焦がれた涙
茉莉は驚き立ち尽くす。橙巾党の本拠地は、ここ帝都から1000km離れた西安である。碧の刀の使い方も服装も、反乱軍に参加している武闘派ではない。
「歴史を変えに来たの」
「「え?」」
碧の言葉に、茉莉と苑は、訳がわからず目をぱちくりさせる。それでも碧は真剣な眼差しで不思議な言葉を紡いだ。
「陳円円を救うことが、一国を延命することだから。それと、茉莉がゲスい浮気男に泣かされてないか心配だったし。あ、そーだ陳円円はどこ?」
その言葉に茉莉と苑は首を傾げる。
「ゲスい浮気男?」
茉莉が眉間に皺を寄せる。
苑は、戸惑いながら自分の胸にそっと手を当てる。
「陳円円は、私」
「え、苑苑が陳円円?」 @_@
混乱する碧に、茉莉は真実を打ち明けた。夫が苑を形だけの側室に迎えたのは、自分が願ったからなのだと。
瞬間、碧の目から、どばどばと堰を切ったように涙が溢れた。立っていることすらかなわず、「苑苑、苑苑」と繰り返し、床に両手両膝をつき、落ちる涙で絨毯を濡らしていく。
その姿は、現代の競技場での茉莉の姿と同じだった。かつて碧が、激しく焦がれたあの日の姿そのままに。
それは、何年もの歳月と想いが蓄積した涙だった。
歴史はシンプルではない。人間の業、無数の因果、様々なものによって織りなされる。碧の記憶は、後世の大水青帝国が自らの正当性をアピールするために仕掛けた、印象操作のプロパガンダに過ぎない。そして、呉三魁と陳円円の戯曲は、女性集客のためにラブが追加されただけである。
戯曲における「李治世の乱」の終盤は、4月12日に呉三魁が陳円円掠取の知らせを受けてブチキレ、4月22日に山海関の門を開けて北方民族と力を合わせるというシナリオである。
ではなぜ、開門まで10日間もあるのか。
歴史では、呉将軍と李治世軍の間で激しい戦闘が繰り広げられていた。4月12日、帝都で李治世軍が富裕層を捉えて拷問し、資産を没収していると知った呉将軍は「李治世に世を治める資格なし」と判断。山海関に引き返した。これを離反とみなし、李治世軍は山海関へ攻め入ろうと戦った。
山海関は長城に門がついているだけではなく。城壁で囲われた巨大な要塞である。
戦いは圧倒的に李治世軍が優勢だった。この様子を長城の向こうの山から眺めていた者がいる。北方民族のチート男である。歴史では硝石不足など無縁で、バキバキに強かったのだ。知略家でもあったチート男は、2つの軍の共倒れを虎視眈々と狙っていた。そして、呉将軍側が虫の息となったとき、「助けてあげようか?」と手を差し伸べた。遂に4月22日、呉将軍は、後の世のことを考え、山海関の門を開けて北方民族と手を組んだのだった。
呉将軍は側室すらいないおっさんなので、戯曲では、美丈夫英雄で側室アリの呉三魁を採用したのである。
碧が「略奪が起きなきゃいい」と考えたことは当たらずしも遠からず。帝都の治安が守られたことで、歴史は別の流れへと進んでいた。
茉莉は山海関へ文を認めると言う。
「碧碧が、義祖父と苑苑を助けてくれたって書くよ。一国軍が略奪してないってことも、ちゃんと帝都を警備してくれてるってことも」
「ありがと」
歴史において、4月12日に呉将軍が受け取った書状には、帝都の惨憺たる有様が綴られていた。そして、呉将軍は「李治世に世を治める資格なし」とジャッジした。しかし、この評価が「一国は政を任せるに値する」と変わるのである。
歴史の中での李治世軍は、反乱軍の兵士に渡す恩賞がいきあたりばったりだったのだ。藩王達は財を蓄えていたが、帝都では、皇帝にも国庫にも財がなかった。そのため、李治世軍は富裕層から資産を分捕るしかなかった。
しかし、歴史と大きく異なり、一国には南部の穀倉地帯がある。また、歴史には登場しなかった大南国という強力な同盟国がいる。略奪に頼ることなく、兵士に恩賞を支払う財政基盤があった。
碧は茉莉に尋ねる。
「今、呉将軍は帝都へ向かってるんだよね?」
