橙色の布
「袁将軍が、文官と対立せず、彼らを立ててうまく立ち回ればよかったのでしょうか」
碧の問いに、老師は静かに首を横に振る。
「対立せねば、とっくに軍からは逃亡兵が続出していただろう。文官達は前線の兵糧にまで手を出すのだ。上流の水が濁っておっては下流は言わずもがな。袁将軍は国を守る戦いの前に、兵士の命を守るために文官官僚と戦わねばならなかった」
「酷い」
挙句、無惨に処刑された。その方法は、最も苦痛を伴うとされる凌遅刑。少しずつ体の肉を削ぎ落としていく残虐な刑罰である。
「どこかで袁将軍の話を聞いたのか?」
「はい。駐屯地にいる莉莉から聞きました」
「そうだな。西安駐屯地は北方の後方支援の拠点。情報が集まる場所。真実を知らぬ者はおらん」
「……」
「そこまで強い気持ちがあれば、碧はいつか政治に関わることがあるかもしれんな。だが、今のままでは、あの魑魅魍魎が跋扈する世界で泳いでいけん」
「……」
──それは、私が女だから?
碧はこの時代ならば仕方がないと諦めている。だが、老師の考えは違った。
「正義という言葉に惑わされてはいかん。何を為すか。それを実現するためなら、どんな手段を使っても行う強さが必要なのだ。海千山千の化かし合いを生き抜いてきた者ばかり。はっはっは。もっとも、私は、そこから零れ落ちた敗残兵だがな」
「老師が?」
「はっは。碧、正義は大切だ。それよりも、最も為したいたいことを優先するのだ」
「為したいこと。」
──李治世を歴史の過渡期の一人として終わらせたくない。一緒に夢を見たい。新しい世を創りたい。
この世界へ来たとき、碧は、自分に使命があるのだと思っていた。茉莉の纒足を阻止した。それ以降もこの世界に留まっている。実は、自分の運命の意味などないのかもしれないとも碧は考える。
──それなら、したいことをするだけ。
◇
14歳冬。木枯らしの季節が過ぎ、碧は2年ぶりに治世に会った。
雪を抱えたどんよりとした雲が西安の街を覆い、通り沿いの店先からは、ふわふわと湯気を立てる饅頭の匂いが漂う。
「碧碧、大人っぽくなってる」
彼はそう言った。
「そ?」
紫苑、唐茉莉。2つの大きな別れがあったことは、碧を大人に変えていた。
碧がこの世界に来たときも現代の家族や友達との別れがあったのだが、周りがあまりに目まぐるしく新鮮で、寂しさを感じる暇がなかった。そして、そのときの碧は「去る側」だったのだろう。
小さなときと同じように、医館の外の石垣に並んで腰掛ける。治世の成長した横顔は日に焼け、体はすっかり大きく、声は低く変わっている。それでも、初めて会って雪遊びをしたときと同じ笑顔が、そこにあった。
「去年、会えなかったもんな」
「だね。蘭蘭とも会えなくて、すっごい残念だった。ね、蘭蘭」
碧が話しかけると、狼の蘭が鼻をすぴすぴ鳴らす。目の前の蘭は、とても大きくてかっこいい。碧は、お守りにしている蘭の乳歯を取り出し、今の大きさと比べてみた。今の牙は乳歯の4倍ほどに見える。治世が笑った。
「はは。お前、でかくなったんだな。ぜんぜん大きさちげーのな」
碧は、治世の頬、袖口から覗く手首に視線をやる。あの、白米を取りに台所へ走った年とは全く違う。
「治世、今年はお米、穫れた?」
この夏、街を襲った激しい台風は、茉莉の家が没落するほどの爪痕を残した。田畑は大打撃だったかもしれないと案じたのだ。
「なんとか大丈夫だった」
「よかった」
ふり、ふり、ふり、ふり。
碧の安堵した声に蘭の尻尾がゆっくり反応した。それに気づいた治世は蘭の体をもふもふし、「いい子だね」とでも言うように優しい目を向ける。
遠くから、荷馬車の車輪の音と物売りの声がかすかに響いていた。
碧は、綺麗に折りたたんだ1枚の橙色の布を出した。首にかけて汗を拭くような大ぶりの布だった。
「これね、よかったら使って?」
「え、ありがと」
受け取りながら、治世は、にぱっと破顔。
「私が染めたの。柿渋で」
「いい色」
治世はさっそく布を広げると、自分の首元へと巻きつけた。鮮やかな橙色が、冬の薄暗い空気の中で、彼の顔周りを明るく彩る。
