水面に散る星と苑苑
帝都への道中、茉莉が任されたのは、鳩の世話だった。
クルックー クルックー クルックー
伝書鳩である。荷馬車の隅に6羽ずつ入れられた鳥カゴが3つ。文を運んでいる途中で鷹などに襲われたり、道に迷ったりする鳩もいる。戦況が変わるごとに飛ばすこともある。そのため、これほどの数を運ぶのだと教えられた。
伝書鳩は、帝都から山海関約300kmを、4時間ほどで移動する。早馬でも3日。圧倒的な速さである。
帝都で、呉将軍は無事軍議を終えた。
下っ端の茉莉は、宮廷前広場の城門外で待機していた。軍議の会議室は、広場に面した兵部(防衛省)内。参加するのは呉将軍のみである。会議室前には、呉将軍の刀を預かる、関寧鉄騎の側近1名。その他は兵部の建物にすら入れず、前庭で待機していた。
茉莉がいるのは、宮廷とそれら官庁を囲む城壁の更に外側。何かがあった場合に伝書鳩を飛ばす要員だった。
しかし、兵部内の様子は分からず、ただひたすら待つのみ。茉莉とともに待機する兵がもう一人いた。途中、兵部の前庭で待機していたメンバーが伝令に来た。
「この後、将軍は、皇帝陛下に謁見なさる」
「「はい」」
再び待機。日陰を求めて移動し、生ぬるくなった鳩の水を何度も変える。
「大丈夫かな」
「何事もなければいいのですが」
謁見に危機感を募らせながら、無事を祈ることしかできない部下達だった。
やがて、呉将軍を先頭に、兵部へ入っていた側近と前庭で待機していた面々が城門から出てきた。
「よかったな」
「はー。本当に」
ほっとしながら、茉莉は鳥カゴを馬の背にくくりつける。
「鳩を飛ばす。筆を」
呉将軍に言われ、茉莉は素早く紙と筆、墨を差し出した。呉将軍は自分が無事だった旨を記し、小さな筒に入れる。茉莉はそれを受け取り、3羽の鳩の足に小さな筒をつけて飛ばした。
「無事終わった。屋敷へ戻るぞ」
「「「「はっ」」」」
皆が将軍の後をぞろぞろと馬で進んだ。茉莉の馬の背には、まだ3羽の鳩がカゴに残っている。彼女は、その手綱を引いて屋敷まで歩いた。馬上で交わされる会話は、高さが違うせいか、意外と地を歩いている者に届きにくい。実はこのとき、関寧鉄騎の面々の間では、翌日の夜の接待について語られていたのだった。
接待会場は高級妓楼。帝都の妓楼は様々である。単にお姉さんがいて、あっは〜んなことをするだけの店ではない、格式高い店もあるのだ。そういった妓楼は、寸劇や音楽を楽しむ場所であり、一流の文人墨客が集う社交サロンのようになっていた。もちろん、奥では普通に、妓女が男性の相手をする。
「どうぞ皆さんでと言われたのだが。……断れば角が立つ。困った」
関寧鉄騎の面々は、心の中で「ひゃっぽーい」と喜んでいる。が、呉将軍だけは唇を一文字に結んでいた。妻も娘も一緒に来ているからである。
そして、呉将軍の屋敷は街の城壁の外。たとえ山海関で王のような暮らしをしていても、帝都では地方の武官にすぎない。帝都の地価は高い。
ところで、帝都は城壁だらけ。
① 帝都の街を囲む城壁
② 宮廷と官庁、宮廷前広場を囲む城壁
③ 宮廷の城壁
帝都の街を囲む城壁の門は日の出と共に開き、日の入りと共に閉まる。
妓楼に顔見せ程度に参加して帰るということができないのだ。城門が閉まっては帰れない。
──妓楼に行ったなどと知れたら、きっと一生、口を聞いてもらえない。
呉将軍は妻一筋の男だった。北方民族にならば勝てるかもしれなくても、呉夫人には勝てる気がしないのだ。呉将軍は守りの名将である。勝てぬ戦は決して挑まない。
──どうしたものか。……よし。明日、妓楼に向かう途中、体調を崩そう。そうしよう。
──ああいうところは苦手だ。何喋っていいのか分からん。
呉将軍は、言い訳のために、自分だけ特別に買い食いをしようと、目を皿のようにして衛生面の怪しい「腹を痛めそうなもの」を探しながら馬に乗っていた。そして、焼き鳥を買ったのである。
