涙の君の脚を纒足から守れ
ぽつり ぽつり
赤茶色のクレーの地面に、降り始めた雨のような水滴が落ち、色を変えていく。その涙の美しさに、李碧の心は激しく焦がれた。
女子1500メートル走が終わり、トラックへ次々とハードルが設置されていく。雲ひとつない群青の空の下、唐茉莉はトラックの脇で地面に両手両膝をついたまま、ただ地面に涙を落としていた。
李碧が見る唐茉莉はいつも走っていた。朝登校したときは、すでに汗をかいて走っていたし、下校するときはもちろん、休日に学校の図書館へ行ったときも黙々と一定のペースで筋肉を躍動させていた。日に焼け、しなやかな筋肉に覆われたアスリートの脚は、積み重ねてきた年月だけが成し遂げられる美しさを誇っていた。
──あの日々があったから泣けるんだね。
と李碧は思った。
李碧は、生徒数1万人を超える進学校において、異次元の存在だった。模試の順位は常に学年一桁をキープし、誰もが見惚れる圧倒的な美貌を持つ。それでいて気取らず、よく笑い、常に輪の中心にいる。男子の羨望を一身に集めるだけでなく、女子からも絶大な支持を得るトップカーストの象徴だった。
「碧碧、男子が手ぇ降ってるよ」
「私にじゃないかもしれないじゃん」
「あれは碧碧でしょ。ほーら、揃いも揃ってでれっでれの顔」
「碧碧も手ぇ振ってあげな」
「そうそ。いい記録出るかもよ」
「じゃ、みんな、構えて。振るよー」
一緒にいる女子で一斉に手を振り返す。と、他校の生徒までにこにこと手を振ってくれた。
「なんか、手ぇ振ってる人だらけになっちゃったね。逃げよ」
「「「あはははは」」」
「きゃは。待って」
笑いながら、女子数名で観客席から退散する。
競技場を出たとき、李碧は足を止め、巨大なスタジアムを振り返った。グレーのコンクリートの壁がそそり立っている。その向こうにはアスリート達の熱い戦いが続いているのだろう。
「碧、どーしたの?」
「ううん。行こう」
この日、李碧はインフィールドで行われている友達の棒高跳びの応援に、友人数人と競技場を訪れていた。そこで偶然、唐茉莉の涙に心を奪われたのだった。
不意に李碧の視界が白くぼやけ歪み、喧騒が止む。背後から聞きなれない音が聞こえ始める。銃声、砲轟、悲鳴、怒号。振り返ると、そこにあったのは競技場のコンクリートの壁ではなく、青磚の城壁だった。再び音が消え、辺りが白い靄に包まれる。
数秒後、李碧は、何百年も昔、大盟帝国の時代に生きる医師の、7歳の娘になっていた。
驚愕はそれだけではない。隣の大きな布荘(布屋)の娘として暮らしていたのは、あのときグランドで涙を落としていた、同じ歳の唐茉莉だった。
2人は毎日、近所の子供たちと無邪気に路地を走り回った。年上の男の子たちがどれだけ本気を出そうとも、追いかけっこで唐茉莉の右に出る者はいない。茉莉は李碧にとって自慢の親友だった。そして唐茉莉にとっても、大人顔負けの知識を持つ李碧は、世界で一番信頼できる親友だった。
「莉莉はやっぱ走るの速いね」
「やっぱって? 碧碧」
「なんでもない」
李碧の頭の中には、この大盟帝国で育った7年間の思い出と、唐茉莉が鮮烈な涙を流していた、高校生までの記憶が、共存していた。
冬、李碧と唐茉莉は雪を投げて遊んでいた。2人が住む、都から遠く離れた西安は、そこそこの大都市だった。李碧の父は医師だったので、医舘に薬や薬草を売りに来る者がときどきいる。秋の収穫が終わった農閑期、農民が薬草を売りに来るのは風物詩のようなもの。1人の男が子供を連れて薬草を売りに来ていた。
「あーそぼ」
蓑を纏った男の子は家の前で雪を投げ合っていた碧と茉莉に声をかける。目が合った瞬間、碧は雪玉をぶつけて、きゃっきゃっと笑う。そこから雪合戦が始まり、なんとなく終わり、3人でのお喋りが始まった。
「どっから来たの?」
碧の質問に、男の子は「あっち」と山の方を指差す。男の子の名前は治世だった。
「治世、雪投げるのすごいね。遠くまで飛ぶ」
茉莉は興奮気味に話す。近所の男の子達は、茉莉ほど遠くまで投げられない。治世は違った。圧倒的に遠くまで投げられるし、狙いも正確だった。力加減をしているだけで、本当は速い玉も投げられるのだろう。
「そ?」
答えながら治世は座ったまま傍にあった雪を固めて自慢げに遠くへ飛ばす。
「「すごっ」」
ぱちぱちぱちぱち
