山海関の海辺
空にウミネコが舞い、海岸に白波が寄せては返す。大きな波、小さな波。藍色のカーブが崩れ、透明の粒になって煌めく。
山海関は大盟帝国の東の果てである。現在、北の果てでもある。
「北の果てになっちゃったんだね」
海を眺めながら、茉莉がぽつりと言った。
「父を任務から外したからよ」
杏花は静かにうなずく。
茉莉は呉三魁の妹、杏花と海辺を歩いていた。
呉将軍が西安から山海関に戻されたのは、山海関以北が攻められ、北方民族の領土になってしまったからだった。北の国境付近には何重にも長城があり、かつてはそれぞれの間に、何十km、何百kmの間があったのだ。しかし、呉将軍が西安に赴任している間に敵はその防衛線を悉く突破し、領土を広げた。
「今、北方民族はとても勢いが増してるって聞いてる」
茉莉の耳にも戦況は届いていた。
「そうなの。そんなときに、父を山海関から動かしたから、大盟帝国はとんでもない被害を被ったの」
「呉将軍は、すごいね」
茉莉が褒め称えると、杏花は冷静に事実を述べる。
「命令系統がずたずただったの。父の代わりに山海関へ来たのは、呉一族と縁のない方。関寧鉄騎は呉一族の私軍でしょ? だから、使いにくかったのね。父は新しい方に指揮権を与えて西安へ行ったのだけれど、朝廷が『関寧鉄騎に支払う報酬がない』なんて言うから、出陣までに日にちがかかった。国防の危機に人事や中央の顔色を伺うなんて。戦は一刻を争うのに」
「だから杏杏が単独で戦地へ行ったの?」
身動きできない関寧鉄騎を見るに見かねて、杏花は「私を助けに来なさい」と関寧鉄騎が進撃する大義名分を作った。山海関へ行く途中でその話を耳にし、茉莉は三魁の妹の苛烈さに恐れ慄いていた。頭の中で、馬上で鎧を纏い、槍で次々に敵兵を薙ぎ倒す冷徹な女性を思い浮かべていた。
ところが、実際に会うと、ぱっちりお目々の可憐な少女だった。ファッションは、鎧どころか、淡い色やふんわり多めだった。
──きゃぴきゃぴ系でびっくり。
「帰ってから、母上に頬を叩かれた後、板でも20回ぶたれて、蔵に入れられちゃった」
杏花は肩をすくめて舌を出す。
三魁と杏花の母親は、駐屯地のおばちゃん達をそのまま上品にしたような人。とても板を娘に振り上げるようには見えない。が、中身は武官の妻なのだろう。
「関寧鉄騎のみんなは、杏杏がいたから参戦できたってありがたがってたよ」
「当然。」
杏花は桜色の小さな唇を尖らせた。
実際、杏花を助ける名目で関寧鉄騎が戦場に現れ、敵が退散した。
「杏杏、痛かった? 蔵で大変だった?」
「そりゃ痛かったわよ。だけど、蔵に閉じ込められたのは、行儀作法や箏の稽古をサボれてラッキー。1日中ごろごろしながら、差し入れのお菓子を食べてロマンス小説を読んでたの。最高の3日間よ」
可愛い見た目からは想像できない図太さである。
「差し入れしてくれるなんて、優しい侍女がいるんだね」
「だけじゃなくて、関寧鉄騎の人達もいろいろと。おかげで太っちゃって」
関寧鉄騎としては、目の前の戦に出陣できない理不尽さに憤り、杏花の行動はその突破口になった。それなのに杖刑&監禁。差し入れせずにはいられない。
そんな話をしながら、柔らかい砂の上をきゅっきゅっと2人で歩く。浜辺には波が繰り返しやってくる。茶色の砂が水の膜で太陽に輝き、波が引くと水を吸った砂肌が現れる。
「杏杏、もう、言っちゃうね。実は私、、、」
海辺は告白に似合う。何か気まずくなりそうでも、波がさらってくれる。茉莉は、言い出せなかったことを打ち明けた。
「なぁに、姐姐」
「私、杏杏と同じ年なの。姐姐じゃないの」
「そんなこと?」
茉莉にとって、そこそこ意を決した言葉は、杏花に軽く流された。
「え」
「知ってた」
「そーなの?!」
「きっと、兄以外はみんな知ってる」
「逆に、なんで三魁は知らないの?」
輜重隊に入るとき、茉莉は14歳では断られるだろうと思い、16歳とサバを読んだ。しかし現在は17歳。もう、実年齢など、皆にバレようがどうでもいい。不思議なのは、最も身近な三魁が知らないことである。
