心を溶かす重箱
茶を飲み終えた西氏は徐に立ち上がり、テーブルの上に広げられた資料を覗き込んだ。
「ほー。藩主殿下はこんなに小作料を取っていたのですか」「地主は生まれて始めて鍬を持つのでしょうな」「今年は日照りでしたが、小麦は普通に収穫できてよかったですね」
などと言いながら、和気藹々と作業に加わる。碧が計算していた作物の穫れ高と銀換算の半分をちょいちょいとそろばんを弾いて素早く行い、おじさん達が話す均田の境界線を的確に地図に描き、散らかった書類を整理してくれた。その様子を見ながら、碧は思った。
──この人、どの時代のどこにいても仕事できるんだろーなー。ちっさいけど。
夜。様々な所要を熟し、西安の屋敷に帰宅した西氏は、真っ直ぐ夫人の部屋へ行く。西洋から取り寄せた革張りのソファの上、腰掛ける夫人の膝に頭を乗せて寝転がった。
「お仕事、お疲れ様です。風邪をひかないよう、暖かくしなければ。もう若くないんだから」
労う夫人の膝に頬をこすりつけ、西氏は零す。
「女は分からん。接待を断られた。初めてだ」
夫人はころころと笑った。
「まあ。お取引先に働いていらっしゃる女性がいるの? 信ちゃんと取引するなんて、大物じゃない」
西信。夫人からは「信ちゃん」と呼ばれている。
「小難しい小娘だ」
「ま」
「あっちにもこっちにも武器や火薬売ってんじゃねーよって言われた」
「ふふ」
「何を笑う」
「昔、信ちゃん、それを同業組合で言って、お義父様に殴られたじゃない」
すると、西氏は寝転んだまま天井を見つめ、腕組みをする。
「忘れた」
「その小娘ちゃんは、どんな子なの?」
「反乱軍の事務担当。合理的で。17、8歳の棒みたいな、親戚に1人はいそうな子だよ。医館の娘で、自分も医師なのに、文盲の計算ができない男らの意見を聞いてる」
「あらあら」
「家に遊びに来てほしいって言ったら『私はいいから、他の人はどうぞ』だと」
「あたりまえじゃない」
夫人はふーっと溜息をついて膝の上の西氏を見つめる。
「ん?」
「17、8の女の子が、おじさんやお爺さんばかりの場所に行って楽しいわけないじゃない。むしろ苦痛」
「そうか? 美味いものや酒があっても?」
「医館の娘だったら、食べ物なんて普段から不自由していないでしょ」
「じゃ、流行の服や宝石がいいのか?」
「合理的で賢い女の子なんでしょ? そんな見え見えの賄賂、一発で取引がなくなっちゃう」
「……」
ダメ出しを食らった西氏は、寝返りして気をつけの姿勢のまま夫人の膝に伏した。落ち込んだ時の彼のポーズである。
「それで信ちゃんはどうしたの?」
「嫌味言ってやった」
「あら」
「その後、ちょっとでもとっかかりを作ろうと思って、3時間くらい仕事を手伝ってきた。なにせ、字を書くのも計算も、小娘1人しかできんから」
伏したまま話すので、彼の声は夫人の膝でくぐもって聞こえる。
「さっすが信ちゃん。そーゆーとこ好き」
「そ?」
「うん」
気をよくしたのか、西氏はよっこいしょと寝返りをし、再び仰向けになった。
「ちゅってして」
ちゅ
おじさんどころか老人に近い西氏に、これまた同じように歳を重ねた夫人はキスを落とした。
翌日。
「昨日は、夫が大変お世話になりました」
財政部門の橙巾党が詰めるむさくるしい部屋に、白髪まじりの貴婦人が訪れた。ほうれい線は多少あるが、今も尚、白い肌は艶やかで、若かりしころの目も眩むような美貌が想像できる。品のある佇まい、色を押さえながらもセンスのいい服装、纒足のため、侍女の手を借りて歩く姿が色っぽい。
西氏の妻、昨晩、西氏を掌の上ならぬ膝の上で転がしていた夫人である。
お詫びの印だと言って、漆塗りの重箱を3つ差し入れた。そのうち2つは豪華な料理、残りの1つは色とりどりの菓子だった。
「冬場ですから、2日くらいは保ちます。どうぞ、お手隙のときにお召し上がりください。昨日は、大変忙しいのに、我が夫が長々とお仕事のお邪魔をしたようで。誠に申し訳ありません」
滅多に外など歩かないだろう貴婦人に、おじさん達は「ほー」と目も口も丸くしたまま。
