運命の再会
崇和16年。|碧〈ビー》、茉莉、治世が20歳を迎えた2月。
一国軍が長江を渡った一方で、帝都ではペストが猛威を振るい始めていた。やがて訪れる夏のピークに向け、絶望の暗雲が街全体を覆い尽くそうとしている。
呉三魁と茉莉は帝都を訪れることになった。三魁が軍議に参加するためである。
世間の考え方は、三魁にとって、摩訶不思議なものだった。妻を娶ったとたん、一人前の漢として扱われるようになったのだ。更に周りは、子が生まれただけで、責任感のある頼もしい人間と見なす。三魁自身は、結婚前と何も変わっていないのにである。子は双子。すでに歩いている。
「呉家の跡取りとして、皇帝陛下に立派な姿をお見せするのだぞ。軍議でも、自信を持って、堂々と振る舞いなさい」
「承知しました。父上」
北方民族を何度も蹴散らした三魁は、今や天下の英雄。呉将軍は、息子に花を持たせようと山海関から送り出した。
一方、帝都の宮廷は色めき立っていた。
「呉三魁様がいらっしゃるの?!」
「きゃー」
「私は奥様の方が好み」
「はー。あの凛々しいお姿」
「どっち」
「茉莉様に決まってるじゃない」
昨年の式典以来、三魁×茉莉CPは、密かに注目を集めていたのである。神ビジュアルの美丈夫、三魁。軍服の麗人、茉莉。北の果て山海関に置いておくのは勿体ない、と妃嬪、宮女達は狂騒していた。
そして、御簾の間から「御尊顔を拝する」ために、権力を濫用した。折しも、帝都にペストの影が差し始めたころである。彼女たちは、邪気払いという大義名分のもと、軍議の時期に合わせて強引に企画させてしまったのだ。
茉莉は、女性の軍人として、企画側から出場要請が届いた。それ故、茉莉も帝都へ同行することになった。
皇帝陛下との謁見、軍議、武術大会を熟す。
どこでも、橙巾党、一国の話題ばかりだった。一国が援軍を送ったことにより、長江以南の一藩まで大盟帝国の版図から消えたのである。
「…リビー………」
「リビー……」
「………。…リビー……」
茉莉の耳は、そこかしこの会話から「李碧」という響きを拾う。
「それは、人の名ですか?」
尋ねると、官僚達はこそこそと声を落とす。
「一国の政を行っている男です」
「碧」という名は男女を問わず用いられる。軍報を扱う呉家にいる茉莉は、一国について情報を得ている。しかしそれは、軍事的なものが中心であり、王がいない、農民の反乱軍である橙巾党が立国した、南へ勢力を伸ばした、という戦況であった。政治家「李碧」の名は、初めて耳にした。
「男性なのですか?」
「元医師で、計算高く冷徹で狡猾な人間だという噂です」
元医師と聞き、茉莉は、恐らく小さなころから親友だった碧碧のことだろうと思った。政を行う女など、この国では、垂簾聴政をする皇后や皇太后しか存在しない。そのせいで、「李碧」は男と伝わったのだ。噂は「女」であることすら抜け落ちるほど、その他の情報を伝えようとしていた。
しかし、茉莉は、冷徹で狡猾という部分は納得しかねていた。
「農民に支持されているのに、冷徹なのですか?」
茉莉は尋ねた。
「こともあろうに、旱魃と蝗害で貧困に喘ぐ藩を見捨て、南部への足掛かりになりそうな藩と手を組んだのです」
「そうなのですね」
茉莉は返事をしたものの、そもそも窮地に喘ぐ藩を見捨てていたのは大盟帝国ではないか、と感じていた。
別の者達が補足する。
「南部を荒らしまわっている極悪非道の逆賊、張とも手を組んでいたとか」
「バックに山西商人がいるとか」
「足が臭いとか」
「とにかく、胡散臭い男です」
関寧鉄騎の男社会にいる茉莉は、男同士の嫉妬の醜さを知っている。
──碧碧、すごいんだね。きっと。
恐らくは、敵国の老獪な政治家達に嫉妬心を抱かせるほど有能なのだろう、と茉莉は心の中で笑った。
