悲しき対峙
治世と碧、それぞれ、自分にとって特別な人物と対峙することになった。
治世は張。碧は牛金星。
張との邂逅は、治世に、王という存在の深淵を覗かせることになる。そして、牛金星は、この後、碧を殺す人物である。
一国と大張国は、国境の一部を接していた。その国境線は、ほぼ、峻険な山の尾根である。
二国間協議のために大南国に留まっていたのは50人程。そこへ、様々な連絡事項と共に、「国境付近を通るなら、鉄鉱石の採掘所周辺の様子を見てきてほしい」と依頼があった。
南京から西安まで1000km以上の行軍だけでも満身創痍。さらに山奥の国境へ寄り道をしろというのである。橙巾党幹部の中では年少の、治世が押し付けられた。
途中、待ち合わせの場所で、5日ほど体を休め、のんびりし、英気を養う期間は与えられたのだが。そこで合流した同伴者は、治世よりもやや年上の若い役人だった。
大張国との国境近くでは鉄鉱石の採掘が行われ、彼らの暴動を鎮圧するための駐屯地、流民や山賊を取り締まる国境警備所があった。もともど大盟帝国のものだったが、一国のものになっている。それらの視察をするためだった。
国境警備をした男は怯えていた。
「先日、夜、悲鳴を聞いたんだ。男の悲鳴やった。熊にでも襲われたのかと思って銃を持って行ったら、人が引きずられとった。熊やない。引きずっとったのは人間やった」
治世は場所を教えてもらった。そこは、草の間から土が覗く、大張国への獣道のような山越えの道だった。
様々な視察の後、治世は、同伴者とぶらぶら周辺を散策していた。季節は春。草木がささやかに花を咲かせ、鳥の声が響く。
「誰か、た、助け」
男の足音が聞こえた。治世は同伴者と顔を見合わせ、即、2人で走った。誰かが山越の道を登ってくる。はあはあと息をしながら、必死の形相。
「何かあったのかっ」
同伴者が尋ねたときだった。
男は一瞬両目を見開いた後、突然倒れ、その背後にいた別の男が姿を現した。張。
頬がこけ、目の下に遠目で分かるほどの隈を作り、ぎらぎらと眼光だけを光らせた張が、刀を手に佇んでいた。
倒れた男に近寄ろうと、治世が足を踏み出すと、張は、その鼻先に血の滴る切先を突きつける。
「来るな」
低い声だった。治世と一緒にいた者は、悲鳴を上げて尻餅をついた。
「なんで殺したんだ」
治世は尋ねた。
「大張国から出ようとした」
治世は、張の傲慢さに憤りを覚える。
──王になったからって、民まで自分のものになったとでも思ってんのか?!
「逃げたいような国なんですよ」
治世は好戦的だった。それを受けた張は、懐紙で刀の血を拭い鞘に収めながら、一言。
「ペストだ」
ペストが都で猛威を奮い、各地へ飛散していることは、治世も知っていた。しかし、かかった者はあっという間に動けなくなり、死ぬのだと認識していた。
「その人が?」
走ることができるほど元気だった、と治世は思った。
「発病巣までに潜伏期間がある。誰がかかってるか分からん。大張国から出るなと言ってある」
「殺さなくてもっ」
治世が食い下がる。張にとって人の命は軽過ぎるのだ。戦での肉壁、略奪の放火。治世は、後少しで大張国から一国に逃れられた死体に憐れみの目を向ける。
「殺さなかったらどうする。そっちの鉱山に紛れ込むぞ。いっきにペストが広がる。今、大張国は、毎日山のようにペストで人が死ぬ。一国をそうしたいか」
「……」
治世は黙った。言い返せなかった。戦は相手を倒せばいい。けれど、ペストの倒し方は、誰も知らない。
「そっちの国境警備にも言っておけ。大張国からの逃亡者は殺せと」
「できるわけないだろ」
「甘っちょろいな、治世。お前ら、王がいないもんな」
「それは関係ないだろ」
「関係ある。責任ってやつ」
「責任?」
張は、転がった死体を小脇に抱え、林の中にある坂を下って行った。
「知り合い?」
同伴者が、やっと立ち上がり、服の土を払う。
「張です。大張国の国王」
「はあ? 国王がこんな辺鄙な国境で、警備なんてしてんの?」
かつて肉壁を従えて戦場にいた男が、今は自ら死体を運んでいる。その変わり果てた姿に、治世の胸中には衝撃が走っていた。
