空の玉座
宮廷内の謁見の間までは長かった。
生まれて初めて入る宮廷は、橙巾党の11人にとって別世界。白い玉砂利の広大な前庭に雑草1本なく、全てが瀟洒で威厳に満ちている。11人は、先導する宦官の後ろをきょろきょろしながら歩いた。
他の橙巾党のメンバーは、城の外で待機している。中には何があるか分からない警戒心もあったが、略奪防止も兼ねている。これは、長老が提案したことだった。
『あれ見たら、みんな理性を失うかもしれん』
『じーさん、あれって、何か見たんか?』
『庭直しに行ったことがある。まー綺麗やぞ。男も女もみんな白い』
『そりゃ、オレらみたいに1日中外じゃないからな』
『廊下に飾ってあるちょっとしたもんも、なんでもかんでも金かかってそうやった』
『そりゃ藩王んとこだからな。特別』
『我を失う者もいるやろぅ。宮廷に入れん方がいい。入れるなら、30人くらいが限度やろ』
そして、11人はあと20人の信頼できる者を選ぶことができず、11人で臨むことにした。緊急事態にはドラで外にいる無数の仲間達に知らせる。
『時香で無事ってのを知らせるのはどうだ?』
誰かが提案した。風に煽られないよう竹筒の中で特殊な線香を燃やす。それは30分ごとに刻まれた目盛りまで燃えると、小さな鉄球を筒の底に落とし、キンと音を立てる仕組みになっている。時香が30分を知らせるごとに、無事の知らせとしてドラを鳴らす。緊急時は連打する。
謁見の間では、玉座への階段の下で藩王が拱手を取っていた。橙巾党が足を踏み入れると、風呂に入っていない人間の体臭と汗と泥の臭いが空間を支配した。汚れてくたびれた衣服は貧民そのもの。だが、王に遥か遠い存在からここまで自らの足で来たのだ。藩王は、そのことに敬意を抱いた。
橙巾党も拱手を返した。本来ならば、平伏すものだ。逆かもしれない。王が入れ替わるのだから、藩王が平伏すのが正しいとも考えられる。
「新王の李氏はどなたか? 玉座に座られよ」
藩王はぞろぞろと所在無げに立っている11人を順に見る。
10人の目は先頭を歩いていた、橙色の旗を持っている少年に注がれる。治世だった。彼は言う。
「王はいません。今までも、自分らは話し合いでいろんなことを決めました」
そして、無精髭に塗れた男が玉座を指差す。
「こんな立派なとこに住んで、あんな高いとこに座ってるから、オレらのことが分からなくなる」
あまりに不敬な話し方に、宦官や控えていた者達はぎょっとする。しかし藩王は頷いた。
「左様。その通りだ」
背が低く、がっしりした男が草履の足を一歩出す。
「まず、そちらの要求に応じます。それから、オレらはぁ今日からここに住まわせてください。それと、申し訳ないが、財産は没収します。んで、知事に会いたいです。朝廷側との戦に備えたいから、地方軍事長官にも」
藩王が最も驚いたのは「申し訳ない」という言葉だった。財産どころか命すら奪われると思っていたのだから。同時に、橙巾党が勢いだけで攻めて来たわけでないと悟る。彼らは藩王が軍事や行政に携わっていないことを知っている。
そこで、竹筒を腰からぶら下げていた男がドラを持った男に合図を送る。
「失礼します。仲間へ知らせを送ることになっていますんで」
バーン
「どーも」
ドラを鳴らした男は、罰が悪そうにぺこぺこと頭を下げた。
ドラの残音が無くなってから、藩王は言葉を発した。
「其方達が要求を飲んでくれて感謝する。知事は、どこにいるのか分かりかねる。地方軍事長官なら、そちらの男がそうだ」
広間の隅に控えていた地方軍事長官は、一礼した。
橙巾党は小声で何やら話し始める。
「知事いないって、どーすんだっけ」
「しほーなんとかとかざいせーなんとか、碧、言ってなかったけ」
「碧はどーしたんだよ」
「おい、おい、まず戦の準備だろ」
そこで、治世が訪ねた。
「地方軍事長官殿は、我々に力を貸してくださいますか? それとも、朝廷に忠誠を尽くしますか?」
地方分時長官は迷わず答える。
「朝廷に忠誠を尽くします。ただ、この場では、藩王殿下の御身を守ることが最優先です」
「藩王殿下へ危害を加えるつもりはありません。これまでどおり贅沢三昧とはいきませんが、我々と同じ食事で、日々を過ごしてください。地方軍事長官殿、貴方の次に偉い人に会いたいのですが。どこにいますか?」
