帝都へ行き決定
山海関、呉将軍の大邸宅。
広大な敷地にいくつもの棟が回廊で繋がる。壁面を覆うのは、軍の城塞と同じ、頑強な灰色の*青磚。柱や梁は太く逞しい木が使われ、渋い黒漆だけで引き締められている。本来ならば、池や築山があるはずの中庭は、馬の足腰を鍛えるための砂利が硬く踏み固められた演武場となっていた。無駄を削ぎ落とした古朴重厚な佇まいである。
呉家の朝は早い。
ぱしっ
「はっ」
中庭に木刀を弾く音と掛け声が響く。夜明けと共に、屋敷で暮らす若き関寧鉄騎の数名と杏花が武術を磨く。呉将軍もまた、自ら木刀を握り、手本を示した。
武術の稽古が一段落したとき、呉将軍は汗を拭きながら零した。
「朝廷から呼び出された。近々、帝都へ行く」
その場は静まり返る。西安から山海関へ来る途中、呉将軍は拝謁を済ませたばかりなのだ。それから3ヶ月しか経っていない。
「父上。お気をつけください」
三魁は父親を案じる。
崇和帝は非常に猜疑心が強い。官僚は次々と罷免され、時には一族ごと処刑される。重要ポストの任期は異常なまでに短く、誰も明日を約束されてはいない。関寧鉄騎を創設した袁将軍でさえ、その疑いから逃れられず処刑された。
「建前は軍議だが、本当のところは分からん」
呉将軍は厳しい顔をする。
緊迫した空気の中、杏花は木刀をバトンのようにクルクル回して弄ぶ。
「国境では、北に投降する者が増えていますものね。当然よ。命をかけて戦っても、国庫は空。報酬は出ず。あげく疑われ一族処刑。あちらへ行けば、厚遇される」
「杏杏、口を慎みなさい」
父親に嗜められても杏花はどこ吹く風。
「殿方は体面ばかり気にして口に出せないから、私が言ってあげるの」
今度は三魁まで悪い方向へ考える。
「父上、私も同行します。父上に何かあれば、お守りします」
「待て。三魁は来るな。疑いがかかっているならば、私と共に殺される。跡取りなのだぞ。よいか。万が一のことがあったら、山海関の城壁を閉じよ。官軍に、この要塞は落とせまい。北方民族からは命を賭して大盟帝国を守るのだ。そうすれば、やがて逆賊の疑いは晴れる」
最悪の事態を想定したのは、呉将軍だった。
朝稽古の後は朝食タイム。高貴な家では個食が基本。それでも杏花と茉莉は、毎朝同じ卓を囲んでいた。
「男ってやーねー。朝廷とか跡取りとか。殺されても疑いを晴らそうと義理立てするなんてイミフ」
杏花は匙を動かしながら、呆れるように言った。
「杏杏って、武官の家に生まれたのに、頭、柔らかいね」
「あーんなガッチガチの朝廷崇拝・体面重視を見てると、こーなるの。跡取りなんて言っちゃって。ま、関寧鉄騎を束ねる人が必要ってことだったら、その考えも分かるけど。家とか一族とか跡取りとか。変な価値観」
「あはは。杏杏は女の子でよかったじゃん。男だったら、そんなこと口に出せないもん」
茉莉は笑う。
杏花は「ね」と大きな目をきょろっとさせた。
「ん?」
「ね、ね、ね。私も帝都に行きたいんだけど。姐姐だって行きたいんじゃない? ほら、お友達」
杏花が帝都の侍女に送った文は、やっと届いたころだろう。
「まだ、いるかどうかも分かんないよ。3年も前に聞いた噂だから」
「私はね、行きたい! 都会だもん。街を歩きたいし、人気のお芝居も見たい」
そう聞いて、茉莉は心の中で「いえいえ、仕事ですからー」とつっこんでいた。
が、杏花はチャンスを逃さない女子だった。
その日の夕方、杏花はどこかから馬で帰ってきた。
「おかえり」
下っ端の茉莉は、厩で馬の世話をしていた。それは、ちょうど呉将軍が馬チェックに訪れるころ。呉将軍は馬好きである。日々、何頭もの軍馬に語りかけ、健康状態を見る。
「ただいま」
そこへ呉将軍がやってきた。
「お? 杏杏、どこかへ行っていたのか?」
「袁将軍のお墓に花を手向けてきました」