そして北方民族の話題に及ぶ。
「それがね、北から大砲撃ち込まれたの。だから、義父や夫達は軍を引き連れて戻ったの。ああ、それを一国に書状書かなきゃ」
「分かった。そのことは、私から一国に伝えておく」
「碧碧、北の国境、手薄になってない? 敵は隙につけ込んでくるよ」
「軍勢の半分は帰した。国境の駐屯地に戻っていくはず」
「寧武関は?」
茉莉は全滅した要所を懸念する。
「あ! どーなってるんだろ」
「碧碧、それも検討するように一国軍に伝えて。そこから火薬が敵に流れたら危険」
「分かった」
今、北方民族を弱体化させている一因に火薬不足がある。その弱みを、一国軍の武器で補うような真似をされては困る。しかし、一国軍は北の国境の要衝を制圧しながら東の帝都へ進んできた。その際、兵を自軍に組み込むと同時に、大砲などの武器も奪って来たのだった。確実に手薄になっている。碧は、即刻それを軍の指揮官に伝え、改善することにした。
2人の緊迫したやり取りを、苑は少し離れた場所からじっと見つめる。
「2人ともすごい。なんだか遠い人になっちゃったみたい」
「「そんなことないよ」」
ふっと場の空気が変わり、3人で笑い合うのだった。
ここで、碧は自分が男を斬ったことを深く考えなかった。戦乱で死体を見過ぎ、どこか人間的な感覚が麻痺していたのだ。女を襲う男など死ぬべきだと常々思っていたこともある。これが、後になって災いの種となるのだった。
碧は歴史の記憶を踏まえ、念の為、山海関から帝都側15kmの地点に、呉三魁&北方民族連合軍に備えて軍勢を待機させていた。北方民族が山海関に攻めてきていると知った一国軍は、直ちにその援軍を向かわせた。
4月15日。
大地を埋め尽くす圧倒的な兵力に、北方民族は戦わずして退却した。北方民族の軍勢は、ペストにより3万ほどがやっとであった。歴史の記録で6万とされていた軍勢は、半分にまで減衰していたのである。
乱世が終わった。
しかし、激動の渦中を生きる者達は、このときが乱世の終わりであることすら知らない。もとより、ここを終わりとするのは、現代の歴史が基準である。真の乱世の終わりは、崇和帝が崩御した3月19日と言えるのかもしれない。
◇
宮廷の門、武英殿の入り口に橙色の旗が翻る。
多くの兵士が帰郷し、帝都は徐々に平時の日常を取り戻しつつあった。
武英殿から何人もの兵士が去り、西安やその他、元一国領の各地から官僚達がやって来ていた。新体制の牙城で、帝都に巣食う旧態然とした官僚達は、橙巾党幹部に何度も「皇帝が必要だ」と諭していたのである。
「皇帝がいないとは。我々は誰の指示を仰げばよいのだ」
橙巾党の幹部の1人が答える。
「みんなや」
官僚が畳み掛ける。
「みんなとは?」
「街の人や農民や船頭や大工や、そーゆー人ら全部や」
「一人一人訊いて歩くのですか? そんなことはできません」
要するに、帝都の官僚は、血統も学もない橙巾党が自分達の上にいることが許せないのである。
地方の藩にいた官僚は、それなりに新体制を受け入れていたため、無言で成り行きを見守っていた。だが、帝都の官僚は、緋色に錦鶏の模様の官服を纏い、官僚ピラミッド頂点のプライドを振りかざす。
別の燈巾党幹部が、困った顔で訴えた。
「民のことを1番に考えてくれんかのう。一人一人聞かんでも、辛いかどうか分かるやろ。食べて寝て、たまには家族で美味いもんが食える。そーゆー生活をさせてやってくれ。子供産まれても口減らしのために間引かんでもええ、家族が病気したら薬を買える。オレらの望みは、あんたらからしたら、次元が違うやろ。そんなことを叶えたいだけなんや。これまでの政は、そんなことも叶わんだんや」
そこで、ずっと黙って聴いていた治世が立ち上がる。
「皇帝が要るなら、その辺を歩いている人に順番にやってもらいましょうか?」
「そんな、どこの馬の骨とも……」
思わず民衆を軽んじた本音を漏らした官僚が、言葉の途中で口を噤む。