版図が変わるほど揺らいでいる大盟帝国である。官僚や大商人などの富裕層は、自らの生命と財産を守るため屈強な武官の庇護を求めていた。平時であれば、文官より一段低く見られる武官だが、乱世においてはその立場は一変する。彼らは武官に顔を売り、媚びを売ることに徹していた。帝都からは遠い山海関にいる三魁にも、それは例外ではなかった。
「莉莉、サロンに誘われたんだ」
このころ富裕層の間で、私邸に客人を招き、美酒美食、音楽や舞踊でもてなすサロンが流行っていた。
「そうなの。いってらっしゃい」
茉莉は男社会にいるが、特例である。接待が男性用ということは経験から理解している。
「『妻と来ていますので』って断ろうとしたら、『奥様もどうぞ』って言われたよ」
ということで、茉莉も出席することになった。
しかし、『奥様もどうぞ』は社交辞令だったのである。
夕暮れどき、篝火が怪しく照らす庭園。芝生の上に広げられた、巨大な赤い絨毯の上で、3人の舞姫がふわりと長い布を宙で踊らせくるくる回る。宴は既に始まっていた。着席した有力者達の前にはお膳。隣に1~2人、美女がぴたりと寄り添い、酒を注いでいる。三魁に、社交辞令など通じるはずがないのだった。
呉夫婦は、挨拶をして少し腹を満たしてから帰ることにした。
──めっちゃ美味しい。
茉莉は、川魚を添えられた生姜と共に口に運んだ。絶品である。三魁は、皿の隅に置かれていた、見事な飾り切りの鳳凰までぽりぽりと食べた。これは、見て楽しむものであるため、生大根である。彼は、味がしないことを「口直しかな?」と思っていた。
呉夫婦の席にのみ、お酌の美女が誰一人として近づかないという奇妙な様子となったが、当の本人達は、それすらも気づいていない。2人笑顔でご馳走を口に運び、ときどきにこにこと見つめ合い、「美味しいね」と顔を綻ばせる。
いつしか日は暮れ、夜空には、美しい天の川が流れていた。
蘭の花弁を模した細工筍。茉莉はスープの中から一枚を箸で摘んだ。そのときだった。
耳に届いたのは、懐かしい鈴を転がすような声。
ぽと
端から滑り落ちた筍の花弁が、温かいスープの中にゆらゆらと沈んでいく。茉莉の脳裏には優しい穏やかな話し方が蘇っていた。
──苑苑!
茉莉は、その姿に釘付けになった。白磁の肌、優しい目元、気品のある佇まい。赤い絨毯の上、歌うように詩を詠じる苑がいる。人々のざわめき、音を抑えた二胡と箏のBGM。華やかな場の中、2人の空間だけが止まる。
一家心中の炎の中から、茉莉と碧が助け出した苑が、帝都の私邸、篝火の橙色の光の中で凛と立っている。
「狂風暴雨晩江深(きょうふう ぼうう ばんこう ふかし)
画舵無力逐波沈(がだ むりょく に なみ を おうて しずむ)
不畏狂瀾摧玉骨(きょうらん の ぎょくこつ を くだく を おそれず)
唯憂暗浪入閨心(ただ あんろう の けいしん に いる を うれう)」
gemini作
美しくも哀しい恋の詩に、客達から喝采が送られる。
激しい風と、激しい雨。夜の長江は深く荒れ狂っている。
美しく飾られた舟の舵は、激しい波に翻弄され、ただ沈んでいくのを待つばかり。
この激しい嵐で私の体が壊れてしまうことなど、ちっとも怖くありません。
ただ、暗い波があなたを待つ私の寝室にまで忍び込み、この恋心を冷たく濡らしてしまうことだけが恐ろしいのです。
しかし、その場にいた多くの者達が、詩の内容に畏怖を抱いた。この詩は、もう1つの捉え方ができたのである。
北方民族の襲撃、一国の立国、ペスト。大盟帝国は内憂外患に荒れ狂っている。
美しく飾られただけの大盟帝国は、乱世に抗えず、ただ沈んでいくのを待つばかり。
この激しい困難で国が滅びることなど、ちっとも怖くありません。
ただ、人々の生活に戦、略奪、死が入り込み、平穏を壊してしまうことが恐ろしいのです。
茉莉の存在に気づいた苑の美しい瞳が、一瞬、大きく見開かれる。その後、ずっと赤い絨毯の上から、苑は茉莉だけを見つめ、繰り返し、詩を詠じた。箏と二胡の音が絡み合う。視線のように。運命のように。
「莉莉?」
三魁は、妻が恋の詩に感動しているのだと思った。




