「終わり」
「「「開っけろ、開っけろ、開っけろ」」」
兵士達の大合唱が起こり、内側から南の門が開かれた。
一方、東の門では大砲を何度も撃ち込み、城壁の上から兵士が銃撃するという激しい攻防戦が行われていた。それも長くは続かなかった。西の門も南の門も既に開けられたと報があり、兵士は抵抗しても無意味だと諦め、内側から門を開いた。
一国軍が続々と城門を潜り、帝都の街へ雪崩込んでいく。
橙巾党の幹部達は、なお本陣にいた。皇帝直属の禁軍との決戦も覚悟していた。しかし実際には禁軍の姿すらなく、城内では宦官まで武器を取らされるほど兵力が枯渇していた。俸給の未払い、食事の質の低下、何よりペストによって、兵の多くが命を落とし、あるいは逃げ出し、軍は実質的に崩壊していた。
3月19日未明。空が微かに白み始めたとき、帝都を囲む城壁の北、一国軍の本陣に最も近い門が開け放たれた。
馬に乗り、橙巾党の幹部達は隊列を崩さぬまま進んでいく。朝日が昇り、黄金色の陽光が新たな歴史を煌々と照らす。
宮廷までの道の両側には、多くの人々が一国軍歓迎の橙色の巾を振る。
──違う。
碧の目には、人々の笑顔は疲弊の色を帯びて映った。その笑顔は、かつて西安を陥落したときに向けられた笑顔とは明らかに違った。
砲撃音で脅され、夜も休まることなく叫声や騒音を浴びた人々に、道々で橙色の軍旗を見送った農民達の希望に満ちた羨望の眼差しはない。
西安の街が内側から門を開けて橙巾党を受け入れたのは、新しい政を求めたから。帝都が内側から門を開けたのは、16万の大軍勢の恐怖に屈したからだった。
パン!
碧は両手で自身の両頬を叩いた。
──怯むな。一国を44日で終わらせない。
決意を熱く胸に抱くのだった。
皇城へは南の門から入り、そのまま直進し、正門である宮廷の南門から、一国軍のたった100名が静かに宮廷内へ足を踏み入れた。排泄物の処理能力が、その程度しかなかったのである。
100名のうち30名が、武装して皇帝の居室へ行った。残りの70名は、入ってすぐ左手の建物、武英殿に入った。広大な宮廷の他のエリアへの門は、略奪防止と秩序のため、宦官によって閉じられている。
16万を超える兵士は、8万を残して帰路に着く。これだけの大軍勢、1日でも滞在が伸びるとそれだけ費用が嵩むのである。
歴史では、4月21日に呉三魁が山海関の門を開け、李治世軍と北方民族&関寧鉄騎の連合軍が戦う。そのシナリオを鑑み、8万の兵が残っているのだ。碧しか知らない「歴史」を訴えるわけにはいかなかったが、反撃される恐れがあるため、ある程度の軍勢が残るのは自然だった。
「いねーぞ」
「いなかった」
皇帝の居室へ行った30名が武英殿へ戻ってきた。皇帝はいなかったとのこと。
碧は、現代にいたとき歴史の名所として訪れたことのある、山を見つめた。すでに、崇和帝は、山で自ら首を吊って絶命している。
歴史を知っている碧は、崇和帝の自害を止めることができた。けれど、生きることが最善というのは、現代の表面的な価値観だと彼女は知ってしまった。
14歳のとき、一家心中の火の海から茉莉と共に、苑ユエンを助けた。その後、苑は妓楼に売られた。碧は、苑の命を救ったことを後悔した。時が経っても、ふとした瞬間、突然涙が溢れてくるのだった。それは茉莉も同じだった。苑の命を救ったことは、2人にとっての罪の枷となっている。
碧は山を向いて目を閉じ、黙祷を捧げた。
碧の脳裏には、学生時代に何度も見返した歴史の教材が浮かんでいた。今日、帝国は滅びた。44日後、大水青帝国が興る。分岐点となるのが4月12日。愛妾、陳円円を掠取されたと知った呉三魁の裏切りとされていた。だからこそ碧は信じていた。陳円円さえ救えば、山海関は開かれない、と。
山海関が開かれなければ、呉三魁と北方民族が手を組むことはない。李治世軍を滅ぼすこともない。そして、4月29日に治世が殺される未来は訪れない。
4月12日当時、帝都は、李治世軍が官僚や富裕な商人らを拷問して財産を没収する修羅場と化していた。その混乱の中で、絶世の美女と謳われた陳円円は兵に連れ去られる。やがてその報は呉三魁のもとへ届き、歴史が動く。
──陳円円を探さなきゃ!
