第1話 パスワードは故人の涙(前編)
秋葉原のメインストリートから外れた、薄暗い路地裏。電子部品を扱うパーツショップの段ボールが山積みにされた雑居ビルの三階に、その事務所はある。
ひび割れたアスファルトには昨晩の雨水が淀み、ネオンの光を鈍く反射している。ビルの入り口に置かれた色褪せた立て看板だけが頼りの、階段を上るたびに軋む音を立てるその建物の奥。ドアには『北村データ復旧サービス』とだけ書かれた、味気ないプラスチックのプレートがぶら下がっている。
室内に充満しているのは、焦げたフラックスのツンとした匂いと、甘ったるいエナジードリンクの香り。
壁の片面を埋め尽くす巨大なサーバーラックからは、冷却ファンの低い唸り声が絶え間なく響いていた。窓には分厚いブラインドが下ろされ、外の喧騒を完全に遮断している。薄暗い部屋の中で、複数のモニターが放つ青白い光だけが、主の輪郭を辛うじて照らし出す。配線が床を這い回り、足の踏み場もないほどに散らかっているが、機材の配置だけは計算し尽くされた機能美を保っていた。
北村拓巳は、キャスター付きのオフィスチェアに深く沈み込み、モニターをぼんやりと見つめていた。
ヨレヨレのグレーのパーカーに、手入れされていない無精髭。三十二歳という年齢以上に酷くくたびれて見える。だが、少し長めの前髪の奥に隠された顔立ちは、驚くほど整っていた。ふとした瞬間に見え隠れする鋭い目元には、かつてエリート街道を歩んでいた者特有の冷徹な知性の名残がある。今はただ気怠げに、画面を流れる文字列を追っているようで、どこも見ていないようにも見えた。
彼の右手には、半分ほど中身の残った缶が握られている。
「ねえボス、そこにあるヒートガン取って」
静寂を破ったのは、部屋の隅にある作業デスクから上がった声だった。
オーバーサイズのMA-1を羽織り、首に派手なヘッドホンをかけた金髪の女――服部桜子が、顕微鏡から顔を上げて手を伸ばす。パッツンと切り揃えられたハイトーンカラーの前髪の下から、負けん気の強い大きな瞳が北村を真っ直ぐに射抜いていた。小顔で手足が長く、ダボついたメンズライクな服を着ていても、隠しきれないスタイルの良さと華やかさがある。御年二十歳。勝手に北村の弟子を名乗ってこの事務所に入り浸っている、ハードウェア修復の天才だ。
北村は無言で椅子のキャスターを蹴り、デスクを滑るように移動すると、足元に転がっていた赤いヒートガンを桜子の手に持たせた。
「サンキュ」
「……基板、焼くなよ」
「誰に言ってんの。私をその辺のジャンク屋と一緒にしないでよね」
桜子は再び顕微鏡に目を落とし、ピンセットとヒートガンを器用に操り始めた。彼女の手元にあるのは、原型を留めないほどにひしゃげたスマートフォンの残骸だ。
亡くなった人間の遺族から依頼を受け、遺されたスマートフォンやPCのロックを解除し、希望に応じてデータを抽出、あるいは完全に消去する。それが今の北村の仕事だった。
当然、持ち込まれる端末が綺麗な状態であることのほうが珍しい。火災、水没、あるいは高所からの落下。桜子の手にあるのも、持ち主が交通事故に遭った際に大破した代物だった。
コンコン、と。
控えめなノックの音が響いたのは、桜子がようやくフラッシュメモリのチップを基板から剥がし終えた時だった。
「開いてます」
北村が手元の缶をデスクに置きながら声をかけると、錆びついたドアがゆっくりと開いた。
入ってきたのは、五十代半ばほどの小柄な女性だった。黒いカーディガンに、地味なグレーのスカート。手には使い古された革のハンドバッグを、縋るように強く握りしめている。
「あの……こちらで、壊れたスマホの中身を見てもらえると伺って……。下の看板を見て、少しでも可能性があるならと」
女性の声は小さく、微かに震えていた。
北村は椅子から立ち上がり、彼女の足元を一瞥した。靴のつま先がボロボロに擦り切れ、微かに泥が跳ねている。手首には、数珠の跡が赤く残っていた。葬儀を終え、納骨までの慌ただしい日々の中、警察や携帯キャリアのショップをたらい回しにされ、最後に藁にもすがる思いで方々を歩き回ってここへ辿り着いたのだろう。
「座ってください」
