西安の二つの夜
小洒落た酒楼の片隅で、一人、牛金星は酒を飲んでいた。彼は、二胡や箏の生演奏を嗜む。妓楼へ行きたい気持ちはあるが、悲しいかな懐が寂しい。ゆえに、こうして、酒楼でぼーっとしていたのだ。かつて、大盟帝国の帝都や第2の首都で浮き名を流した牛金星にとって、西安の酒楼は小さく地味に映る。しかし、二胡の音は一級品だった。彼はその調べに聴き入っていた。
「まあ、お一人ですか? よろしければお隣でお酌をいたしましょう」
声を掛けてきたのは、白い肌のグラマラスな女性だった。
「美しい。これはこれは、益々酒が美味くなるな」
「まあ」
女性はしなを作り、牛金星に寄り添うようにして酒を注ぐ。
──イケる。
遊び人として経験豊富な牛金星は、この女性をお持ち帰りできそうだと踏んだ。わざわざ高価な妓楼に行かずとも、彼は女に不自由しない。イケメンからイケオジを通過し、イケオジもどきになってもモテ続けている。腹回りに肉がついてしまったが、それは、太る余裕がある経済状況を表している。「偉そう」という金の匂いに脂粉を纏った蝶が寄ってきて羽を休めつつ蜜をすするのである。
「一国になってから、西安は変わったか?」
「ええ。まあ、お客様はどこかからおいでになったのですか? 洗練された都会の香りがしますわ」
「いやいや。少し前までは、大南国にいたんだ」
決して、大南国になるまで牢にいたとは言わない。
「一国になってから、役人がときどきいらっしゃるようになりました。今までも、上の方の方々はいらっしゃったのですが、最近は、年若い方も楽しそうに大勢」
「そうか。俸給が2倍になり、懐にも心にも余裕ができたのだな」
牛金星は、自分も2倍の俸給になることを目算し、この小洒落たお高めの酒楼を選んだのだった。
「まあ! 2倍? 素敵♡」
「はっはっは」
女性は、急に牛金星に体をぐっと寄せ、白い耳を彼の口から5mmのところに寄せた。そして囁く。
「ね。去年はいかほどでしたの? こっそり教えてくださいな」
「……」
去年は0である。いや、牢にいたときに囚人服と食事は支給されていたので、それを金銭に換算することもできなくはない。牛金星は黙秘した。同時に、自分は俸給について、まだ何の取り決めもしていないことに気づいたのである。
彼は自分がシゴデキオーラを持っていることは自覚している。そのように努めて振る舞ってきたのである。しかし。
──鉄鉱石の採掘現場を視察してきた若手役人、すごい成果、上げてきてたよな。他の役人も半端ない。待てよ、おじさんトリオって何気にいろんなことしてないか? 鍵職人探してきたり、硝石作る話を広めたり。あ”ー、均田免賦で収入が激減した元地主のケアまでしてたぞ。司法部門ともなんか交渉してた。ヤッバ。オレ、銀について調べたのと、徴税見込みの、えーっと……。
牛金星は、挙人だけあって頭脳明晰。0.4秒で一気に考えを巡らし結論を出した。
──仕事の成果は見劣りする。高額な俸給は期待できない。
「内緒。」
彼は女性の耳に囁きつつ、うなじの後毛に息をふーっと零した。
「ま」
俸給が期待できないとなれば、女性とあっはーんなことをするための宿代など出したくない。経費削減のため、彼は女性を自分の住まいへ招くことにした。長屋の一室である。大南国から西安までの旅費と飲み食い女で懐はすっかり寒くなり、家を買う金などなくなっていた。
橙巾党の幹部12人は宮廷に住んでいるが、牛金星は自ら押しかけた身。住む場所を与えてくれなど、とても口に出せないのだった。また、橙巾党の幹部達は、そういった方面に気が回らない。しかし、最も災いしているのは、彼が、宿泊費や邸宅の費用などミジンコほども気にしない金持ち官僚に見えてしまうことである。
「あ、ら? お屋敷じゃないのね。ぅふ。さよーなら」
牛金星はフラれた。
◇
薄い三日月の夜は暗い。
