一縷の望み
深刻な面持ちの治世に、ちょび髭役人は、声をかける。
「兄さん。今夜、ちょっとだけ、房に入れてやるよ」
最期の夜のほんのひとときくらい、恋人同士を一緒に過ごさせてやりたいと、ちょび髭役人は思った。房の木の格子は太く、キスすら叶わない。
ちょび髭役人は提案したのだが、治世は別のことに思いを巡らしていた。突然、ぎゅっと役人の手を両手で握りしめる。
「ありがとうございますっ」
そしてそのまま、治世は、役人を置き去りにして役所を出て行ってしまった。役人は「恋人の房へ入れるはからい」に関しての言葉と受け取ったのだが、治世は、ただ、唐将校の話をしてくれたことを感謝しただけだった。
治世は、もちろん、碧がどの屋敷で事件を起こした確認してある。故に、唐将校がいるであろう呉将軍の帝都の屋敷に馬を走らせた。
──碧、助けるから!
碧の処刑は翌日。どれだけ小さな可能性でも、処刑中止に繋がることがあるのであれば──治世は、藁にもすがる思いだった。
日が落ちる。呉将軍の帝都の屋敷は、城門の外。
鐙に立ち、馬の腹に馬鞭を振るって治世は疾駆する。風を切り、人を避け、土埃を巻き上げる。
北の城門。検問の役人とは顔見知りである。橙巾党幹部である身分証を掲げ、「李治世です。通ります!」今まさに閉じようとする城門を駆け抜ける。
ぎぃぃぃぃ
治世が通る間も閉まり続けた城門は、蝶番の響きが止むと同時にがたりと金属枠が噛み合う音を立てて閉ざされた。
◇
1枚の書状を前に、橙巾党幹部のメンバーは項垂れていた。李碧、死刑執行の号令依頼だった。
今や橙巾党幹部のほとんどの者が、簡単な文字を読める。
「誰や、こんなこと思いつくやつ」
依頼書には、別紙が添えられ、「一国が始まったばかりだから責任を持って宜しく」的なことが丁寧に仰々しく書かれている。
橙巾党幹部は治世を助けた10人の元駅卒仲間と碧の12人と、幹部なのかただの橙巾党なのかグレーな存在の牛金星から成る。帝都へ来なかったじーさん、西安へ帰ったダーリン、ペスト隔離中の牛金星、囚人の碧以外から考えることになる。候補者は9人。
治世は、その場にいなかった。
「どうにもできんのか」
「娘娘を死なせるなら、オレらがやっとることはなんや」
「死なせる? こんなん『殺す』や」
「治世だけにはやらせられん」
財政部門で毎日長時間、碧と接していたおじさん3人は、無言だった。
「なあ、この紙が来るまで、オレら、娘娘のこと、軽く考えすぎと違うか」
「確かに仕事はとんでもなく忙しい。いつの間にか、娘娘がおらんでも仕事が回っとる。でも、なんか違わん?」
「なぁ、治世を助けたのが始まりや。法を破って山ん中におったんやぞ。それがなんで。なんで、法を守らんなん側におる。誰が決めた」
「それは、娘娘」
法治国家と言ったのは碧である。牛金星以外、そんな言葉があることさえ知らなかった。
治世を助けるために法を破って脱獄を企んだのも碧。山から出て西安の藩王を降伏させようと言ったのも碧だった。
思い返せば、あれもこれも碧が言ったことだと誰もが気づく。
「オレらが言ったことは、治世を助けたい、田んぼや畑が取られた、飢えたくない、税がキツイ。実行したのは娘娘やった」
「娘娘が反対したこともあるぞ。この帝都攻め」
どんよりと重い空気の中、牛金星がやってきた。
武英殿がざわついている。「ペストは?」と固まっている者もいる。緊急事態と判断した査察部の1人が、死刑執行の号令依頼についてを牛金星に知らせたのだ。
「私がやります」
橙巾党幹部の輪の外から、牛金星が宣言する。
皆が一斉に、離れた場所にいる牛金星を見た。
「牛さんだって、嫌に決まっとる。牛さんは、娘娘を尋ねて、わざわざ大南国から西安まできたのに」
「私と同じことができる人間は、官僚の中にいっぱいいます。でも、みなさんのように民衆の声を届ける人は、今のシステムではいないんです。今、これ以上欠けてはダメです」
「牛さんの代わりもおらん」
「ペストは?」
「風邪だったことにします」
冷静な者が1人、心配する。