柿は事事如意、「全て思い通りに行く」という縁起物。
碧は知っている。治世が、これから大きな志を抱いて国家を覆す存在になることを。それにはきっと、多くの困難がつきまとう。それでも大事を為し遂げてほしいと切に願った。
◇
「男同士の話をしよう」
呉将軍は息子、呉三魁と向き合うことにした。この辺りの真面目さは親子なのだろう。
駐屯地の呉将軍の居室、テーブルの上にはランタンがあり、壁に大きな影を2つ作っていた。
「はい。父上」
「好いておる女性に、自分で結婚を申し込みなさい」
「よいのですか?」
「彼女が承知すれば結婚を許そう。但し、自分が山海関へ行くこと、そこは北の最前線であること、同行しないとしても王都に住まねばならないこと、ひょっとすると、二度と両親や友達に会えないかもしれないことを話してから、返事を聞きなさい」
「……」
そこで呉三魁は黙った。彼は姿勢を正したまま、膝に置いた両拳に視線を落とす。
「娶るとは、そういうことなのだ。西安にいれば、家族とも友達とも会える。しかし、呉家に嫁ぐとなれば、今までの暮らしを捨てねばならん」
「しかし、もう輜重隊の仕事をしなくても暮らせるようになります」
「ふむ。輜重隊の仕事は大変だ。だが、そこまで辛そうに見えるか? 確かに彼女が今まで過ごしてきた環境を考えれば、今の暮らしぶりは全く違うだろうし、呉家の嫁になれば元のように、働かず良い服を着ていい物を食べることができるだろう。それは彼女の望みなのだろうか」
「……」
父親に言われ、呉三魁は九天玄女の笑顔を思い出す。炊事場でいつも彼女は楽しそうなのだ。
「娶るなら、その女性を幸せにし、その女性の家族を受け入れなければならん」
突きつけられる障害に、呉三魁は、自分が諭されているのだと分かる。
「父上は、反対なのですか?」
「そうではない。どちらかといえば賛成だ。彼女と結婚すれば、お前は必ず幸せになれる。ただ、三魁、お前が相手を幸せにできるかだ。まず、結婚したいのだと伝えなさい」
「軍規はいいのですか?」
「女を連れ込んでふしだらなことをしてはならんという意味だ。全く違う」
「はい」
──頑張るのだぞ、息子よ!
呉将軍は心の中でエールを送った。
喜び勇んだ呉三魁だったが、実行に移すのは至難の技。姿を見ただけで心臓が体を突き破りそうなほど早鐘を打ち、気持ちを伝え「誰ですか?」となる想像をして足がすくむ。彼は、自分の情けなさに失望した。
夜、一人でいるときに練習をしてみた。
──まず呼び出す。
──それから名乗る。
──「結婚したい」と告げる。
──そして、自分と結婚した場合の説明をして、それでもよければ結婚してほしいと言う。
シミュレーションはばっちり。結婚という言葉に恥ずかしそうに頬を染める茉莉を想像し、呉三魁は口元を緩めるのだった。
早朝、まだ暗いうちから駐屯地の朝食準備は始まる。夜明前の冷気は肌を刺すように冷たい。兵舎の窓はどれもまだ暗く静まり返っているが、遠くの炊事場だけが、ぼんやりと琥珀色の灯りを灯している。
雪の中、炊事場へ向かった呉三魁は茉莉の前に姿を表した。昼間では人目が多い。彼女のためにも、まだ皆が起きていない時間がいいだろうと考えたのだ。
暗がりで待っていた呉三魁には茉莉がはっきり見えていたが、まだ半分起きていない茉莉には、人がいることしか分かっていない。茉莉は、いつものように挨拶をした。
「おはようございます。粟、洗います」
朝は雑穀と少しの野菜が入った粥である。
「おはようございます」
反射的に挨拶を返した呉三魁。なぜか粟の入ったザルを手渡され、なんとなく見よう見まねで一緒に洗った。ついでに野菜も一緒に洗った。うっすらと夜が開け始め、人の顔が見える明るさになる。そこで初めて、茉莉は共に作業している人が初対面であることに気づいた。
「私、唐茉莉です。よろしくお願いします。輜重隊に入ったばかりの方ですか?」
茉莉はてっきり、同じ担当の者だと思ってしまった。




