結婚
プロポーズを断る選択肢は、茉莉にはなかった。相手は、上司であり山海関トップの御曹司なのだ。結婚話、側室話が山のように来る若き英雄、呉三魁である。欠点があるとすれば、堅物すぎるところのみ。結婚相手として申し分ない。
それでも、茉莉にはとてつもない不安があった。
帝都から帰着した日に、衆人環視のなかでプロポーズされ、拍手に包まれた。そして解散した。誰も返事を待とうとはしなかった。結婚はほぼ確。
夜。茉莉は、恥を忍んで杏花の部屋を訪れた。
杏花は、いつものツインお団子ヘアを下ろして三つ編みにし、ピンク色の可愛い寝衣を着ていた。部屋には蝋燭が灯り、テーブルの上に伏せた書物を脇へやる。タイトルからロマンス小説だろう。
「杏杏、恋愛の指南書的な小説ってある?」
茉莉はどう相談していいのか迷いながら、導入部の話題を探す。それに応え、杏花は嬉々として3冊をテーブルの上に置いた。そして、テーブルから身を乗り出し、大きな目で茉莉の顔を覗き込む。
「ね、兄上のことを話したいの?」
杏花は、茉莉が自分のところへ来るだろうと推測していた。周りは関寧鉄騎の無骨な漢ばかり。恋の相談などできるはずがない、そう考えていた。
「えーっと。結婚が、ちょっと」
「嫌なの? 私は嫌」
「え?」
「だって、今は兄上よりも私と一緒の方が姐姐は楽しそうじゃない。結婚したら取られちゃう」
と杏花は桜貝のような口を尖らせる。
「取られるって、そんな」
茉莉が言葉に窮していると、杏花はにこっと笑った。
「うふ。でもね、どーせお嫁に行くでしょ? だったら、兄上と結婚すれば、私は姐姐と今まで通り遊べるの。それとも、関寧鉄騎を辞めなきゃいけないか心配? それなら大丈夫。母上は父上と結婚しても官軍を続けてたから」
関寧鉄騎を続けることは茉莉にとって当然のことだった。世間では、結婚すれば家の中に入るのが一般的である。そのことをすっかり失念していた自分に、茉莉は驚いた。しかし、相談したいことはそれではない。
「んーっとね。私、子作りが……」
「え?」
わざわざ夜、部屋まで来たものの、未婚の杏花は閨房教育など受けていないのだと、茉莉は口を噤む。
「あ、なんでもない」
「子作りが分からないの?」
ボッ
音でも出そうなほど、茉莉は全身を赤くした。
「知ってる。知ってるし」
「だよね」
「あれって本当なの? 信じられないんだけど。杏杏、それは母上から教えられたの?」
茉莉はいじいじと両手の指を弄りながら、俯き加減で窺うように視線だけを前にいる杏花に向ける。
「母上じゃないよ。書物と、関寧鉄騎の人たちの会話の下ネタから」
手短に、茉莉は最も信じられない行為の部分が真実かを尋ねた。
「本当みたい。やったことはないけど」
「当たり前じゃん!」
「あれが嫌なの? 私としては、身内の兄上に関して、そーゆー部分を話したくないというか」
「だよね。やっぱ、ごめん」
潔く、茉莉はイスから立ち上がった。
「待って、姐姐」
去ろうとする茉莉の腕を杏花が掴む。
「え」
「座って」
「うん」
促され、再び茉莉は席に着いた。
「その行為を受け入れられないの?」
「そーなの! 変。珍妙。奇抜。異様」
「なるほど。素敵なことらしいんだけど。小説では」
「ええっ。いろいろ貸してもらったけど、ロマンス小説にそんな場面なかったよ」
茉莉の反応に、杏花はくすっと笑う。
「そりゃ、そーゆーのは、こっそり読んでるもん」
杏花は席を立ち、書棚から書物を取り出し、積み上げていく。と、その奥に更に書物が並んでいるではないか。
「もっとエロいの読む? 素敵に書いてあるよ」
「そーなの?」
「いろいろ。契兄弟、姉妹の情、男色(BL)、磨鏡(百合)、風月(情事)」
「なにそれ????」
「とにかく、自然なことみたい」
「へー」
初心者向けだと1冊を渡された。持つべき者は友である。
「中級者向けまでだったら貸せるかな」
「上級者のは?」
