北方民族が弱体化
帝都は、西安の北東方面1000km先にある。
軍議の場では、進軍ルートを巡って意見が交わされていた。
「塩湖は欲しいな」
「私兵がいっぱい塩湖を守っとる」
そこで治世が言う。
「帝都を抑えれば、そこも手に入る。無駄な戦は避けよう」
西氏の故郷、山西商人のお膝元は近くを通り過ぎるだけと決まった。ルートは北と南の2つ。
治世が所属するのは北ルート。北の国境付近に大盟帝国の主力が集められている。帝都での戦でそれらが駆けつけないよう、制圧しながら進む。南ルートは、一国の他藩による部隊である。
1月8日。
「碧、死ぬなよ」
先頭集団の治世は、碧を、隊列の後ろの方へ置いた。
──西安で待っててくれれば。
それが治世の本心だった。傍で敵から守ることが叶わないのだ。彼にできることは、せめて前衛で敵を倒し、碧がいる後方を安全に導くことだった。
「大丈夫」
「危なくなったら逃げろ」
「分かってる」
碧は、治世にどんな言葉をかけていいか分からなかった。すでに頑張り過ぎている治世に「がんばって」は相応しくない。「きっと成功するよ」も、失敗する歴史を知っている碧には、安易に使えない言葉だった。
共に帝都に向かう部隊にいながらも、何万という隊列のトップと後部、碧と治世の間には果てしない距離があった。
ところで、牛金星も同行したのだ。彼は帝都陥落後、素早くに官僚組織を掌握、再編するという、碧と共に重要な役割を担っている。
「牛氏様がいれば、安心です」
碧にとって、心強い人間だった。官僚国家の総本山の面々が、21歳の小娘の言葉に耳を傾けるわけがない。鼻白み、プライドの鎧で歯牙にも掛けないだろう。その点、牛金星は違う。実を伴ったシゴデキオーラが素晴らしいのである。年齢、太めの眉、人を懐柔する笑顔、そして、時として放たれる眼光。何よりも下腹辺りの恰幅の良さ。
「我々の出番があることを信じております」
牛金星はおじさんだったので、かなりの体力を消耗していた。戦の90%は移動である。尻や股の皮膚は痛み、足腰の筋肉は悲鳴を上げていた。兵糧は必要最低限。1ヶ月後には下腹の肉は取れ、元のイケオジに戻っていた。
──アメリカ企業のCEOっぽい。
と、碧は思っていた。
その間、通過する関所や要所は、無抵抗で降伏した。降伏した官軍は殺さず、一国軍に組み込まれたため、軍勢は膨らんでいった。山西地方を北上する途中、城攻めがあった。が、後方にいた碧や牛金星の隊が到着するときは、既に戦いが終わっていた。
「いたいた。牛氏様、娘娘。役人らとの今後の話、しておいてくれ」
死体の処理とは異なるが、これも戦の後処理である。
そうして、遂に北の国境まで到達した。
国境、寧武関の戦いは死闘であった。膨れ上がっていた一国軍は3万の犠牲を出し、出発時の6万の軍勢に戻っていた。7000の敵はほぼ全滅。
──7000人で3万を倒した?!
