駆けろ
「こちらが、元呉将軍の筆跡であれば、本物でしょう」
とNo.3。告訴状には、元呉将軍の署名などない。No.3はその踊るような癖字を知っていたのだ。
「元呉将軍、ですか?」
驚いたのは法務大臣代理である。告訴状は一般的には、役所に詰める役人が代筆する。事件のほとんどは市井で起こり、民衆の多くは文字を知らないからである。
「元呉将軍が将軍でいらっしゃったころ、業務で書状のやり取りをしました。こちら、元呉将軍の文字です」
きっぱりとした言い方に、治世は、ぱっと顔を明るくさせる。
「では!」
しかし、即、No.3に遮られた。
「しっかりと照合しなければなりません。軍部に退役のときの書状や署名があるでしょう。確認します」
No.3はきびきびと下っ端官僚を呼び、抜群の記憶力を元に指示を出し、軍部へ走らせた。
「はっきりと記憶はありませんが、13年前の冬だったと思います。その辺りの退役の記録を探してみてください。でなくとも、元呉将軍の文字があれば、どんなものでも構いません」
そして、治世の焦りを感じ取る。死刑を中止にするには、どんな書類作成が必要か、どう持っていけば時間が稼げるのかをNo.3は逡巡する。
従来など関係ない。前例がないのだから。承諾を得るべき皇帝もいない。
──自分が考えちゃっていーんじゃん。かっこいい。議長も冤罪もパイオニア。
No.3は、あくまで深刻に眉間にシワを刻みながらも、心の中で悦に入る。彼は、窓が作る影の角度にも視線を走らせる。時刻を意識しているのだ。死刑が執行される時刻は決まっている。正午の少し前。彼は、いつも太陽が作る窓枠の影の角度で時刻を推測していた。
調書を照合し、議会で検討できる書式でしたため、後日検討すると約束しようと目論む。その書類を作った後、大盟帝国で常に全ての行事において最優先された皇帝の勅令と同じ形式の文を書く。
──なーに。見物人だらけで処刑場に辿り着けはしまい。やっぱ天才!
従来、勅令を届けるのは宦官の中でも皇帝の側近だった。宦官の制服というだけで帽子にも服の形にも特徴がある。側近ともなれば、一目でそれと分かる雅な模様と生地の衣服である。だから人々が道を開けた。そうでなければ、最重要の布告として取り沙汰などされない。
No.3は法務大臣代理に書状を書かせることにした。自分が書けば早いのだが、現在は法とは無関係の議長職。
「お願いします。法務大臣代理殿」
自ら紙と筆を用意する。が、法務大臣代理は渋る。
「しかし、裁判が間違っているなどという前例を作っていいのですか? 270年、そのようなことはありませんでした。法を司る立場にいる者が、間違っていたことを認めれば、今後、人々は何を信じるのですか。せめて、呉将軍の筆跡が分かるまで」
「人々が信じるのは真実でなければなりません。書状は見切り発車ではありません。官印のない仮のものです。時間がないのです。将軍の文字を確認してから文面を考えていては間に合いません」
と、No.3は治世への忖度を試みる。
法務大臣代理は、書状を書き始めた。前例のない、文面が検討されながら慎重に紡がれていく。
窓枠が影の角度が変わりつつある中、3つの書状が用意された。調書の告訴状と初審の内容が一致していないと事実を述べる書状、定例議会で議題にするための書状、死刑執行を中止する書状。省庁の威信を示す仰々しい官印はまだである。
そこへやっと、元呉将軍の文字が届いた。踊るような癖字。
「間違いありませんな。引退なさった呉将軍が書かれた告訴状です」
法務大臣代理は、3つの書状に丁寧に官印を捺した。
「ありがとうございます!」
治世は、死刑執行を中止する書状を竹筒に納め、駆け出す。
「急いでください」とNo.3。無表情の法務大臣代理。2人はそれぞれの胸中に異なる思いを抱いていた。法務大臣代理は、今回の書状が元で失職の可能性に怯えていたし、No.3は金脈を手に入れたも同然と満足していた。
「恐らく間に合いません。見物人で馬など通れません。人はもっと」