北村はパイプ椅子を勧めながら、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。キャップを開け、ストローを挿してから女性の前に置く。手が震えている人間は、紙コップではうまく飲めない。冷たい水が喉を通れば、少しは動悸も落ち着くはずだ。
「木村……道子と申します」
「北村です。それで、端末は」
木村は深く頭を下げた後、ハンドバッグの中からジップロックに入った『それ』を取り出した。
画面は粉々にひび割れ、本体がくの字に曲がっている。先ほどまで桜子が格闘していたものより、さらに状態は酷かった。側面には激しい衝撃の痕跡があり、バッテリーは膨張してケースを押し上げている。
「息子の、翔太のものです。二週間前……交差点で、トラックに……」
そこまで言って、木村は口を噤んだ。ストローから水を一口飲み、ゆっくりと呼吸を整える。北村は急かすことなく、ただ静かに待った。室内にかすかな電子の駆動音だけが響く。
「警察は、単純な前方不注意による事故だと言いました。翔太はイヤホンをしていて、信号を無視して交差点に飛び出したと」
「……」
「でも、あの子はそんな無茶をする子じゃありません。あの日、あの子が何を考え、どこへ向かおうとしていたのか。せめて、最後に見ていた景色だけでも知りたいんです。キャリアのショップにも、警察にも持っていきましたが、パスワードも分からないし、ここまで壊れていたら無理だと……」
木村の目が、祈るような光を湛えて北村を見上げた。
北村はジップロック越しのスマートフォンを見下ろした。
「……桜子」
振り返ることなく北村が呼ぶと、後ろで作業していた桜子が、丸椅子を引きずってすぐ近くまで寄ってきた。彼女は無言でジップロックを受け取り、様々な角度から状態を確認する。
「基板は完全に逝ってる。でも、奇跡的にメインメモリのチップ周りはクラックが入ってないみたい。ドナー基板を用意してチップを移植すれば、データへのアクセスはできるかもしれない」
「成功確率は」
「やってみないと分かんない。七割ってとこ」
「十分だ」
北村は木村に向き直り、静かな声で言った。
「物理的な修復には半日かかります。その後、パスワードの解析に入りますが、設定されているセキュリティの強度によっては数日いただくこともあります」
「……開くんでしょうか」
「開けます。ただ、」
北村はそこで一度言葉を切り、木村の目を真っ直ぐに見た。前髪の奥にある鋭い眼光に、木村が僅かに肩をすくめる。
「中に残されたデータが、あなたが見たいものである保証はありません。知りたくなかったこと、消してしまいたかった過去が出てくる可能性もある。それでも、開きますか」
木村は数秒間、北村の目をじっと見つめ返し、やがて静かに頷いた。
「お願いします。あの子が生きていた証なら……どんなものでも、受け止めます」
震える手でハンドバッグから財布を取り出そうとする彼女を、北村は軽く手で制した。
「着手金は要りません。解析が成功し、データをお渡しできた時だけで結構です」
「でも……」
「それがうちのやり方です」
北村の淡々とした口調に、木村はもう一度、今度は少しだけ安堵したように深く頭を下げた。
依頼の手続きを済ませ、木村が事務所を後にすると、北村は再び自分のデスクの前に戻った。木村が座っていたパイプ椅子には、彼女の強い悲しみと疲労の残滓が、重たい空気となって沈殿している。
桜子は既に自分の世界に入っていた。ヘッドホンから漏れるビートの強い音楽に合わせ、首でリズムを取りながら、精密な手つきで大破したスマホの解体に取り掛かっている。
彼女の手元では、細身のピンセットが踊るように動いている。基板上のチップを固定しているアンダーフィル樹脂を、極細のヒートガンで慎重に溶かしていく。三百数十度の熱風。少しでも温度や当てる時間を間違えれば、メモリチップ自体が熱破壊されて終わる。内部のデータが完全に吹き飛ぶシビアな作業だ。彼女は顕微鏡から一度も目を離すことなく、指先に伝わるわずかな熱の変化だけでそのギリギリの境界線を見極めている。手先の震えは一切なく、顕微鏡越しのミクロの世界で、死んだ基板から記憶の心臓部だけを外科手術のように切り出していく。
