩いたマルウェアを使い、SNSで承認欲求を持て余している若者や、金に困っている人間を甘い言葉で釣り上げ、恐怖で縛り付けて末端のコマとして使い捨てる。それが彼の『ビジネスモデル』だった。自分が絶対的な強者であり、タワーマンションの最上階という神の視点から下界の愚か者たちを弄んでいるという自負。それが神崎という男のアイデンティティだった。


 高校生が一人死んだところで、彼にとっては痛くも痒くもない。むしろ、末端の処理という面倒な後始末の手間が省けた程度にしか思っていなかった。


 画面上のテキストが更新される。


『例の高校生の件、警察動くかもっすよ。母親が騒いでるみたいで』


 神崎は鼻で笑い、片手でキーボードを叩いた。


『問題ない。俺の端末の情報は完全に切り離してある。トカゲの尻尾が何匹捕まろうが知ったことか』

『あのガキ、トラックに轢かれて死んだらしいっすねw』

『勝手に自滅してくれたおかげで、報酬払わずに済んだわ。次のコマを探せ。素直で、親の金が引っ張れそうな馬鹿がいい。どうせ使い捨てだ』


 神崎はワインを一口含み、その芳醇な香りを楽しみながら、椅子の背もたれに体重を預けた。安全な場所から弱者を操り、搾取し、破滅させていく。この絶対的な優位性こそが、彼にとって最高の娯楽だった。


★★★★★★★★★★★


 秋葉原の事務所。


 神崎の打ち込んだ文字列を追う北村の瞳に、底知れぬ冷たい怒りの炎が灯った。


 脳裏に蘇るのは、木村道子の擦り切れた靴。ひび割れた声。息子の本当の姿を知りたいと願った、あの祈るような目。


「……ふざけやがって」


 北村の口から、氷のように冷たい声が漏れた。


 怒りに任せて、今すぐこの場で神崎のPCをクラッシュさせることも、すべてのデータを破壊することも可能だった。しかし、それでは足りない。警察にこのチャットログを渡すだけでも生温い。神崎のような人間は、中途半端な攻撃では必ず弁護士を雇い、法の網の目を潜り抜けて生き延び、再び同じことを繰り返す。


 奴を確実に、社会的に破滅させるためには、決定的な『武器』を揃える下準備が必要だ。


 北村は即座に行動を開始した。神崎に気づかれないよう、トラフィックを最小限に抑えながら、ZのPCのディレクトリを深く潜っていく。そこには、目を覆いたくなるような量の個人情報がリスト化されて保管されていた。パパ活で騙された女子大生、ギャンブルで作った借金を弱みに握られたサラリーマン、そして翔太と同じように闇バイトに手を染めさせられた未成年たち。


 神崎は彼らの人生をただの数字としか見ていない。


 北村は、それらのデータを一つ残らず自身の暗号化ストレージへコピーしていく。末端の実行犯たちへの指示ログ、口座のやり取り、裏帳簿。


 次に、Zが詐欺で集めた金をプールしている仮想通貨のウォレットを見つけ出した。複数の海外取引所とミキシングサービスを経由して資金洗浄が行われている形跡があるが、最終的なプール先は一つのローカル環境に紐づけられていた。セキュリティは堅牢だったが、すでにPC自体の管理者権限を奪っている北村の敵ではない。メモリ上に展開されていた秘密鍵の断片を抽出し、ウォレットのアドレス情報とともに抜き取った。


 残高は、日本円にしておよそ3億円。


 他人の人生をすり潰して絞り出した、血に塗れた汚い金だ。


 すべての証拠と資産情報を手中に収めた北村は、それ以上言葉を重ねることなく、ZのPCから裏帳簿と仮想通貨のウォレットデータを密かに抜き取るためのエンターキーを、静かに押し込んだ。


 プログレスバーが伸び、数秒でデータの抽出が完了する。神崎のPCには一切のアラートも鳴らず、彼は自分が丸裸にされたことに微塵も気づいていない。


★★★★★★★★★★★


 神崎はグラスを傾けようとした手を、不意に止めた。


「……何が起きてる」


 PCのモニターが一瞬、瞬きをするように暗転し、極端に動作が重くなったのだ。神崎の指先が、入力を拒絶するキーボードの上で引きつるように震えた。画面を埋め尽くす警告灯の赤が、その青ざめた顔を容赦なく照らし出す。呼吸が浅くなり、額から冷たい汗が滲み出た。

