大盟帝国滅亡まで13年
7歳という年齢は、人生の土台を決める過渡期だった。教育に付随する環境や人間関係はその後の未来に繋がっていく。
隣同士で仲がいいこともあり、碧と茉莉は同じ女子私塾に通うことになった。
この時代、女子の教育は家庭教師を雇うのが通常。しかし、それでは金銭的な負担が大きい。町には、近所の商家が何軒かで費用を出し合って運営する、女子の私塾があった。学ぶのは、読み書きそろばん、礼儀作法や刺繍、そして楽器。
碧と茉莉は、入学早々、神童と呼ばれるようになった。
碧には現代に生きていたときの記憶がまるっとあったし、茉莉は、現代のことは忘れているように見えたけれど、頭脳スペックは高校生のまま。皇族や官僚の娘にエリート教育を施す学師達が、2人の噂を聞きつけて会いに来るほどだった。碧は経済や政治に、茉莉は戦術や軍規に興味を持った。女子教育の枠から完全に逸脱した好奇心は、彼女達に「友人」という名目の最高峰の学師を与えた。
「ね、ね、碧碧。おじーちゃんとこ、遊びに行こ」
この「おじーちゃん」は、朝廷を引退して街に隠居している、元エリート官僚の少々変わり者の老人だった。
「うん。なんか、部活みたいだよね」
碧はふと、放課後に黙々と校庭を走っていた16歳の茉莉の姿を思い出す。
「部活ってなに?」
当時のことを覚えていない茉莉は首を傾げる。
「あはは。なんでもない。体育の授業もあればよかったのにね」
「たいいく?」
茉莉はきょとんと目をまんまるにするだけだった。
◇
冬、西安の街には、1年の仕事の区切りを楽しむための人々が集まってくる。豊作だった年は、街にいっそう活気が溢れる。この年も、治世が、薬草を売る父親と共に碧の医館に現れた。足元には1匹の犬がいる。
「治世! ありがと」
姿を見るなり、碧は突然、お礼を言った。
「オレのこと覚えててくれた? 碧」
「うん」
「なに、いきなり『ありがと』って」
「こっちこっち、こっち来て」
碧は「遊んでくる」と父親に告げ、治世の腕を掴んで外に連れ出す。犬はとことこと後を追ってきた。
医館の外にある石垣に2人並んで腰掛けた。犬は治世の足の間にすっぽりと入ってお座りする。碧は、話したいことがあったけれど、犬が気になって訊かずにはいられなかった。
「その子、治世の?」
「そ。狼。山で拾ったんだ」
「狼なの?! え、すごっ。怖いの?」
「ぜんぜん」
「触れる?」
「うん」
碧は、そっと手を伸ばして、狼の頭を撫でた。狼は、撫でられると少し目を細めて尻尾を揺らす。
「蘭って名前。まだ子供なんだ」
「蘭蘭。あ、尻尾振った。ぶんぶん振ってる。かわいい!」
にこにこしながら碧は蘭を撫で続け、ようやく本来伝えたかったことを話し始めた。
「あのさ、治世、去年、狼の牙くれたじゃん」
「ああ。うん」
「あれのおかげで、莉莉が纒足しなくて済んだの」
「は? なんで?」
父親が医師だったこともあり、碧は薬草の知識が豊富だった。「意識はあるけれど体が動かなくなる無毒の薬草」を探したが、そんな都合のいいものはない。代わりに見つけたのが、有毒ではあるけれど、調合によって限りなく無毒化することはできる白曼陀羅だった。実験は自分の体を使った。死んでも、現世に戻るだけのような気がしたから怖くなかった。そしてもう1つ確信めいたものがある。
──莉莉の纒足を防ぐためにこの世界に来たなら、たぶん、死なない。
結果、手足の自由だけを奪う期待の薬を完成させた。大人と子供では体重が異なるので、その点に関しては不安があったのだが。
決行日、夜、碧は家を抜け出し隣家の庭から茉莉の父親の書斎に忍び込んだ。薬は茉莉の手によって、茶に密かに混ぜられた。
しばらくして、薬が効いた父親が机に崩れ落ちる。
碧は戸棚の扉を少しだけ開け、唇に薬を包んでいた薄紙を当て、声を不気味に変質させた。
『我が勇ましき北方民族の子孫よ』
碧は、精一杯低い声で響かせた。
『大地に生まれ、草原を、険しい山々を駆ける誇り高き我が子孫よ』
その言葉が合図だった。あらかじめ蝋燭が消えるよう、風のルートを確認済み。茉莉は窓を小さく開けて強い風を一瞬部屋に入れ、蝋燭の炎を消す。