北村はその横顔を少しだけ見やった後、静寂の中で、再びプルタブを引く鋭い金属音を響かせた。
沈黙の時間が流れる。桜子が作業を進める間、北村は依頼のファイルに目を通し、対象となる『木村翔太』という高校生の基本情報を頭に叩き込んでいた。SNSの公開アカウント、学校の所在地、通学ルート。断片的な情報から、パスワードの糸口になりそうなキーワードをあらかじめ抽出していく。
数時間後。
外がすっかり暗くなり、秋葉原のネオンが窓ガラスを毒々しく彩り始めた頃。
「ボス、上がったよ」
桜子が首を回しながら立ち上がった。彼女の手には、むき出しの緑色の基板からUSBケーブルが伸びた、異様な装置が握られていた。スクラップ同然の端末から剥がしたメモリチップを、同型の生きている基板にはんだ付けして移植したのだ。
「見事だ」
「でしょ? あとはボスの仕事」
桜子はUSBケーブルの端子を、北村のメインPCに接続した。
北村は深く椅子に座り直し、キーボードの上に両手を置いた。
その瞬間、猫背だった背筋が静かに伸びる。焦点の合っていなかった瞳から気怠げな膜が剥がれ落ち、モニターの放つ青白い光を鋭く反射した。キーボードの上で待機する十本の指先は、極限まで張り詰めたピアノの弦のように微かに強張っている。
画面には、端末のパスワード入力画面をエミュレートしたウィンドウが表示されている。
北村の指が、キーボードを滑るように叩き始めた。タタタタタ、という乾いた音が、一定のリズムで部屋に響く。
まずは一般的なパスワード解析ツールを使用し、辞書攻撃と総当たり攻撃を同時に走らせる。通常、個人のスマートフォンであれば、数分から数十分で突破できる。よくある誕生日、記念日、あるいは名前のアナグラム。高校生が設定するレベルのセキュリティなど、彼の自作ツールにかかれば薄紙にも等しい。
画面上に無数の文字列が滝のように流れ落ちていく。北村はそれを瞬き一つせずに見つめていた。
しかし、五分が経過しても、パスワードは解除されなかった。エラーを知らせる赤い文字が、無機質にログを埋め尽くしていく。
「……ん?」
後ろで見ていた桜子が、不思議そうに眉を寄せる。
「六桁の数字ピンコードじゃないの? それならもう解析終わってるはずだけど」
北村は答えない。タイピングの速度をさらに一段階上げた。複数のターミナルウィンドウを立ち上げ、端末の深層ファイルシステムを直接覗き込みにいく。
黒い背景に緑色の文字列が猛スピードで展開される。メモリのダンプデータを解析し、ブートローダーの挙動を確認した北村の指が、ピタリと止まった。
「違うな。英数字記号混じりの、十桁以上の複雑なパスワードが設定されてる。しかも……」
「しかも?」
「ただのロックじゃない」
北村は画面の一点を凝視したまま、低く呟いた。
「五回入力を間違えると、データが自動的にワイプされるスクリプトが組まれている。表向きは通常のロック画面に見せかけておいて、裏で全く別のカスタムOSが走っているんだ」
「マジ? ただの高校生だよね? なんでそんなプロみたいな真似……」
桜子の目が見開かれる。
美しく洗練されたコードの背後から、血の通っていない冷徹なプロフェッショナルの匂いが漂ってくる。
北村は無言のまま、画面の奥に潜む『正体不明の管理者』の気配を感じ取っていた。姿の見えない誰かが、この鉄壁のセキュリティの向こう側から、息を殺してこちらを監視しているかのような、粘りつくような悪意の予感。
少し長めの前髪の奥で、かつてサイバー犯罪対策課でトップエースと呼ばれた男の目が、静かに、だが確かな熱を帯びて細められる。
この鉄壁のセキュリティの奥に、木村翔太は何を隠したのか。あるいは、誰から隠そうとしたのか。
北村の脳裏に、すり減った靴でここを訪れた木村道子の姿がよぎる。息子の本当の姿を知りたいと願った彼女の祈りは、果たしてどんな結末を導くのか。
北村は短く息を吐き出すと、通常の解析ツールをすべて強制終了させた。モニターに一瞬だけ真っ黒なターミナル画面が広がり、すぐに彼自身が独自に組み上げたプロンプトが立ち上がる。
冷却ファンの唸り声だけが響く密室で、本当の解析戦の幕が切って落とされた。