 ほんの数秒のことだが、システムの奥底で何者かが這い回ったような、生々しい気配。


「誰かが、覗いてる……?」


 だが、急いで立ち上げたセキュリティソフトのログには、何の異常も記録されていない。ネットワークの遮断を試みようとした指が空を切り、やがて彼はゆっくりと息を吐き出した。


「気のせいか……」


 冷や汗を手の甲で拭い、彼は無理に薄笑いを作ってレザーチェアに座り直した。だが、心臓の嫌な動悸はしばらく収まらなかった。


★★★★★★★★★★★


 秋葉原の事務所。


 北村は、神崎の端末との接続を完全に切断した。


 手元のメインモニターに視線の戻す。

 画面には、木村翔太の裏アカウントの管理画面が表示されている。


 警察が動けば、いずれこの裏アカウントの存在にも辿り着くだろう。翔太が「闇バイトに加担しようとしていた」というデジタルタトゥーが、警察の調書や、最悪の場合はメディアの報道として残ってしまうかもしれない。


 息子の尊厳を守り、過去を消去する。それが、北村が引き受けた依頼の本当の形だ。


「……よく頑張ったな」


 北村は誰に言うでもなく小さく呟き、翔太のアカウントの『完全削除』ボタンにカーソルを合わせた。


 マウスをクリックする。


 短い確認プロンプトの後、木村翔太が闇の世界と繋がっていた痕跡は、サーバー上から永遠に消去された。


 これで、彼を脅かしていた過去は完全に整理された。母親の手元には、彼が最後まで家族を守るために抵抗したという、真実の記録だけが残る。


 北村は深く椅子に沈み込み、固く結ばれていた肩の力を抜いた。

 疲労がどっと押し寄せてくる。ソファで寝ている桜子を起こさないよう、静かに息を吐き出した。


 モニターの隅に、先ほど神崎のPCから抜き取った膨大な犯罪の証拠データと、3億円の仮想通貨のウォレット情報が、フォルダの中に静かに眠っている。


 神崎は今この瞬間も、自分が絶対的な強者だと信じて疑わず、次の獲物を探しているだろう。だが、彼の命綱はすでにすべて北村の手の中にある。


 北村の少し長めの前髪の奥で、鋭い瞳が青白いモニターの光を反射した。

 その眼差しは、遺品整理屋のダウナーな男のものではない。かつて警察機構の中で最も恐れられた、冷徹なサイバー捜査官の顔だった。


「一瞬で消してやるよ、お前のすべてを」


 誰もいない深夜の事務所に、北村の静かで、だが確かな殺気を孕んだ宣誓が溶けていく。


 法では裁けない悪意があるなら、闇のルールで葬り去るまでだ。

 木村翔太の魂を弔うための、本当の遺品整理はここから始まる。


 そう決意した時だった。


 ピロリ、と。


 北村のPCから、微かな電子音が鳴った。

 振り返ると、モニターの隅で、別のバックグラウンド解析プロセスが完了を知らせるダイアログを出していた。


 それは、神崎のPCからデータを抜き取った際、北村の目に留まった『ある不可解なファイル』の解析結果だった。


 神崎のPCの、システム領域よりもさらに深い場所に隠されていた、ただ一つの暗号化されたテキストファイル。神崎自身もその存在に気づいていないか、あるいは誰かから預かり、開くこともできずに放置していたものだ。


 北村はマウスを操作し、そのファイルを開いた。


 画面に、解読された文字列が表示される。

 しかし、北村の視線は、その内容よりも、ファイルを暗号化していたアルゴリズムのハッシュ値に釘付けになった。


「……嘘だろ」


 北村の喉から、掠れた声が漏れた。


 画面に表示されたその暗号の構造。独自の配列。異常なまでに洗練された、冷酷な数学の暴力。

 見間違えるはずがなかった。


 それは3年前。


 北村の相棒である安田健太の命を奪った、あの未解決連続殺人事件の犯人が、現場に残していたものと全く同じ暗号ファイルだった。


 モニターに浮かぶその独自の配列を睨みつけたまま、北村の喉がひくりと震えた。3年前、あの血の海に沈んでいた相棒の姿と、その傍らに残されていた暗号コード。脳裏に蘇る悪夢に呼応するように、北村の指先が、キーボードの上で冷たく強張っていった。


 深夜の事務所に、彼の浅い呼吸の音だけが小さく溶けていく。前髪の奥の瞳が、青白い光を浴びて小刻みに震えていた。

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