茉莉、駐屯地へ行く
不運は重なる。
その夏、茉莉の家が没落した。
唐家はいくつもの布荘(布屋)を営む西安指折りの大商家だった。しかし、大型の台風がもたらした未曾有の洪水が、その繁栄を押し流した。低地に並ぶ主力倉庫が浸水し、高級布地の大半が泥水により売り物にならなくなった。一家は資産を整理して、小さな店1軒で布荘の再スタートを切った。
茉莉の父親は豪快な男で「すっごい金持ちの大商人が、ただの商人になっただけだ」と笑い飛ばした。その通りなのだが、夜も寝ず、借金の補填や後始末に奔走していることは、誰もが分かっていた。
使用人がいなくなった家で、家族水入らず、食卓を囲む。そこで父親は、いつになく真剣な顔で切り出した。
「莉莉、嫁に行け」
「はあああ?!」
茉莉にとっては青天の霹靂。
父親は続けた。
「お前は誰よりも飯を食う。金がかかる。食い扶持を減らしたい」
確かに茉莉は大食漢。姉もそこそこ大食いだが、既に嫁に行っている。歳の離れた弟は、まだ茉莉の半分も食べない。
家計が苦しいのなら、家族は協力しなければならない。茉莉は言った。
「私塾を辞めるよ」
意を決した言葉は、軽く流された。
「当たり前だ。いつまで通っとるんだ。もう覚えることなどないだろ」
確かに、教科書の内容ならば、10歳のときに既に暗記してしまった。本人に記憶がないだけで、転生者の茉莉は、現代の進学校に通う頭脳スペックを持っている。
「私塾側だって、お前達には困ってるんだ。教えることがないのに居座って」
「達」には当然、碧と、今はいない苑が含まれている。
「嫁は嫌!」
そこで母親が絶妙なパスを出す。
「莉莉、もしも優しくて理解のある方なら、今まで通り私塾へ通わせてくれるわ」
残念ながら、そのアシストは父親へのものだった。
「家の仕事手伝うよ」
茉莉は食い下がった。
「家の仕事を手伝ってもらったところで、収入の足しにはならん。金というのはな、外から自分のとこに入れるもんだ。それから出ていく分を減らす」
父親は「出ていく分を減らす」というところで、びしっと茉莉を見据える。
「嫁に行くのは絶対に嫌!」
茉莉は家を飛び出し、碧のところへ走った。両親は「どーせ碧碧んとこへ行ったんだろう」と分かっているので心配はしない。
豪快な父親が、あえて「食い扶持」などと意地の悪い言い方をしたのは、彼なりの不器用な親心だった。このまま店が傾けば、茉莉に辛い思いをさせてしまう。だからこそ、愛する娘だけでも早く、生活の安定した豊かな家へ送り出してやりたい。それだけが、いまの父親にできる精いっぱいの責任の取り方だったのだ。
茉莉の家が大変な状況にあることに、碧は深く心を痛めていた。しかし、私塾にも通い続けているし、当の茉莉本人に悲壮感はまるでない。茉莉は感情が顔に出るタイプ。なので、本当に生活のレベルが落ちたことに対して凹んでいないのだろう、と碧は楽観視している。
ダン!
