終わりの始まりPART.1
西安駐屯地は、北方の国境警備における後方支援のための最重要拠点である。多くの物資が集まり、北方の前線へと運ばれて行く。そのため、自然と情報も集まる。トップはトップ同士で、下っ端は下っ端同士で、絶えず噂が行き交う。
茉莉はそこで袁将軍という名を耳にした。
「袁将軍亡き後、北の国境はボロボロだってよ」
「それ誰ですか?」
茉莉は呉将軍の存在さえ、この駐屯地に来て初めて知った。良家の子女が通う私塾では、堅苦しい経書や教養は習っても世事には触れない。ましてや戦の情勢など、話題にすら昇らない。
袁将軍はかつて北方を守っていた救国の英雄だったという。しかし、敵国である北方民族と内通した罪で処刑された。それは今から8年も前のこと。この事件を境に、北方の防衛力は瓦解したと言われている。今なお武将たちの間では、彼は絶対的な英雄として慕われ続けているようだった。
「って人がいるんだって」
駐屯地へ遊びにきた碧に、茉莉は聞いたばかりの噂話を披露した。
西安の街は3km×4kmほどの長方形の城壁の中にすっぽり収まっている。駐屯地はその城壁内の北東に位置しており、気軽に行き来できる程度の距離にある。
茉莉から話を聞いた碧は、現代の歴史の知識を引っ張り出す。
──それ、冤罪で処刑された人じゃん。
現代では、「袁将軍が処刑されていなかったら大盟帝国はもう少し長続きしただろう」と言われているほどの名将軍。しかし、彼の冤罪が明るみになるのは、大盟帝国が滅亡してから150年後。現代の誰もが「あれは敵国の罠だった」と知っていることであっても、この時代の大盟帝国において、事実は影で囁かれている噂に過ぎない。
碧は老師の元へ向かった。
碧がこの世界に転生したのは、7歳の秋。
袁将軍が処刑されたのはいつだったのか。現代人しか知り得ないことを知りながら、うっかり、冤罪を野放しにしたのかもしれない。そんな焦燥感が碧を襲う。
「老師、老師! 老師!」
「どうした。碧。大きな声を出さずとも聞こえとる」
庵の奥から老師が現れ、碧を中へ招く。碧は歩きながらも質問する。
「袁将軍はいつ処刑されたのですかっ」
「落ち着きなさい。もう亡くなった人の話だ。慌てることはない。まずお茶を淹れよう」
老師は、息を切らして焦っている碧の様子を不思議に思った。老師にとって、碧は、今まで接したどの人間とも違う。出会ったときから妙に大人びていた。利発な子供というのは、往々にそういった傾向がある。しかし、それともどこか違う。大盟帝国の初代皇帝にこだわるのはまだ分かる。政治に関する探究心は異常だった。官僚のトップになりたいのか、はたまた皇帝にでもなるつもりなのかと尋ねたいほど具体的な組織を知りたがる。構成、人員、俸給、その他諸々。
そして今度は、袁将軍。しかも、いつ処刑されたかと問う。8年も前のことを。
「崇和3年の9月だ。日付までは覚えておらん」
──私がこの世界に来る前。
と碧は思い出す。彼女が転生したのは、崇和3年の雪が降る少し前。そのころは、カレンダーが見当たらず「西暦」も通じず、その日が何年何月何日なのかを知る術が分からなかった。何よりも、世間のことなど気にせず、走り回ってただ遊んでいた。
「内通していたというのは、しっかり調べた上でのことなのですか?」
「しっかり調べるとは?」
「袁将軍は、王都で敵と戦って撃退したはずです。それなのに、どうして敵に協力したなどと言われたのですか」
「それは、政治的な問題だ」
「政治的。」
老師はそこで、ゆっくりと小さな器の茶を飲み干し、もう一杯、自分の器に注いだ。
「袁将軍は官僚に敵が多かった。きっぱりすっぱり口に出すタイプだった。武官や兵士達からは絶大な人気があり、武官の代表として文官に言いにくいことをずばずば言っていた。そしてだ。内通について報告したのは、皇帝陛下の近くに仕える宦官達」