No.3は、それが吉か凶か分からない抑揚で一言呟く。まだ正午にはなっていないが、確実に近づいている。
官庁は広大な宮廷の南にある。そして、崇和帝が首を吊り、碧の処刑会場となっている山は、宮廷のすぐ北にそびえている。建物の門を出て、治世は驚く。人々でごった返しているのだ。まるでお祭りのときのように宮廷前広場に人々が大勢いる。なんとか広場は馬で通ることができた。
処刑会場である山は、大盟帝国時代、皇族の他には限られた者しか入ることができなかったプライベート空間である。そのような空間に、今回のみ、庶民が入ることが許されるのだ。しかも崇和帝が崩御した特別な場所である。誰もが、まず禁足地に対して興味津々だった。
官庁街を囲む城壁の外には更に膨大な数の人が溢れていた。馬に背から見下ろす視線の先、道はぎっしりと人で埋まっている。李碧の銃殺の見学である。処刑は娯楽。仲間の号令によって死刑が実行される、プレミア銃殺処刑。
「……やめてくれよ……」
治世の瞳に涙の幕が張る。道にいる全ての人を馬で踏み殺してでも、一刻も早く山へ辿り着きたかった。景色の全てが色を無くし、灰色の中で灰色の人々が蠢くようにぼやけて見えていた。
そのモノクロームの中、眩しいほどの橙色が浮いた。
「李碧はな、均田免賦の神様なんだ!」
「李碧、李碧、李碧」
「どけどけどけ。李碧を助けるぞ」
「李碧、李碧、李碧」
治世は首に巻いていた黄土色の巾で涙と鼻水の拭う。目を凝らす。人々の中に点在する橙色の巾。物見遊山の者だけではない。この処刑を、別の意図をもって見る者が確実に存在していた。治世は首にあった巾を頭に被った。何年も前、碧からもらった橙色の巾。色褪せ、もはや鮮やかさのないそれに、どれだけ多くの者が導かれたのか。
まだ比較的に人が少ない路地を選び、治世はなんとか宮廷の西にある御苑の南入り口に辿り着く。そこは、遥か昔から皇帝の庭である。高い塀に囲まれた宮廷がすっぽり入ってあまりある広さがあり、中を突っ切れば、宮廷の北の山の西側に出ることができる。
御苑の南の門には門番の兵士がいる。治世が、腰佩を取り出して掲げるまでもなく、兵士はその顔を知っていた。兵士にとっては英雄なのだ。大盟帝国時代には滞っていた俸給が支払われ、薄い雑穀粥が白米の粥になり、今は饅頭も支給される。錆びていた武器が回収され、新しい銃が何丁も届く予定になっていた。
「庭の中を通れますか?」
「はっ」
兵士は鍵を開け、両開きの扉の片側を開ける。
「ありがとうございます」
再び門が閉じられる。それを待たず、治世は馬の腹を蹴る。既に太陽は真上を目指している。広大な御苑は手入れされ、左手に大きな池が静かに佇む。そこには奇怪なほどの富と権力横たわる。人々から吸い上げた夥しいほどの血と汗と涙。治世は、栄華を誇った権力を切り裂くように、馬を北に走らせた。
──碧。
好きで、好きで、好きで、たまらなかった。ただ生きてほしい。それ以外の望みなどなかった。
高い塀の向こう、右手前方に目指す山が姿を表す。処刑場所は山の南側。治世は、そこはきっと人で身動きできない状態だろうと判断し、通りすぎる。山は恐らく立入禁止区域になっている。見物人が流れ弾に被弾するのを防ぐために。
治世は、山の西側付近にある門を内側から叩いた。
「開けてください! 開けてください! 李治世です。開けてください!」
声は門の外の喧騒にかき消されそうになる。それでもなんとか門の外で警備をしている兵士に声が届く。
「誰だ」
「李治世です」
扉が開くと、治世は警備に立つ兵士に腰佩を見せる。馬で駆ける。そこは既に立ち入り禁止区域。人はいない。そこから先、仕切りや塀はなく、治世は真っ直ぐに山の麓を目指した。
「李治世様! 危険です」
「流れ弾が来るかもしれません」
山の西側まで行くと、顔見知りの兵士達が慌てて駆け寄ってきた。周囲には、警備の兵士以外人はいない。
「死刑を中止しに来ました」
「「!」」




