罪の枷
14歳。残酷にも、3人は子供のままでいられなかった。
年が明けてすぐのこと。
苑の祖父と父親は、王都で高級官僚として政治に携わっている。前年の夏、嫌疑がかけられた。それは官僚同士によくある権力抗争であり、一旦片がついたかに見えた。しかし、世間からの風評は暴走し、屋敷にゴミを投げつけられたり、馬車が襲われたりするようになった。その余波は、遠く離れた西安で苑たちが暮らす邸宅にまで及んでいる。
碧と茉莉が通う私塾では、誰もそのことを口にしない。誰もがいつもと同じように苑に接している。
ある日、苑は私塾で学友達に、目にも鮮やかな高価な干菓子を配った。これまでも、誰かが何かを配ることはあった。主に、結婚が決まって私塾へ通わなくなるときの別れの挨拶としてなされた。碧も配ったことがある。碧の場合、風邪をひいているのに登校し、クラス中に移してしまったお詫びだった。
苑からの干菓子を、誰もが、父親の嫌疑と結びつけた。「それでも仲良くしてくれてありがとう」という心遣いと受け取ったのだった。
その日、私塾の後、3人は老師の庵を訪れた。苑は老師にも干菓子を手渡す。更には、何冊もの貴重な書物を馬車から運び、寄贈した。
「どーして?」
碧が尋ねると、苑は寂しそうに微笑む。
「家にあっても、もう誰も読まないの。こちらにあれば、誰かが読んでくれるわ」
それらの書物は、なかなか手に入らないような代物で、西洋のものまである。碧は、金持ちとは太っ腹だと感心しただけだった。
夜19時半。遠く、望火楼の鐘が鳴り響く。
「碧碧! 碧碧!」
どんどんと部屋の窓を叩く音がした。声の主は茉莉。何事かと碧が急いで窓を開けると、茉莉は叫んだ。
「苑苑んちが燃えてる!」
「燃えてる?!」
碧は家を飛び出した。
走りながら茉莉が説明する。
「家の店の倉庫が苑苑んちの近くにあって、店の人が知らせに来たの」
近づくにつれ、煙と人が多くなって来る。碧の頭には「一家心中」という文字が浮かんだ。昼間、学友達に配られた干菓子は別れの挨拶だったのだ。
大きな屋敷から炎が上がっている。分厚い門扉はぴたりと閉じられ、人々はおろおろしながら火を見ていた。
「どうして。家の人は、使用人はどうしたんですか?」
何もせず、ただ消防士を待つ周りの大人達に、碧は怒りを感じた。
「夕方、使用人が揃って屋敷を出てったぞ」
見物人の1人が言う。
「こんな乾燥しとる季節に。他に燃え移らなきゃいいが」
別の見物人は、飛び火を心配している。
──なんでそんなこと言うの? 助けてよ。助けて。
確かに紫一族は、現在世間から疎まれる存在になっている。それでも、助けるべきだと碧は思った。
悔しげに唇を噛む碧の袖を、茉莉が引っ張って耳打ちする。
「碧碧、裏から入れるかも」
碧も茉莉も何度か屋敷に招かれたことがある。長い塀に入りやすそうな場所があることを知っていた。
道幅が狭い裏通りに見物人はいなかった。茉莉はいとも簡単に塀をよじ登り、上から碧に手を貸した。碧もなんとか塀を越える。大邸宅には、6棟の建物があり、激しく燃えているのは、居間がある棟だった。
「まだ、あっちはそんなに燃えてないよ、莉莉」
碧と茉莉は苑の部屋へ走る。
「「苑苑!」」
苑は部屋で一人、亡霊のように佇んでいた。円い西洋のテーブル、それと揃いの彫刻が施されたイス。テーブルの上にはランプがあり、精緻な青い模様の白磁の茶器を照らしている。
「碧碧、莉莉……」
「逃げよ」
茉莉が苑を立たせようとすると、苑は白磁の茶器に手を伸ばす。
パン ガチャン
碧は咄嗟に茶器を払い除けた。それは冷めたお茶と共に床で砕け散った。毒だったのだろう。
「逃げるよ」
左から碧、右から茉莉が苑の体を支え、少しずつ進む。纒足は走れない。火の手が迫る。外へ出るためには、すでに床のところどころで立ち上がっている小さな炎の群れを突っ切らなければならなかった。わずか数十センチの炎を越えることさえ、苑の足では不可能なのだ。
「私はいいから。2人とも、早く外へ」
苑は泣きながら死を選ぼうとする。
「苑苑、乗って!」
茉莉はしゃがんで苑に背中を向けた。おんぶ。碧は強引に苑を茉莉の背中に乗せた。そこからは速い。あっという間に炎をぴょんぴょん飛び越え、建物の外に出る。前方からドスンドスンと門扉を壊そうとする音が聞こえてくる。
──助けてくれる!