「駐屯地に」
「その人は、地元の人じゃないですよね。西安の人で1番偉い人を教えてください」
西安出身であれば、橙巾党に味方してくれる可能性が高い。
「地方軍事長官、案内してあげなさい」
藩王が地方軍事長官に命じる。
「はっ」
地方軍事長官は素直に治世ともう2人を伴って謁見の間を退席した。
残された面々は顔を見合わせる。
「あのぉ」と猫背の男がおずおずと口を開く。
「西安のこと、いろいろやってる偉い人って、どこにいますかね」
少々気弱に、彼は、藩王ではなく宦官に尋ねた。
「宮廷を出て左側に2つ建物がある。いつもはそこにいる。今日は特別だから、全く分からないが」
「ありがとうございます。行って来ます」
「ついでに、外にいるみんなに、無事だと伝えて来ます」
3人が出て行った。橙巾党は残り6人。老人がまとめる。
「ここで働く人らに、粗食になることと給金以外は変わらんと伝えて欲ください。不安な思いしとるだろう。それで、出て行きたければ出ていけばいい。あと、オレらに使っていい部屋をくださらんか。朝早くから動いて、もう疲れた」
宦官と共に、橙巾党が謁見の間を去った。
静寂が戻った広間で、藩王は、玉座を見上げ大きく息を吐いた。斬り捨てられると思っていた。そうでなくても、縄をかけられ、光のない地下牢で死を待つだろうと想像した。家臣達が殺されて床が血の海と化し、調度品などあらゆる物を強奪され、妃も侍女も辱めを受け、宮廷に火が放たれることまで覚悟していた。
彼らは、驚くほど平穏だった。
◇
「わん! わんわんわんわん」
広場の一角、碧が疲れて木陰で休んでいると、視界の中で狼の蘭の姿がだんだん大きくなる。突進してくる。
ぴょーん
どさっ
倒された。
「「うわっ」」「「きゃー」」
周りの人々が狼に逃げて行く。そんなことはおかまいなしで、蘭は碧を組み敷いたまま尻尾を振る。
「蘭、どーしたの。ちょっと、起きるから」
体を起こしても、蘭は碧に飛びつく。全身で喜びを表す蘭を、碧は一生懸命制する。
「わんわんわんわん」
「あー。置いてかれたの?」
「わん」
「かわいそうに」
「わん」
「私も1人なの」
「くーん?」
「一緒にいよっか」
「わん」
「おりこうだね」
ふりふりふりふりふり
蘭は尻尾を揺らす。
碧は、意を決して家を出たものの、未だ治世達に合流できず、「実は自分なんて必要なかったのかも」という自己否定に陥っていた。自己否定は碧の得意分野だった。現代において、他人から見れば輝くところしかない碧だったが、人との関わりで踏み込むことが苦手である。相手の悪意や不快感や遠慮を敏感に感じ取り、自分が相手といると楽しいという気持ちよりも、相手は自分といて楽しいのだろうかという猜疑心が常に湧いてしまうのだった。この時代でも、それは引き継がれてしまった。結果、橙巾党へも「私がやりたい」ではなく、「やっても構いませんか? 私なんかが本当にいいの?」という気持ちになってしまう。
すでに15時。
「家に帰りにくいよー」
「くーん?」
碧が気持ちを吐露すると、蘭は首を傾げる。
「山のアジトの方、行こっかな」
そこにはきっと、誰もいない。けれど、このままでは道端で寝ることになってしまう。それは避けたい。
その時だった。
「李碧! いた。いたぞ。おーい、いたいた」
人混みをかき分け、橙色の巾を被った男が碧を指差しながら走って来た。見知った顔。アジトに何度か来ていた。西安近郊の村の代表の1人だった。
碧は、隣でお座りする蘭の背中に手を回して男を見上げる。
「はい」
「いや、はいじゃねーし。すっげー探した。あいつら、手ぇ離せねーからさ、オレら、手分けして探してたんだわ」
碧は立ち上がり、ぱたぱたと衣服の土を払った。
「すみません」
「行こう」
「え」
「均田免賦と2年不納糧。碧がいなけりゃできないだろ」
──あ、泣きそう。
読んでくださって、ありがとうございます。
この小説の李治世は、李自成がモデルですが、史実とはかなり違います。
史実では、李自成は南部から軍を率いて、西安までガッチガチに戦いました。西安はほぼ無血であっさり陥落させました。年齢は37歳でした。