「兄は、『同い年だから敬語はいらない』って、嬉しそうにみんなへ言いふらしちゃったの。もう、誰も、本当のことを話せなくなってるの」
「タメ語が嬉しい?」
「姐姐が入るまで、関寧鉄騎では1番下っ端だったでしょ? なのに父の息子だから、みんな、丁寧に接するのよ。その忖度混じりの微妙な空気が嫌だったんじゃない?」
そこまで聞いて、茉莉は自分の態度を「マズい」と思った。茉莉は、炊事場に現れたり、武術の手ほどきをしてくれたりする三魁が、西安駐屯地のトップの御曹司だと知らなかったのだ。「同じ歳だからタメ語で」と三魁から言われ、そうした。実は御曹司だと知ったとき、急に接し方を改めることができず、今に至る。
「どーしよー、私」
「いいの、姐姐。本人が喜んでるんだから」
「そ? そーかな? 今更言葉遣いを変えにくくて」
「ふふふ。いーんじゃない? そのままで」
「あ、それで、姐姐って呼ばれるのは心苦しくて」
茉莉は正直に言った。けれど、杏花は両人差し指で×を作った。
「ダーメ。私が姐姐って呼びたいから」
却下されてしまった。
「なにそれ」
茉莉は照れ笑いする。
──三魁と結婚して「義理の姉」になってほしいからだよね。
そんな甘やかな期待が、潮風とともに胸をかすめていく。
お喋りはお洒落や芝居に及び、帝都の話になった。
「帝都にも家の屋敷があるの。姐姐が一緒にいるなら、私、そっちで暮らしたい」
杏花は、辺境の地、戦場の隣という立地で流行と無縁であることを嘆く。
「帝都、大都会でびっくりしたよ」
茉莉は西安から山海関へ移動するときに通った。
広い道の両側には、灰色の煉瓦に映える極彩色の看板を掲げた店々がひしめき、道を行き交う人の波は、西安の十何倍もの賑やかさだった。瀟洒な馬車が傲然と進む横を、天秤棒を担いだ物売りが甲高い声を出しながら走り、大道芸人の銅鑼の音が響く。大盟帝国中の富を一箇所に集めたかのような繁栄。その一方で、街の片隅には、飢饉から逃れてきたらしきボロを纏った難民や、泥まみれの裸足のストリートチルドレンがうずくまっていた。
帝都で茉莉は、馬に乗って歩きながら、大通りから脇道の遠くを見つめた。
──この街に苑苑がいるかもしれない。
3年経っても、茉莉の背中は、炎の中で苑を背負った重みを覚えている。それは残酷に茉莉の心に棲みついていた。
「姐姐、どうしたの? 悩みでもあるの?」
杏花は心配げに茉莉の顔を覗き込む。
「ね、帝都って、人、探せるのかな」
ついには、そんな言葉が茉莉の口から零れた。
「帝都にいる屋敷の者に頼みましょうか?」
「え。そんなことできるの?」
「話を聞かせて? 姐姐」
「友達なの。すっごく大きなお屋敷のご令嬢だったんだけど、訳あって、家が没落して。噂で、帝都の妓楼にいるって」
「……。妓楼……」
「すごく綺麗な子だったの」
「私より?」
杏花は目をぱっちりと見開いて尋ねる。
「タイプが違うかな。杏杏はかわいい系。友達は傾国美人」
「かわいい? かわいいって? やった!」
自分の両頬に手をやって、杏杏はにこにこする。
「あはは。仕草もかわいい」
「もう。姐姐ったら」
「友達は、ウチらと一緒の歳なの。毎日辛い思いしてるのかなって……」
「姐姐、探しましょう」
「名前は「言わないで」
茉莉が紫苑の名を口にしようとすると、杏花はそれを遮った。
「姐姐、妓女は素性を知られたがらない。出身地も。だから、本名なんて、探す参考にならないの」
「そーなんだ」
「意外と世間知らずなとこあるよね」
「ごめん」
「そこもいーんだけど。ね、それで、同じ歳以外に何かある? 歳もあてにならないもん」
「美人」
「他には?」
「詩を詠じるのが得意。すっごい雅なの。碁も上手かった。楽器も。箏も二胡も。字も綺麗で、すごく優しい話し方で。あ、刺繍もとっても優雅な色使いで綺麗で」
茉莉の賞賛が止まらない。杏花は、微笑みを浮かべて頷きながらそれを聞いている。
「姐姐は、その友達が大好きなんだね」
「うん!」
「妓楼の調査まではできないけど、帝都の屋敷にいる侍女に文を書いてみる」
「ありがと」




