未来を変える3人目の少女
碧は治世の姓を確認していない。医館は薬草を買い取っているのだから、帳簿を見るか誰かに聞けばすぐに分かるはずだった。それをしなかった。
──きっと、李。
9歳の冬、治世は薬草を売る父親と共に来た。立派な狼になった蘭を連れていて、道行く通行人から避けられていた。人懐っこい笑顔は変わらない。ただ、その年は不作だったため、親子はとても痩せ細り、服からは細い手首が覗いていた。
「蘭蘭は何を食べるの?」
碧は治世に尋ねた。
「こいつ? 勝手にどっかでなんか仕留めて食ってる。な。狼だもんな」
治世は蘭の毛をわしゃわしゃする。
「えらいね。自分で食べてるんだ」
「でもさ、あんま、出歩かせないようにしてんだ」
「なんで?」
「家畜を襲ってるって疑われるから」
「疑われたの?」
「……」
治世は無言で頷いた。
「しないよね。蘭蘭」
蘭は心配そうに治世を見つめる。
「食べ物がないのは、人間だけじゃないからさ。それ分かってて、人間が、動物のせいにして家畜を襲うんだ」
「疑われたままなの?」
「大丈夫。鶏小屋に矢が残ってたから」
「よかった。って、食べ物がちゃんとある方がいいんだよね」
「役人の家の倉庫にはある」
「え?」
「オレらから余分に取ったやつが」
治世は、子供らしくない、昏く鋭い眼をした。
役人の不正なら知っている。歴史の授業で何度も習った。けれど、頬のこけた治世を前にすると、それは文字の知識でしかなかったと気づかされる。
「ちょっと待ってて」
両手をパーにして治世をその場に止め、碧は台所へ走った。器の中に、冷えたご飯が残っていた。急いでそれを筍の皮にのせ、上から塩を振って、治世の元へ戻る。
「へへ。食べよ。喋ってたら、お腹空いてきちゃった」
「いーの?」
治世は目をきらきら輝かせた。
「うん」
「すっげー。白米じゃん。すげ。うま。うっま。ヤバ。白米なんて何ヶ月ぶりだろ」
「蘭蘭も食べる?」
「わん!」
米を作っているはずの農家の治世が満足に食べられず、米作りなどしていない自分達が満足に食べていることに、碧は胸が締め付けられる思いだった。
碧は黙って、隅の方の白米を一口食べた。塩味がした。自分が食べるよりも、治世が美味しそうに頬張っている姿を見る方が碧にとっては幸せだった。
まだ半分残っているところで、治世は止まる。
「これ、親父にあげていい?」
その言葉に、碧は胸を刺し貫かれたような痛みを感じた。
──李治世。この少年が、数十万の反乱軍を率い、大盟帝国を滅ぼす男になる。
◇
10歳の6月、小雨、霧。私塾の帰り、碧と茉莉は1本の傘を差して学師が住む庵へ向かって駆けていた。
すると、2人の横に瀟洒な2頭立て馬車が止まった。
「碧碧、莉莉」
窓から鈴を転がすように可憐な声が聞こえた。私塾で共に講義を受けている美貌の少女、紫苑だった。
「「苑苑」」
彼女は高級官僚の令嬢。本来なら家庭教師を家に招く身分であり、碧たちのような庶民と同じ私塾へ通うことなどあり得ない、深窓の令嬢だった。当然、幼い頃から纒足を施されているので、通学は馬車であり、授業が終わるまで、別室で侍女が待機するという状態だった。
ちなみに、私塾に通う女子というのは、経済的にも家名的にも纒足をするかしないかの境界辺り。纒足女子は多く、侍女の待機所は、侍女達にとっての社交場になっている。
紫苑は美しいばかりか聡明だった。詩歌を詠むのが得意で、内容の雅さは10歳にして秀で、いつも講師を唸らせるほどだった。何よりも立ち姿だけで周囲の目を引く華があった。
現代の世界で「知の女神」と言われた碧は、この時代ではウケない。小顔すぎ、目が大きすぎ、手足が長すぎ、痩せていて貧そうな印象を与えてしまう。性格はそのままなので、人の輪の中心にいるという存在は変わらなかったけれど、やや粗野で、残念ながら羨望の美少女ポジションからは遠い。
「どうぞ。乗ってくださいな」