「碧は人気がある。どっかから逆恨みを買うぞ。それに、後々、裏切り者のレッテルが貼られる」
すると、牛金星は毅然と仁王立ちした。
「だからこそです。他の方がそれをやってはダメなんです。民衆の声を届けられなくなる」
武英殿の誰もが手を止め、ことの成り行きを見守っている。
誰もが碧の存在を肯定しているが、牛金星だけは違った。あまりに軍事力に重きを置く考え方を危険視している。碧が治世を操り、軍国主義に走るシナリオを払拭できずにいる。だからといって、殺していいとは、もちろん考えていない。
牛金星の頭の中には、元藩王である藩ちゃんの言葉が響いていた。
『運命なのだ。抗いようのない』
牛金星は碧の判決を覆そうと苦心してきた。調書を書き写してもらい、初審の資料を取り寄せ、様々なことを検討した。しかし、書類には、一切の不備もなかった。官庁は書類で動く。
◇
夕暮れ、まだ薄明るい空に星が光り始める。
呉将軍の屋敷からは、鶏肉を焼く匂いがしていた。治世は閉じられていた門を叩き、使用人に案内されて中へ通される。名乗ると、使用人は「貴方様が!」と目を輝かせて家の者を呼びに行く。治世が部屋に通されるとき、廊下には他の使用人達が治世を見にきた。李治世の名は、知れ渡っているのだった。
すぐに、背の高い、昼間、裁判所で叫んでいた女性が出てきた。
「李治世と申します」
名乗り、昼間の「告訴状の内容と罪状が違う」とはどういうことかを訊く。
「調書の中の告訴状がすり替えられていたんです」
茉莉は、一旦すり替わった間の告訴状をもとに初審の罪状書が作られ、裁判所に渡っていることを知らせる。そして、一緒に投獄された仲間の証言によれば、碧が斬った男は殺されたのだと。
「今は元の告訴状に戻っています。その調書は役所にあります。いろいろ訴えても、女だから聞き入れてもらえないんです。それだけじゃなく、政治的なものもあるのでしょう」
「分かりました。ありがとうございます!」
すぐさま治世は、帝都を守る北門へ行く。が、日の入り後。もちろん閉じている。この門が開けられる例外を作ることは許されない。帝都の民を守る砦なのだ。治世は北門近くの宿で朝を待った。
夜明と共に帝都へ入り、役所を目指す。身分証の腰牌を掲げ、調書を見る。文字はまだ半分ほどしか読めないが、「呉」「李碧」「告訴状」を確認。
「この調書を借してください。橙巾党の李治世です」
既に腰牌の名前を見た瞬間から、役人達も兵士達も姿勢を正している。毎日のように牢を訪れていた若者が、官僚の上に立つ橙巾党幹部だと、誰も思っていなかったのだ。
「はいっ」
今や橙巾党幹部の立ち位置は、皇帝に匹敵するのである。
死刑執行を止めなければならない。治世は調書の冊子を持ち、法務省、法務大臣代理の執務室へ行った。権力迎合の官僚の世界である。治世の「李碧は冤罪である」という主張は、即刻、聞き入れられると考えていた。
しかし。
多くの官僚達が登庁しているというのに、法務大臣代理はなかなか現れない。
「今日は休みなんですか? であれば、他の方に」
「申し訳ありません。上の者ほど登庁が遅いのです。習わしのようなものです。しばしお待ちを。すでに法務大臣の代理として法務大臣の職務を行なっているので、その代理となると、決裁できる者がおりません」
治世は執務室の真ん前で、待った。
治世が1時間以上待ち、官僚達が活気に満ちて職務に励んでいるころ、やっと法務大臣代理が姿を現す。
治世は駆け寄った。
「おはようございます。本日行われる李碧の処刑に関して、重要なことが分かりました。彼女は冤罪です」
突然のことに、法務大臣代理は面食らう。名前は分かっている。先ほど、官庁の入口で「李治世様がお待ちです」と伝えられた。もちろん、李治世が橙巾党の幹部であること、一国軍の重鎮であることは知っていた。
「冤罪でございますか?」
「はい」
治世は、告訴状には6人の強盗が押し入ったことになっているが、李碧の処刑の理由は誤って一般人を斬ったことであると説明した。