拍手に気分をよくした治世は、2人に1つずつお守りを渡した。
「これ何?」「なーに?」
白っぽい、子供の親指ほどの大きさの硬いもの。
「狼の牙」
「「へー」」
「オレ、クマに襲われたことあってさ。そんとき、これ持ってたら、本当に狼が助けに来た」
もともと北方民族の間で、狼の牙は魔除けのお守りである。治世はそのとき、猟師からもらった牙を懐に持っていた。
狼の牙がお守りになる話を、茉莉は知っていた。
「あ、聞いたことある。うちのおとーさんね、北方民族の血がちょっとだけ入ってるの」
「「そーなの?!」」
命が助かった治世は、牙に穴を開けて紐を通し、いつも首から下げているという。治世は襟をぐっと下げて紐を手繰り寄せ、2人にそれを見せた。茶色の皮紐には、牙がぶら下がっている。
「「ありがと」」
2人はお礼をしたかった。人目を盗んで手に取ったのは、土地神様にお供えしてあった饅頭。3人で1個ずつ食べた。
普段なら人から何か貰ったとき、碧も茉莉も親に報告する。けれど、お供えの饅頭でお返しをしてしまったため、3人だけの秘密になった。
◇
ほどなくして茉莉が世界が終わるかのような顔で碧のところへ現れた。
「碧碧。私、纒足しなきゃいけないって言われた。遅いくらいだって」
纒足は、布で足をきつく縛り上げ、小さいまま成長しないようにする習慣で、主に富裕層が娘に施す。満足に歩くこともできなくなるそれは、働かなくても裕福に暮らしていけるという豊かさの証だった。
「莉莉んちはお金持ちだもんね」
碧は、茉莉に何度も纒足の話が持ち上がったことを知っている。けれど、茉莉の母親が「あの子は走り回って遊ぶのが好きだから」と引き延ばしていた。もう7歳。骨の成長を考えれば、纒足のラストチャンスだろう。
そのとき、碧の脳裏に一陣の風が吹き抜けた。
赤茶色のグランドに両手両膝をつき、大粒の涙を落としていた16歳の茉莉の姿が鮮烈に浮かんだ。そして次々と様々な日々の茉莉の姿が頭の中に蘇る。ただ黙々と走る姿。腿や脹脛に浮かぶ美しい筋肉。太陽が照りつける日も、肌を切るような風の日も、学園祭の翌朝も、模試の前日も。彼女はいつも走っていた。
「今までみたいに碧碧と一緒に遊びたいよぉ」
7歳の茉莉は口を大きく開け、顔をくしゃくしゃにして、おんおんと泣き始める。
その姿を前に、碧の小さな頭の脳は考えた。
──なぜは、7歳に転生したの?
なぜ陸上大会で莉莉の姿を見た後だったの?
莉莉を纒足から救うためじゃない?
「分かった。莉莉、協力して」
碧は、運命に近い使命を感じた。
ある夜、茉莉の父親は、いつものように部屋で1人、蝋燭の光を頼りに帳簿の整理をしていた。なぜか酷い倦怠感に襲われ、体に感覚がなくなり、ついには机につっぷして動けなくなった。視界と頭に靄がかかっているようだったが、かろうじて意識はある。人を呼ぼうにも、口を動かすことすらかなわなかった。
しばらくすると、どこからともなく低い声が聞こえた。
「我が勇ましき北方民族の子孫よ」
静けさの中、その声は怨念でもあるかのような重々しい響きだった。
「大地に生まれ、草原を、険しい山々を駆ける誇り高き我が子孫よ」
そのとき、どこかから風が吹き、蝋燭の灯りがゆらりと消えた。部屋は障子窓からの青い月明かりだけとなった。
「娘から大地を進む脚を奪ってはならぬ。大地を進む脚を奪ってはならぬ。決して、脚を奪ってはならぬ」
茉莉の父親の頭には「脚を奪ってはならぬ」という言葉が繰り返された。ようやく動けるようになったとき、手には狼の牙を握っていた。
「ぅわぁぁ……」
茉莉の纒足話はなくなった。今では、唐家の先祖の位牌の前に狼の牙が置かれているらしい。
読んでくださって、ありがとうございます。
当初の予定では、李碧を現役高校生インフルエンサーにする予定でした。
中国はインスタがないよねとか、日本と違って人口多いよねとか気づき、調べてみたところ、そもそも学校におけるカーストの定義が違いました。中国では、成績がいいことがトップカーストの絶対条件だったのです。勉強をおろそかにしてキラキラしていると、周囲から冷ややかな視線を浴びる文化なのだとか。
というわけで、当方の価値観としては、成績よりもコミ力なのですが、賢い李碧になりました。w
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。




