一国
磨き抜かれた床の上には、異国で織られた見事な絨毯が敷かれていた。西洋の蔦模様が緻密に彫刻されたマホガニーのテーブルと、揃いのイス。その上には、青い幾何学模様が鮮やかな磁器の大皿に盛られた料理。絨毯1枚で、イス1脚で、ここで雑魚寝している者達は何年も生活できるだろう。碧は、身分制度の激しさを感じた。
蝋燭の元で1人、紙に、しなければならないことをメモしていく。
"・来年度の公共事業見直し
・役人の賄賂、不正禁止の徹底
・役人など人件費見込み
・軍事費見込み(帝都侵攻も含め)
・均田免賦:藩王の領地を小作人に渡す
・均田免賦:役人が不正に取り上げた土地を洗い出す
・均田免賦:土地を失う地主の処遇
・駐屯地の北方の後方支援について"
こんこん
「ここ?」
「この部屋でいいんだっけ?」
「橙巾党です」
扉をノックする音と話し声が聞こえた。碧は、治世の声に心臓が跳ねる。
「はい」
返事をして扉へ駆け寄るよりも早く、外から扉が開けられた。
「あ。碧じゃん」
碧の目の前に現れたのは、40代と30代の仲間。治世はその後ろにいる。
「合流しました」
と碧は宣言。けれど、治世は「ちょっと」と碧を廊下へ呼び出した。
静まり返った廊下で、治世と碧は向き合って見つめ合う。夜。壁沿いにぽつんぽつんと置かれたガラスの器の中で蝋燭の炎か揺れている。長い廊下に幾つもの灯火が続く光景は幻想的で、まるで下界から切り離されたよう。
彫りの深い治世の顔は、数ヶ月前の枷号の夏とは人相まで違って見える。碧に汗の匂いが届く。橙色の旗を振り、藩王と対峙し、戦に備えて奔走した匂い。
会いたかった。待っていた。碧はそう言いたかったし、そう言われると思っていた。
「帰った方がいい」
それが治世の言葉だった。碧の胸いっぱいに広がっていた恋心が砕け散る。
「なんでそんなこと言うの?」
「碧は、医館のお嬢さんだろ。オレらとは違う」
「違わない」
「……ぜんぜんちげーよ」
「もう、家出てきちゃったから、帰れない」
「帰れる。まだ1日だろ。なんなら、オレが送る」
──なんだそれ。
今夜は帰りたくないの、という据え膳を断るかのような言い草に、碧は頭にきた。
「自分のことは、自分で決める。帰・り・ま・せん!」
治世は困った顔をする。碧は怒りながらも、治世の少し眉が下がった顔も素敵だと思ってしまう。
「女の子がいる場所じゃないって」
「……今日さ、治世もみんなも、すっごくかっこよかったよ。西安中の人に歓迎されて。そーゆー話、したかったの。治世に言われたくらいじゃ私は帰んないから。だから、そーゆー話、しよ?」
碧は治世を拗ねたような顔で睨む。
治世は橙色の巾を取って、ばりばりと頭を掻いた。
「オレ、枷号見られてっからさ。今更、かっこよかったって言われても」
確かに。治世は、首の枷以外にも、とても人間的ではない羞恥の姿が人前に晒されたのだ。
「今日、サイコーだったよ。みんな」
そこで、部屋からお呼びがかかった。
「何やってんだよ。食えよ。治世。体もたねーぞ」
2人は部屋に入った。碧は、席に着いても、心の中がもやもやしていた。
──枷号のとき見られたって。そんなの、もう今更気にしてもしょうがないじゃん。むしろ、それでもこんなに好きってとこを評価してほしーよ。好きなんて言えないけど。
「碧、待ってたぜ」
「オレら、割と、見えてないとこあるじゃん。戦の手筈とかさぁ。碧がいてよかった」
治世以外の2人は、歓迎を言葉にしてくれたのだった。
──治世のばーか。治世なんか、治世なんか……もう十分辛い思いしたよね。これから上手くいきますように。
「おう、治世、今度祝杯しよーぜ」
「今日、駐屯地で言われたんだ。祝杯もあげずに仕事かって」
おじさん2人は「酒!」とめでたさに喜んでいる。
「うまい酒んなるぞ」
「なんなら明日」
碧はにこにこ頷きながらも、あくびを連発。1人、部屋に行って眠った。横になった瞬間、体が布団に溶けた。
国名、国王なし、知事、財務長官、司法長官不在のまま次の日を迎える。