関寧鉄騎の面々は、翌日の勝負服で頭がいっぱいだった。もちろん、呉将軍に付き従っているときは無理である。買うとすれば翌日の午前中。大盟帝国随一の格式高い妓楼へ、どんなお洒落をしていくべきか、馬上から都会の若者達のファッションや店先に飾られている服を眺めていた。
翌日夕方。呉将軍一行は軍服を脱ぎ捨て、小綺麗な私服でそれぞれ自分の馬に乗る。
屋敷から出て数歩進んだところ、呉将軍は馬から滑り落ちるように下りた。
「くっ。なんだか腹が痛い。昨日のやきとりが傷んでいたのかもしれない。申し訳ないが、先方にくれぐれも宜しく伝えてくれ」
年長、40代の兵士に告げ、腹を押さえて屋敷に戻っていく。
9頭もの馬を連ね、関寧鉄騎は指定された妓楼へ向かった。誰もが浮かれていた。そして、やっと誰かが気づいた。最後尾の茉莉の存在に。
「茉莉、帰れ」
「「「えっ」」」
皆、茉莉がいることを忘れていた。当然、他の誰かが「来るな」と言っているだろうと、それぞれが思っていた。
「私ですか?」
「当たり前だ。妓楼だぞ」
「接待は仕事だと聞いています」
「いやいやいや。何するとこか知ってんだろ?」
「ええまあ。でも、しなくてもいいんですよね?」
「「「「いやいやいや」」」」
メンバーは、「お前は呉三魁か」と心の中でつっこんでいた。
「ですが先輩、もう門が閉まります」
帝都を囲む城壁の門は、日の入りと共に閉じられる。これを開けるなど、とんでもないこと。関寧鉄騎だなどと知れたら、クーデターを疑われ、いよいよ呉将軍の首が跳ぶ。すでに日没。
「どーすんだよ」「どーする」「女の客なんているのか?」「ないって」「あ!」
ざわざわと相談していると誰かが何かを思いついたように声を上げる。
「なんだ?」
「御者や輿を担ぐ人らの待機所があるんじゃね?」
「そーじゃん」
「そーだそーだ」
ということになった。待機所にも女性がいるとは思えなかったが、城門が閉まってしまってはどうしようもない。かといって、妓楼で接待を受けさせるわけにもいかない。何より、女性の前では羽目を外せない。茉莉は、自分の次に下っぱの先輩に、待機所へ連れて行かれ、放り込まれた。
妓楼の遊びは宿泊が基本。茉莉は、集まった者達に紛れてうとうとしていた。そのうち、夕食やら点心が振舞われる。
「美味しい! 香りもよくて、なんて上品なお味」
ほっぺたが落ちそうになっていると、側にいた御者や輿の担ぎ手が教えてくれた。
「帝都でも1、2を競う店だからな」
「ここに集まる連中は、帝都、いや大盟帝国一の金持ち達だ。たっくさん金を落とすから、オレらまでお零れに預かれる」
「そうそ」
「今一番裕福なのは、やっぱ山西商人らか?」
「いやいや。南部の貿易商だろ」
そんな経済の裏話に耳を傾けていると、誰かが待機所へ知らせに来た。
「おーい! 陳円円が船に乗ってくぜ」
待機所にいた男達が一斉に立ち上がる。
「陳円円だって?!」
「今日が身請けの日か」
「見に行こうぜ」
──陳円円。
茉莉は男達の後に続いた。
帝都の高級妓楼の多くは、水運の便がよい川沿いに建つ。妓楼の裏口にある石の階段を降りると、目の前には運河が広がっていた。豪華な船が浮かび、水面は川辺に並ぶ料亭や妓楼の窓灯り、煌びやかな船の灯りを映し、ゆらゆらと光が星のように散る。
華やかな桃色の衣装に身を包んだ艶やかな女性が、お付きの者に両脇を支えられ船にゆっくり乗り込んでいく。大きく結い上げた髪に何本もの簪を差し、細く華奢な首が大きな頭を支える。船の中には、錦の服を着た白髪混じりの男が見えた。
白磁の肌。優しげな切れ長の瞳。茉莉の記憶に深く刻まれている、紫苑の面影そのものだった。
──元気? ねぇ、苑苑。
──生きててよかったって、今、思えてる?
込み上げる涙で、茉莉の目の前の景色が歪んでいった。