「ペスト。」
治世はぽつりと呟いた。けれど、国境警備の者達に「大張国からの逃亡者を殺せ」など、とても言えない。陰鬱な面持ちで国境警備の詰め所に戻った。すると、一緒にいた者が報告する。
「大張国は今、ペストで死体だらけらしい。さっき、あっちの国王がいて、『逃亡者は殺せ』って言ってきた。なんでも潜伏期間っつーのがあって、誰がかかってるか分からんらしい」
治世は仰天した。まるで伝達事項のように「殺せ」が扱われているのだ。確かに報告として間違ったところは何一つない。
「ペストはダメだろ」
「んだんだ」
「ちょっと待ってください!」
治世は、このままでは逃亡者を殺すことになってしまうと焦った。
「どーした、治世」
「そんな、ペストかどうか分かんない人を殺すって言うんですか?」
「殺さなかったらどーする」
「ここまで逃げてこられるってことは、ペストじゃないんですよ」
「潜伏期間って言っとった。ペストだったらどーする。みんなに広がる」
「じゃ、もしも逃げてきた人がいたら、どっか、小屋で10日くらい暮らしてもらって、大丈夫だったら、一国の人んなってもらうとか」
「おおー。えーな、それ。どや?」
視察に来た2人は、国境警備の面々の顔を伺う。すると、皆が目を逸らした。
「食べ物届けるんか? オレらやってかつかつなんに」
「糞尿はどーする。世話するもんが移る」
「もし、そいつが死んだら、オレらが処理するんか? ペストになる」
「おい、その前に、そいつを捕まえたやつはどーなる。そいつだってペストにかかったかもしれん」
「捕まえたやつも一緒に小屋に入るんか?」
知世は、下唇を噛むことしかできなかった。
ぽん
一緒に来た同伴者が、治世の肩に手を置く。
「現実や」
周りにいた者達は、治世に「若いから」とお茶を濁した。
夜寝るとき、治世は駐屯地の宿泊部屋で天井を眺める。ベッドは壁際にある、床から高くなっている横に長いスペース。そこで雑魚寝をするのだ。僻地の宿泊所など、駐屯地しかない。
一応、治世達は橙巾党の幹部で、駐屯地の責任者は平身低頭だったのだが、治世には貫禄がない。同伴者は体力があることで選出された下っ端役人。責任者は自分の居室を持っているが、たった1つのベッドを視察人に譲るはずもない。
屋根の形そのままの斜めの天井からは、ときどきカサカサと虫が動く音がする。
『甘っちょろいな、治世。お前ら、王がいないもんな』『責任ってやつ』
治世は張の言葉を反芻し、考える。
王は必要なのだろうか。皆で話し合い、必要ないと決めた。しかし、大盟帝国にも、新しくできた大張国にも、大南国にも皇帝や国王がいる。責任とは何か。自国から外へペストを出さないことが責任なのか。民の命まで預かり、左右することが責任なのか。
一国は王がいなくても支障がない。一国になる前も、藩王はいたが、統治を行っていたのは朝廷から来た官僚だった。とすると、知事が王ということになるのだろうか。しかし、橙巾党が藩王を降伏させたとき、国が一国のものになった。知事ではない。
どちらにせよ、大張国において、張は、藩王の役目も知事の役目も担っているように、治世には思えた。
──オレ、甘っちょろいんか?
「甘っちょろい」という言葉が、治世に小骨のように引っかかった。
張の冷酷な決断により、国境が血に染まった。
ペストは大張国を地獄に突き落とした。人々がごろごろと死に、田畑は荒れた。
この絶望の病が収束を迎えるまでに、2人に1人の命が失われることとなる。
地獄の中、張の刃が向けられたのは、ただの一度として「無差別」ではなかった。彼が殺害したのは、隔離を破り、大張国から他国へ逃亡しようとした者達のみ。
しかし歴史において、張は500万人いた人口を50万人に減らした惨劇の王として名を馳せている。この数も、彼の残虐さを強調するべく改竄されている。
歴史は、飢饉、蝗害、ペストによる被害者数、そして、後の大水青軍による大虐殺の数までも、罪と共に、すべてを彼1人に背負わせているのである。
*この小説はフィクションです。