碧は北の国境の軍に絶句した。
かろうじて生きていた敵兵は、行軍に参加できる状態ではない重傷者だった。碧は、捨て置かれていた敵兵に薬を持って駆け寄る。彼の右腕の鎧を弾が貫通していた。
「鎧を脱げますか?」
声をかけながら、碧は敵兵の鎧の右腕部分を外し、血に塗れた服の右袖を切り落として手当する。
「ありがとうございます。敵なのに」
敵兵は目を逸らした。
碧はそれを否定する。
「いえ。もう、味方です」
すると敵兵は、痛みからか悔しさからか、下唇を噛んだ。
「では、味方として伝えます」
「はい」
碧は、伝達事項があることを不思議に思った。
「現在、北方民族は火薬不足によって弱体化しています」
──まさか、それはないでしょ。2代前の北方民族の皇帝が、西洋から大砲や銃を輸入して、大盟帝国から技術者を拉致って、兵器の先進国になってるはず。
「弱体化ですか?」
碧は内心疑いつつも、話の先を促す。
「山西地方で採れる硝石を、一国に流していたので、北方民族に輸出する分がなかったんです」
「え」
「今回、ここまで我々が持ちこたえたのは、北方民族が火薬不足で戦がなく、こちらに火薬のストックが多く残っていたことも理由です」
火薬の原料は、硫黄、硝石、木炭。このうち、硫黄と木炭は山が多く、火山もある北方民族の領土で自給できる。しかし硝石は他に頼らざるを得ない。一国と同様に硝石を作ってはいるが、年月を要し、良質のものを確保することは困難だった。
他の輸入経路に、属国の半島を経由して島国から輸入するという方法もあったが、あいにく、島国は鎖国政策を行っている。
もう1つ、北方民族の西方勢力から得るという経路も断たれていた。火薬不足により、西方の平定が頓挫したのである。結果、硝石を入手できず、益々火薬不足に陥るという状態であった。
「そんなことが起こっていたんですね」
碧は、歴史にあった最強レベルのチート男が、まさか、一国が硝石を分捕ったせいで力を発揮できなくなるとは、予想もしていなかった。
「我々は守りだけだったが、山海関では北の領土を取り戻そうとしている」
その言葉の裏には、「今、関寧鉄騎は忙しいから、帝都に駆けつけられない」という重大な意味が込められている。
「分かりました。貴重な情報、ありがとうございます」
◇
真冬の山海関の海は、凍っていた。遠く雲も海も白く、激しい風と雪が吹き荒ぶ。
草原の中、北方民族は巨大なテントの中で震える。寒さにではない。ペストに。
朝、咳をし始めた者が夜、亡くなる。ペストを治す抗生物質はまだ発明されていない。ペストが細菌であり、ノミや飛沫によって感染することも解明されていなかった。春から夏にかけてはネズミなどからノミによって人間に移り、腺ペストとして発症。数日の潜伏期間を経て発症し、数日間で亡くなるかあるいは治癒する。死亡率50%。秋から冬にかけては飛沫感染し、肺ペストとして発症。数日の潜伏期間を経て発症し、1日以内に亡くなる。死亡率95%超。
冬、陣営のテント内という密閉空間で大勢が過ごし、肺ペストが飛沫感染で広がっていった。
とうとう、国境の長城を越え、忌まわしき病が訪れてしまったのだった。
遡ること半年前。関寧鉄騎は、火薬不足となって弱体化している北方民族へ攻め込んでいた。かつて呉将軍が西安へ異動する前の領土を取り戻すチャンスであった。
茉莉は、大砲や移動式の壁で囲まれた、仮設要塞の中、兵糧の荷車の中から1つの木箱を取り出していた。遥か帝都にいる苑からの差し入れである。文に「軍のみなさんでお召し上がりください」とあったので、茉莉は、士気を上げるために持ち込んだのだ。乾糧。乾燥した穀物を固めて焼いたものである。苑からのものは、甘い味がついていて、まるでクッキーのように特別美味しい。
40cm×40cm×20cmほどの大きさの木箱。
仮設要塞の中、茉莉はじゅるりと口の中に唾が溜まるのを感じながら木箱を開けた。
「ひっ!」
「「「うわっ」」」
木箱からネズミ数匹が這い出て逃げていった。箱の中の乾糧はネズミ齧られていた。
「くっ。全部は齧られてないよ」
言いながら、茉莉は1つを手に取って、即戻し、木箱に蓋をして叫んだ。木箱は1つではないのだ。
「乾糧の箱を開けないで! ペストだから。ペスト!」
茉莉は、乾糧を手に取ったとき、箱のそこで2匹のネズミの死体を見つけてしまったのだ。走って箱に触れないよう伝える。
隊は騒然となった。ペストの原因は分からなかったが、ネズミが大量に死ぬと人間も大量に死ぬという現象が起きていたのだ。ネズミの死=ペストだった。
苑は帝都の商人に、この高価な兵糧を注文したのである。そして、帝都で爆発的に流行しているペストの菌に侵されたネズミが贈答品の乾糧の箱を齧り、潜り込んだのだった。
指揮官は重大な事態であると認識し、木箱だけでなく周囲の物資も放置して撤退するよう、命令を下した。
指揮官の素早い判断により、関寧鉄騎の間ではペストの被害がなかった。しかし、放置された木箱からペストに罹患しながらも潜伏期間中のネズミが這い出し、あるいは、死によって宿を失ったノミが新たな宿を探しに飛び散った。シベシアマーモットが多く生息するその地で、ペスト菌が勢力を拡大していった。