「唐様、李様、お乗りください」
苑が声をかけると、侍女は自分が濡れるのも厭わず、碧と茉莉が馬車に乗るのを丁寧に手伝ってくれた。
「「ありがとうございます」」
「お二人は、学師様のところへ行くの?」
「「うん」」
「私もご一緒していいかしら。いつも、とても羨ましいと思っていたの」
「「うん」」
フレンドリーに話しても言葉遣いは乱れない。所作の一つ一つが美しく優雅だった。それを見て、碧は尋ねた。
「ねーねー、苑苑はさ、どーして私塾に通ってるの? ほら、官僚のお嬢さんって家庭教師じゃん」
直球。捻くれた者だったら「来るんじゃねーよ」と受け取ってしまうような言葉だった。それでも碧碧が発すると、悪意などまったくない素直な疑問だと分かる。
「そうね。貴方達に会いたかったのよ」
苑は微笑む。
碧は苑の腕に両手を掛けて揺さぶった。
「ナイス! でもさ、ほら、そんな言葉で誤魔化さなくったっていーじゃん」
「ふふふふ」
苑は嬉しそうに笑い出す。
「ほら、これ。こーゆーのがしたかったの」
苑は自分の腕を持っている碧の腕に手を添えた。碧は動きをぴたりと止め、それを見ていた茉莉も首を傾げる。
「家庭教師では、同じ年の女の子に会えないわ」
それを聞くと、碧は花が咲いたように笑顔になった。
「マジでうちらに会いたかったんじゃん!」
「そうなの。マジなのです」
茉莉も喜んで、苑のもう一方の腕を手に取って揺さぶった。
「「あははは」」「ふふふふ」
この日、雨が降っていなかったら、紫苑は2人に声をかけなかっただろう。茉莉が纒足だったら、2人は外を駆けていなかっただろう。
紫苑。後の名を陳円円。大盟帝国の次の王朝の運命の鍵を握る絶世の美女。しかしこのとき、彼女の数奇な運命を知る者は誰もいなかった。
紫苑が加わり、3人は「おじーさん」の下で学ぶようになり、かけがえのない親友となった。
3人は熱心に学んだ。政治を戦術を詩歌を。
「ねーねー碧碧。どーしてそんなに大盟帝国の初代皇帝にこだわるの?」
茉莉と苑は、碧の熱心さに鬼気迫るものを感じている。
「初代皇帝はね、農民だったんだよ。凄くない?」
「凄いわね」
「凄いけどさー」
「普通、ただの農民だったら、逆らって殺されて終わるじゃん。それが国創っちゃったんだよ」
「そうですね」
「知ってるけどさー。それをどーしてそこまで深掘りすんの?」
「それは……」
──大盟帝国の初代皇帝は成し遂げられて、李治世は成し遂げられなかったから。
ときどき、碧は2人に打ち明けたくなる。自分は未来から来た人間で、この先、大盟帝国は滅び、北方民族が支配する時代が来ると。現在の大盟帝国は内憂外患。すでに各地で暴動は始まっている。
「老師、大盟帝国の初代皇帝は、戦に強いリーダーだったと思います。しかし、戦の強さと政治は別物。すでに国という組織があれば、戦と政治を分業できますが、大盟帝国のスタートは、まだ政治をする組織がありません。初代皇帝はどうやったのでしょうか」
7歳のころ「おじーさん」と呼ばれていた老人は、現在「老師」と呼ばれている。
「ほう。李碧は、真に大盟帝国の初代皇帝を英雄だと崇めているなぁ」
老師は仙人のように長い髭を撫でる。
「はい」
「正直な男だったのだ。こういう国を創りたいというビジョンがあった。そのためにどうすればいいのかを、官僚達に頭を下げて教えを請うたのだ。正直に自分が学がないことを曝け出して」
「そんなことをして、官僚達にバカにされなかったのですか?」
「官僚というものは、プライドが高い。だが、誠心誠意頭を下げられれば、心を動かされる。……。バカにする者もいた。そういう官僚は、反逆者として凄惨な方法で排除されたのだ」
「誠心誠意」
話を聞くとき、碧は全てに治世を想像している。そして思うのだった。
──こんなことなら、ペーパーテスト特化の勉強じゃなくて、もっと理解しておけばよかった。
大盟帝国の初代皇帝と李治世の違いを。