帝都で凌遅刑に処された袁将軍の墓はない。しかし、軍人の英雄を偲び、山海関の海辺に密かに供養碑が設けられているのである。
「突然、どうしたのだ。先祖にすら、ほとんど手を合わせないお前が」
呉将軍は娘の杏花を見る。と、
「父上っ」
ぽふっ
杏花は父親の胸に飛び込んだ。
「私は、私は、心配です。あれほど大盟帝国に尽くされた袁将軍が無惨な最期を遂げられました。辺境の地のことなど官僚や宦官に幾重にもガードされた皇帝陛下に正しく伝わりません。父上がもしも、そのような。ああ。とても口には出せないわっ。私、せめて、父上のお側に1日でも長くいたい!」
気持ちを吐露し、最後、涙声で訴える。呉将軍はそんな娘を優しく抱いた。目は涙に潤んでいる。
「娘よ。そんなにも父のことを思ってくれるとは。優しい子に育って、父は嬉しく思うぞ。しかし、親子なのだな。母上も同じように申しておった」
「……」
杏花は押し黙る。
「そうか。では、杏杏も母上と一緒に来なさい。少しでも長く、この父と一緒にいよう」
茉莉は、目の前で展開される美しい親子劇を眺め、先日、杏花から勧められたロマンス小説を思い出していた。
『辺境の地のことなど、官僚や宦官に幾重にも阻まれた皇帝陛下に正しく伝わろうはずがありませぬ。愛する貴方がもしも、あのような目に。嗚呼。とても口には出せないわっ。せめて私を、貴方のお側に1日でも長くいさせてください……』
杏花と茉莉が部屋に戻る途中、正面から杏花の母親、呉夫人が歩いてくる。そして、両親指を立てるではないか。それを受け、杏花も両親指を立てる。
「「きゃーー」」
2人は喜び合い「何着て行こう」「帝都では氷菓子を食べられるのよね?」「お芝居は絶対!」と盛り上がる。更には。
「母上、姐姐も一緒に行けないかな」
「どうなのかしら。同行するメンバーに入っているのかしら」
などと話し始める。
「いえ、私はいいのです。山海関を守るという重要な仕事がありますので」
丁寧に辞退するのだが、テンションの上がった2人に茉莉の言葉は届かない。
「そーねぇ。三魁だけいる屋敷に、嫁入り前のお嬢さんを置いて行けないってゆーのはどうかしら?」
呉夫人は人差し指を顎に当て、小首を傾げた。
なんと不自然な言い訳だろうか。たとえ呉将軍が屋敷にいる側近の関寧鉄騎の面々を連れて行ったとしても、使用人達が大勢残るのである。
「母上、私達が出歩く際の護衛として姐姐も一緒に行くのは?」
「そーね。それがいいわ! 決まり」
茉莉は心の中で首を傾げる。小さなころから武術の英才教育を受けた杏花の方が強い。そして、武官の家出身の呉夫人は、更に強い。どう考えても、茉莉が護衛される側になるだろう。が、最強の2人の前で小さくなることしかできなかった。
◇
呉将軍一行が帝都へ発つ数日前、帝都にいる侍女から文が届いた。
「姐姐」
文には、2年ほど前から、陳円円という女性が帝都で有名だとあった。即興で詩を作るのが非常に上手く、鈴を転がすような声で詠じるとのこと。後宮に召されてもおかしくないほどの美貌と教養を備えた纒足の妓女。但し、陳円円は南方の出身で、歳は19歳と記されている。
「19歳で南方出身だったら違うじゃん」
はぁと茉莉は溜息をついた。杏花はそんな茉莉を励ます。
「歳も出身も、妓女は本当のことを言わないって。当てにならないよ。それより、私、即興で詩を作るってところを信じるべきだと思う」
「だね」
返事をしながら、茉莉は思った。
──もしも。もしも、苑苑だったとして。何もできないよ。
まず、人気の妓女ならば会うことすら叶わない。会えたとしても、紫苑は茉莉に会いたいと思うだろうか。火事の中から救い出したことを謝るなど、相手の人生を否定することと同義。できないのだった。
*青磚レンガの種類