隙間から見える月明かりの中には、茉莉の父親の背中。
『娘から大地を進む足を奪ってはならぬ。大地を進む足を奪ってはならぬ。決して、足を奪ってはならぬ』
戸棚に隠れていた碧は、そっとそこから這い出し、伏している茉莉の父親の背後から、繰り返した。
『決して、足を奪ってはならぬ』
最後に仕上げをした。意識はあるのに体の感覚がない父親の右手に、治世からもらった狼の牙を握らせたのだった。
そして、何事もなかったかのように、2人とも床に戻った。
「ってのをしたの」
「はあ?!」
「だってさ、纒足なんてしたら、走れなくなるんだよ」
「でも、いいとこに嫁に行けるんだろ?」
「そんなんで莉莉が幸せになるわけないじゃん!」
「碧碧って、変わってるな」
話を聞く間、治世の足の間の狼は、落ち着きなく立ったり座ったり回ったりしている。
「狼ってこんなにかわいいんだね。蘭蘭」
褒められたのが分かったのか、蘭は丸い目を大きく見開いた。碧には嬉しそうに見えた。
「こいつ、今、子供の歯が抜けてさ、生え変わったんだ。ほら」
治世は蘭の唇を指で下げて、かっこいい牙を碧に見せる。
「わー。ぴっかぴか」
「1個、無くなったんだろ? ほら、ちっさいけど、これ」
治世は大切そうに懐から取り出したものを、碧の掌にそっと載せた。蘭から抜けた、小さな乳歯の牙だった。
「ありがと。大事にする」
治世は、にぱっと人懐っこい笑顔を見せた。その笑顔は蘭とお揃いで、碧はなんとなく嬉しくなって、たくさん笑った。
◇
──莉莉を纒足から守ったんだけど。
碧はベッドの上、四肢を大の字に投げ出して天井を見つめた。
──なんで元の世界に戻んないんだろ。
自分の使命が茉莉の脚に纒足をさせないことだとしたら、この世界に来た役目はとっくに果たしている。日々勉強づけだった現代に戻りたいのかと問われれば、正直、どちらでもよかった。
──今って、西暦何年だっけ。
大盟帝国であることは、髪型や服装で分かっている。大盟帝国の前と後は、北方民族の支配下にあったので、分かりやすかった。
──スマホなくて不便。あーっもう。
年号確認すらできない。
──コンビニもないじゃん。
ぱさっ
碧は顔の上に読みかけの教科書を伏せる。ちょうど、お茶の淹れ方が書かれているページだった。中身が現代人の碧には、「美味しい」と言われる高価な熱いお茶よりも、コンビニのペットボトルの便利さが勝る。コストを考えれば水道水。この時代には、水道すらない。
ごろごろとベッドの上を転がり、手足をバタバタさせる。心の中で「スマホ」「コンビニ」「自販機」と叫ぶ。
ぱさりとベッドの上から教科書が落ちてしまった。拾い上げるとき、最終ページにあった製造年月日に目が留まった。
”大盟帝国 崇和四年九月”
皇暦。瞬間、碧は飛び起き、ベッドの上で正座した。
──崇和帝って、大盟帝国の最期の皇帝じゃん。
大盟帝国は崇和17年まで。崇和帝は王城近くの丘の上で首を吊って自害する。
このままなら、現在8歳の碧が21歳のときにそれが起きる。
教科書にあった崇和17年は激動の年だった。
貧困と飢えから各地で民衆が蜂起していた。その反乱軍の代表、李治世の軍が王都を包囲。
3月19日 崇和帝の死によって大盟帝国が滅びる。
李治世が王城の主となったが、長くは続かなかった。李治世の組織は巨大化し、統制が取れなくなっていた。略奪や暴行が横行していた。北方を守る将軍、呉三魁は、最初、李治世に投降つもりでいた。しかし、愛妾が李治世軍の者に拐われたと知ってブチキレた。
4月21日 呉三魁は北方民族を防ぐためにあった長城の門を開けた。
4月22日 李治世軍 V.S. 呉三魁軍&北方民族
李治世軍は大敗。王都へ戻る。
4月29日 李治世は王城に火を放ち、逃亡。
5月2日 北方民族の水青王朝が始まった。
それは崇和帝の死からたった44日後のこと。
「ちょっと待って」
碧は思わず声を上げた。狼の牙をくれた少年の顔が浮かぶ。
「治世の姓は、まさか。」