「その世界は奥が深くて、特殊なの。そーね。倦怠期になってから、もう一度言って」
「????」
とりあえず、教材をゲットした茉莉だった。
言うまでもなく、三魁は紳士である。茉莉のことを心から大切に想っているからこそプロポーズの言葉が出た。
翌日、三魁は、淡いピンクの蓮の花を抱えて茉莉の部屋の前に立った。
顔を洗おうと部屋の扉を開け、茉莉は固まった。渦中の人、三魁が、まだ夜明け前の薄暗い空気のなか、大輪の花を抱えて立っている。
「おはようございます」
「莉莉、おはよう。その。結婚の返事を聞きたくて」
前日、プロポーズの際、茉莉の気持ちなど誰も気にしていない様子だった。1人、三魁だけが自分のことを考えてくれていたことに、茉莉は感激する。まず、茉莉は三魁を好き。上司の御曹司で嫌とは言えない立場だが、本気で断るならば、西安に帰る覚悟がいる。そういった状況を鑑みても、答えは決まっている。
「よろしくお願いします」
「ホントに? 本当に?」
三魁は天にも昇る気持ちだった。
「はい」
「あ、これ。はい」
茉莉は蓮の花を受け取る。
「ありがとう」
「本当は、茉莉花の花を渡したかった。でも、もっと南にしかないから」
呉将軍一行が帰ったのは、昨日の夕方。花売りは店じまいをする時刻だった。茉莉は三魁の靴を見る。靴には汚れた痕がある。夏は日が長い。昨日、この花を自分で切りに行ったのだろう。
「嬉しい」
茉莉は胸の奥がこそばゆいような、妙な感覚を味わっていた。嬉しいと恥ずかしいと好きがマーブル模様のようになっている。
しかし、ラブな空気など婚儀には不要。即、西安へ文を書いた。文は茉莉、三魁、呉将軍、そして呉夫人からの4通。これは、特例で軍部の高速伝達機関、早馬によって速やかに運ばれた。西安の茉莉の両親から結婚の承諾書が届き次第、すぐに山海関で婚儀を行い、西安へ結納が運ばれ、同時に、呉夫人が花嫁道具の準備にとりかかる手筈になっている。あとは、茉莉が杏花から授かった教材で覚悟を決めるだけ。
西安からの返事には、少し時がかかった。それは、茉莉の花嫁衣装が、結婚の承諾の文と共にあったからだった。茉莉は布荘の娘。両親は、密かに、いつでも嫁げるよう、婚礼衣装を用意していた。まだ西安を離れて日が浅い。体のサイズは変わっていない。
木箱から現れた婚礼衣装は、誰もが息をのむほどの神々しさを放っていた。赤いサテン生地には孔雀の羽が織り込まれ、陽の光を浴びるとエメラルドグリーンに揺らめく。胸元から袖にかけて鳳凰の刺繍と共に真珠があしらわれ、裾には金糸の波模様がある。
そこには、両親の愛と、布荘の大商人だったプライドがあった。
茉莉は泣けた。
婚礼衣装は、正月や親族の大きな祝い事、公式行事に纏う女の戦闘服である。天下の名将の家に嫁ぐに相応しい一級品だった。
「三魁、貴方は素晴らしいご両親に、大切に育てられたお嬢さんをお嫁さんに貰うの。心して大切にしなさい」
呉夫人は、息子に言い聞かせる。
「はい。必ず幸せにします」
秋、2人の婚儀が執り行われた。
茉莉の日常生活は、夫の三魁と床を共にすること以外、全く変わらなかった。使用人がいるので家事は不要。大きな家の場合、妻が家計を預かることが多いが、呉家は、ほぼ自治区の王のようなもの。有能な経理士達から報告を聞くのことは、呉将軍が担っている。
呉夫人が行なっているのは、慶事弔事のときの挨拶の類。茉莉にはまだ出番がない。
心配していた閨房に関しては、小説の成果もあり、自然な生態として受け入れることができた。
◇
「結婚?! しかも、呉三魁と」
──ダメェェェェェエエエエエ。気をつけろっつったじゃん!
西安。文を読み、碧は打ちひしがれていた。歴史では、呉三魁は長城の山海関の門を開ける裏切り者なのだ。しかも、その理由は愛妾の陳円円。
碧は、茉莉にだけは辛い思いをして欲しくない。
──その前に別れて。4年以内に別れますよーに。
遠く西安の地で、碧は親友の破局を願った。