「……」
宦官については歴史の授業で習った。敵が、捕えた大盟国の宦官の前で、
『袁将軍が関門を開けてくれた。おかげで攻め入ることができたな』
『こら、これ、滅多なことを口に出すな。誰に聞かれるかわからん』
と囁き合い、その後、わざと警備を緩めて宦官に逃げるチャンスを与えたのだ。
「宦官達は命からがら王都へ辿りつき、皇帝陛下に報告した」
「王都を守るために命懸けで戦ったことは、なぜ無視されたのですか?」
「命懸けに見えた。しかし死んでおらん」
「え」
「激戦の最前列にいながら。袁将軍は生きていたのだ。確かに袁将軍の鎧には何本もの矢が刺さっていた。怪我も負った。多くの兵士が勇猛果敢に戦った姿を見ている」
「だったら!」
「将軍は、戦いの途中『疲れた兵士達を城壁の中で休ませてやって欲しい』と城門を開けるよう要求した。それが不信感を呼んだことは事実」
「当たり前のことじゃないですか。砲弾や矢が飛んでくる場所で休めません」
袁将軍が冤罪だと知っている碧は憤る。
「開けられん」
「どうしてですか」
「王都が攻められらのは、260年間でたった3回しかなかった。180年前、80年前、10年前。そして4回目、袁将軍が戦ったとき。万が一門を開けて、そのタイミングで敵が雪崩れ込んできたらどうする。しかも、宦官からの内通の知らせの直後。袁将軍が率いていた兵は1万。1万の兵であっても、袁将軍が率いる関寧鉄騎は何度も北方民族を蹴散らしてきた最強の軍隊だ。クーデターが起こる可能性があった。更に敵は10万」
「10万?!」
その数に、碧は驚愕する。
「大盟帝国の歴史に残る危機だった」
その危機を救ったのが袁将軍だったのだ。
先ほど、老師は「政治的」と述べた。冤罪の事実を知っている碧はごくりと唾を嚥下する。
「老師は、どうお考えですか? 袁将軍は逆賊だと思いますか?」
「まさか」
「え」
「敵が攻めてきたのは北西から。長城の見張りの兵は一斉に敵の来襲を告げる狼煙を上げた。しかし、袁将軍が守っているのは東の海辺、山海関。北方民族が山海関を通っていないことは明らかだよ」
その明快な発言に困惑し、碧は顔を歪める。
「ではなぜ。政治的といってもほどがあります。長城を突破した場所は山海関から何百kmも離れています。民衆の前で公開処刑されたのですよね?」
思わず歴史の授業で習ったことを口に出してしまった。
「うむ。酷い。惨い。……。まず、民衆のほとんどは、生涯、王都から出ない。山海関と聞いても、場所など分からん。どっか北の方の関としか認識しておらん。何百kmという距離がどれだけ遠いのか、馬でいく日かかるのか。敵は袁将軍が手強いからこそ、わざわざ迂回して北西の長城の間を縫うようにして攻めてきたというのに。民衆には理解できんのだ」
老師は長い顎髭を撫でる。
「では皇帝陛下も分かっていらっしゃらないのですか?」
「それはない。皇帝陛下には歪んだ情報が伝わる。北方民族は、袁将軍が開けた山海関を通って攻め入ったと奏上されているだろう」
「北西の長城で見張りをして狼煙を上げた兵士達は事実を分かっているはずです!」
「そうだ。分かっている。だが、辺境の見張りの一兵卒の言葉など、王宮の奥にいる皇帝陛下には届かん」
「そんな」
「これが恐ろしいところなのだ」
「?」
「北方民族が北西から来たのは北方を守っている軍の者達は知っている。最強の精鋭部隊、関寧鉄騎は軍人の憧れ。それを作った袁将軍はカリスマだった」
碧は、老師の言わんとすること察し、背筋に冷たいものが走った。
「……恐ろしいですね」
軍人は皆、袁将軍が冤罪だと知っている。官僚達、文官達の茶番で皇帝に真実が届かず、処刑が実行された。これでは、命を賭けて国を守るべき軍が皇帝を信頼できない。すでに軍の心は皇帝から離れている。
「誠に。忠臣が奸臣によって殺されたのだ」