治世は風に当たりながら、宮廷内の建物の軒下、灰青色の石畳の上に寝転んでいた。布団が柔らか過ぎて、寝付けないのだった。うつ伏せになって頬をぺたりと石灰岩にくっつける。
「きゃ」
通りがかった碧が驚いて声を上げる。暗闇の中に人が倒れていると思ったのだ。
「あ、碧」
「治世。何してんの?」
「冷たくて気持ちいい」
「そ?」
「碧も寝る?」
治世は天然を発動していた。
──どーして外。どーせなら、寝台のあるとこで言ってよね。
「遠慮する。一応、女の子だから」
「ふーん。あのさ」
「ん?」
「オレ、視察、行く必要あった?」
治世はうつ伏せに寝転んだまま、視線だけを碧に向ける。夏が来る前の乾いた風が、槐の葉をさらさらと揺らす。
碧は治世の横にしゃがみ込んだ。
「うん」
「オレ、なんもしてねー」
「そんなことないよ」
「じゃ、オレの役目ってなんなん」
治世は、むっとしていた。役人1人で視察は十分だったのではないか。それどころか、ただ行っただけの自分を晒され、公開処刑の気分すら感じていた。
「うちらが見なきゃ、鉱夫がどんな待遇か分かんないじゃん」
「勤務体系も賃金も、あの役人が調べたじゃん」
「そーゆーのだけじゃないよ。どんな部屋で寝てるのか、何食べてるのか、娯楽はあるのか」
「役人だって見た」
「感覚で分かんないじゃん」
「感覚?」
役人は、幼少のころから科挙の勉強をし、挙人にはなれなかったが、1次試験を突破した者で構成されている。倍率は30~60倍である。幼少のころから教育費に課金できる家庭に育っているのだ。生活水準はアッパークラスである。布団が柔らかすぎて眠れない治世とは、生きてきた世界が違う。
「うん。橙巾党の誰かが判断しなきゃ。分かんないんだよ」
「んー。碧以外の誰かってこと?」
「だね」
碧は医館の娘。アッパークラス。
碧は橙巾党の農民出身の幹部が行くことに意味があると考えていた。鉱夫達にとって役人は仲間ではない。しかし、農民は仲間なのだ。農民出身の鉱夫は多い。田畑を継げなかった次男三男が流れ着く。「自分達の仲間が一国を治め、自分達の存在を考えている」と思わせることが重要なのだ。
碧は、治世が押し付けられると推測していた。彼は幹部で1番若く、いつも貧乏くじを引く。
20歳の治世は適任だった。威厳も貫禄も微塵もない。社交的でなく、寡黙。現に、多くの鉱夫達から「頑張れよ」と声をかけられた。鉱夫達は、治世に声をかけるとき、同じ言葉が自分達の心の中に木魂となって響いていたのだった。
「ふーん」
「ごめんね。すっごい遠くまで行って戦ってきた帰りに」
「戦ってねーし」
「戦ったじゃん。官軍と。蝶バッタとも」
「あ、張バッタ。聞いた? ペスト」
「うん」
「オレ、甘っちょろいって言われた」
「それは聞いてない」
「王がいないから責任がどーのって言ってた」
「王? 責任?」
「碧、王って要るんかな?」
「いらないっしょ。ナシでへーきじゃん」
一国が立国してから3年。王不在のまま問題なく政は動いている。
「司法長官にやってもらうとか。他んとこは王いるし」
「それ、変じゃん」
「変?」
「なんのために藩王を降伏させたの? 官僚国家を壊したかったんでしょ?」
「えーっと。均田免賦、2年不納糧をしたかった」
「それって、つまり、官僚国……」
「あ”ー、ムズい!」
治世は、碧の言葉を遮り、ごろんと寝返りをうって仰向けになった。
「……」
「碧がナシでへーきってゆーなら、王なんていらないんかな」
「それは、私だけの考え」
しかし、碧は頭の中で「大統領とか首相とかはいるから、トップって必要なんだっけ? 特に外交で」と、現代のことを考えていた。
「ま、いーや。碧」
「なに?」
「やっぱいーな。西安。みんないる。碧も」
──きゃーー♡ かわいい!
「私も?」
「おう。1番」
「それは嘘」
「なんで」
「ほら」
ふりふりふりふり
すぐ傍で、狼の蘭が大きな尻尾を揺らしていた。