碧は先に走っていって、門扉の閂を開けた。
「何をしとるんだ! 危ないぞっ」
特大のハンマーを持った火消しが怒鳴る。
「1人、人がいます」
碧は自分でも何を言っているのかよく分からなかった。とにかく、苑が助かったことを伝えたかったのだ。
「どきなさい! 出て」
大勢の火消しが門から雪崩れ込んでいく。近所の人が苑を抱き抱え、茉莉は息を切らしてその場に座り込んだ。
後日、かつて隆盛を極めていた紫家の葬儀は、驚くほど質素に行われた。
苑は親戚に引き取られることになった。
「手紙を送るから」という約束は、その後、1度しか果たされなかった。
◇
心地いい初夏の風は、苑の席を吹き抜ける。学舎で、老師の庵で、茶館で。
「助けちゃダメだったのよ」
それは、私塾の侍女の待合室から漏れ聞こえた会話だった。大人である侍女達は、子供達に配慮している。ただ、その声が偶然、茉莉の耳に届いてしまった。
「王都の高級妓楼でNo.1って」
「あの美貌だもの」
「纒足にお酒を注いで飲むんでしょ?」
「げー、悪趣味ぃ」
「かわいそうに」
「死ん方がましだったのかも」
苑が妓楼に売られることは、社会を知る大人ならば、誰にでも想像できる結末だった。質素な葬儀は、親戚の誰もが関係を切りたがっていることの表れだった。妓楼では、奇跡的な一級品だろう。美貌、教養、纒足、若さ。纒足の妓女はそれだけでプレミアもの。その階級の女性が妓女に身を落とすことなど滅多にない。纒足の中身の足など、夫でなければ見ることが叶わないのだから。
「そんなの、根も歯もない噂だよ!」
碧は茉莉の両肩を掴んで言い聞かせた。言い聞かせなければならないのに、ボロボロと涙が溢れる。碧は噂は本当だろうと理解できてしまったから。
「……碧碧、うちら……助けちゃダメだったんかな」
茉莉は唇を振るわせ、声を絞り出す。
「そんなことないよっ」
精一杯強く、碧は言った。そうでなければ、自分が立っていられない。
──火事の真実は残酷だった。
使用人達のほとんどは前年末のうちに、主人の推薦状つきで新たな職場に転職済みだった。最も無惨に焼け落ちていた居間の跡地からは、苑以外の家族の焼死体がまとまって見つかっていた。そこには、普段は王都に暮らす祖父と父親の姿もあった。
紫家は、家名や面子にこだわるのではなく、ひとりの人間として尊重し合い、深く思い合う家族だった。世間の激しい風評に晒されても、その絆は変わらなかった。だからこそ、家長は紫家をここで綺麗に終わらせることを決心したのだ。
最期の夜、全ての使用人が去った広大な屋敷の居間で家族は集った。既に屋敷の何箇所かには火が放たれ、居間の四隅には炎がちろちろと燃えていた。毒の茶を淹れたのは家長である祖父。居間には苑、祖父母、両親、兄2人、妹。彼らは静かにテーブルを囲んだ。
「すまない」
そう言って、祖父は茶を一気に飲み干した。
「無念だ」
父親が祖父を追う。
祖母、母、兄。茶を飲むと、酩酊して眠るかのように崩れ落ちていった。その苦しまない姿に、もう1人の兄と妹も茶を飲み、数秒後、テーブルに突っ伏した。苑は立ち上がり、母の背中に縋った。
苑にとって、死ぬことへの怖さはほんの少ししかなかった。ただ最期に、大好きな友を招いて何気ないお喋りをした自室を見たくなった。まだ、火は回っていない。苑はお盆に茶の入った茶器を載せ、小さな歩幅で自室へ向かったのだった。
あの夜、碧が咄嗟に振り払ったのは、最期の毒の茶だった。
碧は、苑が生き残った後に待ち受ける運命を予測できなかった自分を恥じた。人命救助は、現代の価値観を持つ碧にとっては絶対の正義。しかしそれは、苑を、死よりも辛い生き地獄に突き落としたのかもしれない。その罪の枷は、碧と茉莉に重く重くのしかかった。