夫人は「お仕事頑張ってください」と、優雅に去っていった。
「きれーなかーちゃんやな」
「纒足の人、始めて見た」
「部下やなくって、かーちゃんが来るって。なんか、特別な感じするな」
「わーい。お菓子ですよ」
この特別感が重要だからこそ、夫人が派遣されたのではないかと碧は思った。部下が届ければ事務的で賄賂的。しかし、家族であれば私的な心遣いに受け取れるのだ。しかも、お金持ちの奥様は、滅多に人前に出ない。高度なロビー活動である。
菓子は宝石箱のように美しく、女の子の好きなものを分かっている同性ならではのチョイス。碧は、めちゃくちゃ心を掴まれていた。
──夫人、好き。
4人だけで食べるには多すぎる量。恐らく、持ち帰って橙巾党のメンバーで食べて欲しかっただろう差し入れは、いつも質問に快く答えてくれる財政部門の役人達と共に食べた。美味しい物は心を溶かす。役人達は世間話を仕事の方へ誘導した。
「李碧。毎年だったら、税の勘定で、今頃は家に帰れないくらい忙しいんだが。暇だ」
「そ。税を取り立てるのも、なかなか大変で」
「そうそう。すんなり払ってくれないのを個別で取り立てにいく」
「これから2年、暇になる」
「李碧、仕事をくれ」
などと役人達は碧に催促した。
「いいんですか?!」
碧には、手伝って欲しいことがたくさんあった。しかし、自分よりもずっと年上で経験も知識もある大人達に仕事を依頼するなどできなかった。前日、西氏が手伝ってくれたとき、とても助かったのだ。碧以外の3人の橙巾党はインテリに耐性がなく、役人達よりも年上であっても仕事を依頼するなど腰が引けていた。
役人達は、碧のやりたい方針を聞き、そこから何をすべきか洗い出し、具体的に動いてくれた。その方面に最も明るいプロフェッショナルによる仕事は、整然と爆速で大容量を完遂していった。
「「「すげー」」」
「すごいです」
あっという間に均田免賦は実施された。予算配分の検討、役人の俸給の計算、塩の値段の落としどころ、あらゆることが次々と決まっていく。
橙巾党の3人のおじさん達は感心した。
「学って、必要なんやな」
「金のプロやな」
共に業務をする中で、橙巾党は役人を頼り、役人は橙巾党のおじさん達の見識を尊敬し、すっかり打ち解けていた。
「我々は、税のプロです。金のプロは、西氏みたいな山西商人ですよー」
そんな軽口まで言えるようになった。
◇
ある日、治世の母親と兄が宮廷を訪れた。2人は宮廷をきょろきょろと見回しながら「すごいすごい」と繰り返す。
案内する治世は言った。
「かーちゃん、兄貴、ここで一緒に住まんか?」
そのころ、11人の橙巾党幹部は、それぞれ、部屋をあてがわれていた。役人達が謁見に来た時に宿泊する賓客用の部屋で、そこへ妻や子を呼び寄せたメンバーもいる。
治世の母親は笑った。
「ちゃんと生活しとるか見に来ただけ。私は百姓や」
兄も同様だった。自分も宮廷に住もうとは全く考えていなかった。
「そーやそーや。戦に行って、治世が怪我したんじゃないかって心配で寝れんだわ。元気でよかった。首の傷も目立たんな」
枷号のときの板を嵌めた痕は、皮膚が擦れた出血と、板の重さによる内出血で痛々しかったのだ。治世が宮廷前の広場で晒されていたとき、全てが干からびるような中、彼らは徒歩で2時間かけ、交代で治世に食べ物を届けていたのだった。兄は、治世が山の中のアジトにいたときも訪れ、とうもろこしなどを差し入れていた。
「首は、枷外したときの傷の方が酷かったし。いい薬、塗ってくれたから」
治世は頬を緩め、自分の首に手をやった。碧が傷口を綺麗にし、薬を塗り、化膿止めの飲み薬まで置いて行ってくれたのだ。
「よかったなぁ。あの子やろ? 李碧」
「ええ子やねぇ」
今や李碧の名は、橙巾党幹部として、関係者に知れ渡っている。
母親は言った。
「ええとこのお嬢さんなんやってね。残念やね」
兄は「残念」に含まれる身分違いの部分だけを否定した。
「そこは、今なら治世は誰とでも大丈夫や。苗字がな」
治世が碧をいくら見つめようとも、その間には「同姓不婚」の法が横たわっていた。