各々が手分けして走り回った。ある者は反乱軍として城門を囲んだ者達に報酬を渡し、ある者は官軍との戦に備え、ある者は北方の駐屯地に関する処理をし、ある者は均田免賦を考えた。碧が担当していた均田免賦については、予想外にスムーズにことが運んだ。役人は農民から取り上げた土地をなかなか手放さないだろう、と碧は推測していた。
ところが。
逃亡した司法長官が舞い戻り、不正に入手した田畑に関する書類を司法部門の役人に提示させた。
財政部門の役人達は「お逃げになったのかと思いました」と皮肉を言った。禁鐘が鳴ったときに知事公邸に行っただろうことは、皆分かっていたからだ。
白髪混じりで長身のロマンスグレー、司法長官は正直な男だった。
「逃げた。だが、途中、他の街で暴動を見たのだ。暴動が正しいことになるなら、法を根底から変えなければならん。そんなことができるチャンス、なかなかない。まあ、帝都に帰ったところで、自分のポストはない。仮にどこかに収まったとしても、猜疑心の嵐が吹き荒れていて、いつ粛清になるか分からんから怖いというのもある」
現在の崇和帝は異常なまでに疑い深く、要職の官僚達を次々と罷免、処刑していることは有名な話だった。
財務部門の役人達は、あからさまに「嫌なヤツが帰ってきた」という顔をした。中央からのエリート官僚は疎まれるもの。そんなことは重々承知だとでもいうように、司法長官は田畑を不正に入手した役人のリストを手に取った。
「これを発表して沙汰を言い渡す嫌われ役は、私がやろう。同僚を庇いたい気持ちは分かるが、均田免賦が実施されれば、小作人はいなくなる。農家以外は田畑を持てない」
役人達は「あっ」と顔を見合わせる。田畑を取り上げられるのは、不正をした役人だけではない。この政策は、社会の仕組みを根本からひっくり返すのだ。大地主の富は解体され、誰もが自分が耕せる分だけの土地を持つ。
司法長官は、やや愉快そうに唇の端を上げると、財政部門の建物の隣に建つ、司法部門の建物に戻るべく扉へ向かった。
橙巾党の1人が、その後ろ姿に誇らしげに言った。
「橙巾党には、略奪したら死刑って決まりがある」
司法長官は後ろ姿のまま答えた。
「覚えておこう」
碧は、司法長官は橙巾党の味方だと直感した。
◇
最初の戦いは、3週間後だった。西安駐屯地の兵が北方支援のための武器を送る途中、襲撃された。
西安の藩王が統轄していたエリアというなら、北の国境の駐屯地も含まれる。しかし、この藩の領地は南北に長く、西安はその南の方に位置する。そして、遥か北の国境にある駐屯地は、今なお大盟帝国朝廷の直轄であり、反乱軍には恭順していなかった。
西安駐屯地は、北方支援のための最重要拠点である。反乱軍が西安を制圧した現在、北方支援を続けることは、敵となる大盟帝国を援助することになる。話し合いは難航した。だが、援助をストップすれば、北方民族と国境の最前線で戦っている兵士達が困る。
戦になることを覚悟して、橙巾党は物資を届けに行った。道中で襲撃してきた北の駐屯地の部隊を返り討ちにし、そのまま一気に国境の長城まで北上。北の国境にある駐屯地を降伏させた。これによって、西安の旧藩王の領土全てが手に入ったと言える。
西安に凱旋した兵士達は英雄だった。そこには、治世がいた。
「もう、国の名前、考えようや」
戦を労う場で誰かが提案する。
「どんな名がいい?」
「大盟帝国に対抗できる国や」
「な、治世」
皆が見守る中、治世は唇の両端を下げる。
「ムズい字はちょっと。誰でも書けるのがいい」
次に視線が集まるのは碧だった。文字を知っているのは碧しかいない。
「”一”とか。横に線1本です」
「一国か。よくね? 1番な感じ」
「おお、それにしよう! 書ける読める」
──ええーっ。そんな決め方でいーの? 願いとかビジョンとか。
碧が顔をこわばらせていると、治世はぽんと碧の肩を叩く。
「じゃ、そーゆーことなんで、かっこよく発表するの、考えて」
「はあ?!」
「得意じゃん。ムズいこと言うの」
言いながら、にぱっと笑う。出会ったときの面影が残るその笑顔に、碧は太刀打ちできないのだった。
──ずるい。