碧は、陳円円の掠取こそが呉三魁を離反させた原因だと信じていた。
それは現代で広く知られていた説でもある。しかし、この時点の碧はまだ知らない。語られない事実があったことを。
気持ちは逸るのだが、碧には、一国軍の業務があった。政の再編である。
一国軍が大盟帝国を滅ぼした3月19日、夜。碧、牛金星、財政部門に携わっていたおじさん3人は、多忙を極めていた。事前に内通を約束していた宦官達から話を聞く。彼らが配下の宦官たちを従えて動いてくれたおかげで、情報収集は極めて組織的かつ円滑に行われていた。
一国側は帳簿を見せられた。想像通り、国庫は底をつき、惨憺たる有様だった。
「こんなキレーなとこ住んで、贅沢な暮らししとるのに、貧乏やったんか」
「贅沢しすぎとちゃうか?」
「後宮に女もいっぱいおるんやろ?」
宦官も交え、皇帝の私財を調べたのだが、国庫同様、何もなかった。
「何をおっしゃいますか。皇帝陛下はそれはそれは倹約家であらせました。着古した服で日夜を問わずご公務に励まれていたのです。一国軍や北方民族を制圧するために、私財を投げ打っておられたのです。そして、後宮は、後宮は……。和平のための政略結婚でございます!」
一国軍と内通した身でも、宦官達は心の底では皇帝を慕っていた。主君の遺体が発見されたばかりという悲劇も重なり、宦官たちは涙に声を詰まらせながら必死に抗議する。
おじさん達は即陳謝。
「悪かった。主人のこと悪く言って」
「謝る」
「ごめん」
宦官の1人は床に額をつけて懇願した。
「皇帝陛下のご遺体を粗末に扱わないでください」
3月20日。
「碧」
優しい声に、碧は振り向く。
「治世」
夜、篝火かがりびの光がやっと届くところに、治世がいた。穏やかで寡黙な理想主義者。
「まだ寒いな」
進軍中、道には至る所に白い雪が残っていた。
「寒いね」
「そこ、風来ないかも」
治世は白い漢白玉の階段に腰を下ろした。帝都の宮廷内は、どこもかしこも美しい、
彼は、隣に腰を下ろそうとする碧の手首を掴んで引っ張る。治世は、碧が膝の上に倒れてくればいいという子どもじみた冗談からだった。碧もまた、それを分かっている。それでも彼女は足を踏ん張った。2人の姓は「李」。同一不婚の法により、結ばれることは許されない。
碧は注意深く、一人分の距離を空けて同じ段に腰を下ろす。
「とんでもない宮廷だな」
「ね」
ため息が出るほど広大で豪華。一国軍は敷地内の南西端にある武英殿だけを使っている。他の場所への門は封鎖したままである。
ぽつり。治世が言葉を落とした。
「な、碧、もう、オレら要らなくね?」
270年続いた王朝を滅ぼした男のセリフだと、誰が思うだろうか。
「治世は要るでしょ」
治世は、武勇に優れているわけではない。雄弁でもなく、どちらかといえば寡黙。それでも、何かを決定するとき、皆が治世を見る。治世の一言で方向が決まる。
隣で、大きな体を折りたたみ、治世はぺたんと自分の膝に頬をつけ、碧を見つめる。
「オレさ、誰もオレらのこと知らないとこで、碧と暮らしたい」
同姓不婚。それなのに、治世ははっきりと気持ちを言葉にする。碧の瞳から真珠のような涙が生まれては消えていく。涙を拭う中指が月明かりで淡く光る。
「そうできたら……いいね」
1930年まで、同姓不婚の法は施行される。それを知る碧は、叶わぬ恋に応えたエゴをどうすることもできなかった。相手の幸せを純粋に願うならば泣いてはならないと、碧は自らに戒めていた。
キス。
治世は、碧のこめかみに柔らかい熱を与えた。驚いて顔を上げる碧の指先に、目に、涙がつたった頬に、治世は唇を寄せる。彼がそっと碧の腕に触れる手は戸惑うように震えていた。何度もためらうように止まる彼の唇。碧は、少し笑って、自分の唇を合わせた。