拳がテーブルを叩く。
「嫁とかマジであり得ないんだけど」
碧の前で、茉莉は怒り心頭だった。
「うちらくらいの歳だったら、そろそろ嫁に行くじゃん」
「嫌。絶対嫌」
「まさか、恋愛したいとか考えてないよね。この時代、それこそあり得ないから」
碧は思わず現代人の感覚を交えた本音を漏らす。
「この時代?」
「んーっと、とにかく。若い方がいい条件なんじゃない? いい話あるよ」
「何、そのいい話って。キモいじゃん」
「キモい?」
そこで、茉莉は懐から小さな冊子を出してテーブルに叩きつけた。
「なにこれ」
と碧はそれを手に取る。
「今日、姉様から渡された」
「お姉さん、帰ってたの?」
「米とかいっぱい持ってきてくれた。ついでにこれ、渡された」
碧は手の中の冊子を開き、おおっと目を見開く。裸の男女の絡み合いが描かれている。
「え、莉莉、知らなかったの?」
情報過多の現代にいた碧は当然、男女のあれこれを知っていた。いつ知ったのかも忘れるほど幼いころ、ネットや本で通り過ぎていた常識だった。
「はあ? 碧碧、知ってたの?!」
碧はうっかりしていた。知らないふりをするべきだった。閨房教育など受けていないのだから。
「えーっと、それは。ほら、医師の娘だから」
となんとか誤魔化す。
「汚くない? だって、オシッコす……」
碧は慌てて、近くの皿にあったマーラーカオ(中国のカステラ)を茉莉の口に突っ込んだ。
「言わなくていい」
が、茉莉は突っ込まれたマーラーカオを口から出して手に持ち、顔を歪める。
「キモいキモい信じられない珍妙あり得ない、う”っ」
今度はマーラーカオを放り出し、口を手で覆って庭に駆け出す。げぇげぇと嘔吐音をさせた後、涙目で碧の部屋に戻ってきた。汚くも強烈すぎる拒絶反応に、碧は心底驚く。
「明日、仕事探す」
そう言って、その日は茉莉は碧の部屋に泊まった。
仕事など探せないことを茉莉も碧も分かっている。まだ14歳。しかも女。読み書きができるくらいしか取り柄はなく、そういった働き口は男性で埋まっているだろう。
翌日、茉莉は職業紹介所に行ってみたが「お父さんを探しているのか?」と尋ねられるほど子供扱いだった。一応、女性の求人も存在した。乳母、縫い子、住み込みの使用人。
乳母は当然ムリ。刺繍の授業を思い出すだけで、縫い子は諦めた。使用人は経験者しか斡旋できないと言われた。
ふらふらと街を歩いていると、茉莉は、公式の掲示板の片隅に、いかにも非公式なメモが貼り付けられているのを見つける。
”西安駐屯軍・輜重隊の人手募集。体力自慢求む、飯支給”
茉莉の視線は当然、「飯支給」に注がれる。
輜重隊とは、軍隊の前線部隊で、食料、被服、武器、弾薬などを輸送・補給する部隊である。要するに雑用。役人達の軍事費の中抜きにより、人件費が逼迫し、現場は常に人手不足。とにかく安く使える人間が求められている。
半分諦めてはいたものの、茉莉はかけあってみた。16歳だと嘘をつくと、あっさり採用された。
家を飛び出した翌日、仕事を見つけて帰ってきた茉莉の行動力に、両親は目を白くさせて絶句。
「お前は甘い! 世間を分っとらん。そんな男ばっかりの巣窟へ若い娘が行って、どんな目に遭うか」
茉莉は答えた。
「嫁に行っても結局そんな目に遭うじゃんか。だったら、自分で選んで行った場所で痛い目に遭ってくる」
「父親の言うことは絶対だと私塾で儒教の教えを習わなかったのか。嫁に行け。それが女の幸せだ」
「くそっくらえ」
「く、く、くそだと?!」
その日のうちに私塾へ退籍する旨の文を書いて届け、翌朝、茉莉は小さな荷物で家を出た。
碧は私塾を休み、見送るつもりだった。けれど、別れ難く、あと少しだけ、あと少し……と一緒に歩いているうちに駐屯地の門の前まで来てしまっていた。結局、碧は泣いてしまった。茉莉の方は、「気をつけて帰ってね」と元気に手を振った。
──メンタル、強すぎ。
碧は、現代にいた16歳の茉莉を思い出す。
茉莉が、今、自分の親友であることを誇りに思う。同時に、碧は、純粋な茉莉のことがとてつもなく心配になった。軍は男ばかりの場所。自分の考えが至らなかったせいで、苑は辛い目に遭っているだろうという罪の枷が、再び碧の胸を締めつける。
碧は情報を集めるために、駐屯地の周りを一周することにした。自分達の親くらいの年齢の女性が洗濯物を干している。なんとか声が届く距離だったので、様子を聞いてみた。
「女の人は何人もいますか?」
答えは「いるよ」。
「まあ、大勢じゃないけどね。飯炊きや洗濯は女だね。結構重労働なんだよ」
次に尋ねたのは、戦禍に巻き込まれる危険性についてだった。
「戦になったら、それについて行くんですよね?」
「ってことになってるけど、ここは、ちょっとした農民の反乱を鎮圧するくらいだから、私らはついて行かないよ。戦になると暇になるくらい」
「救援物資を運んだりしないんですか?」
「かれこれ4年いるけど、ないね。兵士がやってる。西安じゃ国境もないからね」
ひとまず安心できた。
人と別れるとき、去る者よりも去られる側の方が寂しい。
抜け殻のようになった碧に、碧の父親は、医館で家業を手伝うことを勧めた。




